「漂泊論」・39・「わからない」という荒野

知性とは、「わからない」という場から「わかる」という場にたどり着く運動であるのではない。「わかる」ということの「けがれ」を自覚して旅立ち、「わからない」という荒野にさまよい出る運動である。
だから、真に知的な言説は、「それはこうだよ」と結論を示してくれるのではなく、われわれを「わからない」という荒野に放り出してしまう。
人間の暮らしの文化や、人と人の関係のときめきは、つまるところ「わからない」という心の動きから生まれてくる。
「わからない」という心の動きを持っていること、これが人間性の基礎であるのかもしれない。人は、ここから生きはじめる。
しかし共同体の制度性は、「わかる」という心の動きの上に成り立っている。現代社会は、とりあえずそういうことにして生きていった方がうまく適合できる。
この世の中は、相手の人間のことをわかっているつもりで、ひとまず説得できる相手(説得してもらえる相手)とみなして付き合っている。
人間とは説得し合う生き物であり、人と人はそのための「言葉=規則」を共有している、と彼らはいう。
ひとまずそれはまあそうなのだろう、いちいち「わからない」といって怖がっていたら、誰とも付き合えない。
正しいか間違っているか、という判断ができないといけない。そのためには、その判断基準を「確信」というかたちで持っていなければならない。そんな「確信」など一種の狂気だろうと思えるのだが、まあ持っていた方が生きやすい。
それはたしかにそうなのだ。そうなのだがしかし僕は、誰も説得できる自信がないし、そうかんたんには説得されない。
この社会で人と一緒に暮らしていることは怖いことだと思う。いつどこでいじめに遭うかわからないし、共同体から排除されてしまうかもしれない。
この社会とうまく適合している人は、人とわかり合えるものだ、仲間になれるものだ、という前提で生きてゆけるのだろう。
でも僕は、誰ともわかり合うことができないし、仲間になることもできない。僕のような人間は、この社会から排除されなければならない。
しかし僕だって、人と出会えば笑って挨拶することができる。べつに、男にも女にもまったくもてなかったわけでもないし、世の中にも人間にも、それほどの恨みもない。
そうして僕よりももっと社会に適合できない人や制度性から自由である人は、僕よりももっと人間として魅力的で、僕よりももっと男にも女にももてて、もっと豊かに人にも世界にもときめくことができたりする。
社会に適合できる人間と、魅力的な人間とは、また別の話だ。社会に適合できれば、知性や感性が豊かにはたらくとはかぎらない。
社会に適合して意識を「わかる=確信する」という制度性に閉じ込めてしまうことは、むしろ知性や感性を限定してしまうことになる。だからその人は、たとえば内田樹先生のように、鈍くさくて考えることも薄っぺらだが口先だけで人をたらしこむことの上手な詐欺師みたいな人間であったりする。
社会に適合してゆけば、欲しいものが手に入ってそれなりにいい思いをすることができる。しかし、だからといってその人が魅力的であったり、この生を味わいつくしているともいえない。心が制度性に閉じ込められて、インポになったりさまざまな精神病理を引き起こしたりする。彼らは、そこにたどり着くことを目的として生きるが、人間の知性や感性は、そこから旅立ってゆくようにして豊かに深くはたらくようにできている。
人間は、作為的な共同体の制度性の中から生きはじめる。しかしそれは、そこから旅立って自然に遡行してゆくことをカタルシスとする生き物だからだ。制度性の「けがれ」を負っているから、そこから旅立ってゆくことがカタルシスになる。そうやって知性や感性が解放されてゆく。
どんなに社会に適合している人間であっても、そうしたプライベートな精神世界を持っている。
であれば、内田先生のように、「教育とは、子供を社会に適合できる大人に育て上げることにある」などということをいっていてもだめなのだ。そんなことによってその子供の精神世界は羽ばたき成長してゆくのではない。
先生は、「子供を社会の圧力から守ってやるのが学校教育の使命だ」などと言いながら、自分がいちばん子供に圧力をかけているのだ。内田先生みたいな人間になれば、社会的に成功する可能性もあるが、知性や感性が制限されているブサイクで鈍くさいインポおやじになることも覚悟しなければならない。ただもうきれいごとを並べて人格者ぶりながらこの世の中でいい思いをして生きていこうとしているだけの大人に。
そして世の中には、こういう下種な大人にかんたんに丸めこまれたり同調したりしている人がたくさんいる。
子供が成長することは、「大人」になることでも「子供」のままでいることでもない。
若者は、すでに大人よりももっと豊かな精神世界に羽ばたいている。それを守り育ててやることと、「大人にしてやる」こととはまた別のことだ。人間社会のイノベーションは「大人」の世界から羽ばたいてゆくところから生まれてくるのであって、どんな立派な大人になろうと、それ自体すでに人間としての可能性を失っていることなのだ。
まあ世の中は、人間としての可能性を捨てて立身出世してゆくという仕組みにもなっているのだが。
大人や教育者が、大人であることや教育の価値を振りかざすことほど醜くはた迷惑なこともない。
内田樹橋下徹だろうと、民主党自民党だろうと、原発反対派と原発推進派だろうと、その他もろもろの左翼と右翼だろうと、大人たちが主導権争いをしながら、平和やら正義やら豊かさの名のもとにやりたい放題やろうとしている。
大人たちがのさばりかえるばかりで、若者のムーブメントはいったいどこにあるのか。
どちらが正しいかということなど、どうでもいい。大人たちがのさばりかえっているということ自体が社会病理なのだ。
原発ということだって、大人たちはどうして自分たちの思う通りにこの社会を動かそうとするのか、僕にはまずそのことが驚きであり恐怖でありうんざりなのだ。
現代のこの国では、大人が大人であることのアイデンティティに執着して、若者の心が旅立ってゆくことを阻んでいる。
心が旅立ってゆくことは、「大人」になることではない。世の中の子供や若者たちが、何が悲しくてあんな鈍くさいインポおやじにならねばならないのか。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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