「漂泊論」・32・生きはじめる場

   1・終戦直後の状況を語る常套句
「生きるための戦略」などという。
終戦直後の日本社会は貧しかったが生きるための戦略とエネルギーにあふれていて、それが奇跡的な戦後復興につながった……一般的には、そんな言い方がよくなされる。
「貪欲なまでの生への希求」とか「戦後の高揚感」とか。
こんなのは、ぜんぶ嘘だ。
あれだけの艱難辛苦をくぐりぬけてきたのだもの、人々はぐったりと疲れ果てていたに決まっている。
高揚感があったのは、戦時中だろう。みんな「戦争に勝ちたい」とがんばっていたのだ。まあ、最後の方はボロボロだったらしいけど、少なくとも戦争をはじめたときは、多くの人々がやる気満々だったのだ。
生き延びるための戦略として戦争をはじめ、その戦争に負けたのだ。
だったら「もう生きるための戦略にむきになることなんかするまい、どうせおまけの命なのだから、一日一日をなんとかやり過ごせればいいや」という気分の人が多かったにちがいない。それが、平均的な庶民の気分だったのではないだろうか。
まあ、いちばんいきいきしてきたのは、戦争にも行けずに鬱屈した思春期を送らされてきた若い男たちだろう。彼らによって戦後社会はリードされて発展してきたのかもしれない。彼らには、例外的にあくなき生への欲求や戦略があった。
彼らがリードして、「生への希求」とか「生きるための戦略」などいうことが生き物の本性・本能であるかのような社会通念がつくられていったのかもしれない。
まあいつの時代もそういう根性の旺盛な人間が社会をリードする立場になってゆくのだから、そういう社会通念になってゆくのは当然の帰結かもしれない。
しかし大多数の庶民は「あくなき生への欲求」や「生きるための戦略」で生きていたわけではないし、そんなものは生き物や人間の本性・本能でもないのだ。
吉本隆明とか五木寛之とか石原慎太郎とか、いわゆる「昭和ひとけた」といわれる世代は、そういう生き延びようとする戦略意識や俗物根性が旺盛で、妙に不自然で恨みがましいところがある。
彼らは、戦争に行かなかった。そしてその復讐のエネルギーで戦後を生きはじめた。彼らにとって命は、「おまけ」のものではなく、これから取り戻すべきものだった。
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   2・制度的な思考
生き物に「生への希求」とか「生きるための戦略」があるなどという近代合理主義的思考は、いまだにこの社会にあふれている。
しかし終戦直後の日本列島の住民は、そんなふうに思考し生きていたのではない。彼らは、ぐったりと疲れ果て、生き物としての生の根源に遡行していった。そしてそこで彼らが望んだものは、「生きるための戦略」ではなく、この生をなだめるための「娯楽」だった。
謡曲、映画、プロレス、プロ野球ダンスホール、パンパン、赤線等々。
そのとき人々は、生き物は「娯楽」がないと生きられない、ということを知った。「生きるための戦略」が生き物を生かしているのではない。生き物が生きてあることができるかどうかということは、環境世界のしくみが決めていることであって、生き物は根源においてそんな戦略など持っていない。この鬱陶しい生をやり過ごすことのできる「娯楽=カタルシス」を必要としているだけだ。
すべての生き物は、根源において、今すぐ死んでしまってもかまわないかたちで生きている。生まれてすぐに死のうと100年生きようと、生き物の本能においては同じことなのだ。
卵からかえったウミガメの赤ん坊は、砂浜から海に出たとたん、99パーセントはほかの生き物に食われてしまう。それを、凡庸な生物学者は、「種族維持の戦略」としてたくさんの卵を産む、などという。ウミガメにそんな「戦略」などあるものか。ウミガメという種が生き残れるかどうかということは環境世界のしくみが決めていることだ。
この地球では、その生態がたまたま環境世界のしくみに適合している生き物が生きているだけだ。
生き物は、「生きるための戦略」としてそのように生きているのではない。みんな、そう生きるほかないかたちで生きているだけだ。
人間だって、同じさ。
自然の真実であるはずもない「生きるための戦略」などといういやらしい言葉をはびこらせているのは、いったい誰なのだ。それは、この社会の制度性となれ合っているものたちが、みずからの作為的な生き方を正当化するために捏造しているだけなのだ。
しかし現在は、そういうもの言いが社会的な合意になっていて、誰も疑おうとしない。そこがなやましいところであり、そこに、この社会の病理が潜んでいる。
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   3・かなしみとともに環境を受け入れてしまうカタルシス
「生き延びるための戦略」として反原発を叫ぶことだって、なんだか病的だ。この「反」という言葉が、病的である。その強迫観念を誰もが持たねばならないなんて、一種のファシズムだ。
この世界に原発が存在することは、すでにもう、われわれにはどうすることもできないこの地球の環境のひとつになってしまっている。人間には、環境を受け入れてしまうカタルシスやかなしみがある。そのようにして、東日本大震災の被災者の人々はがれきの中に立ちつくしていた。それに対して、そこで発狂してしまうような病的な心が、反原発を叫んでいる。戦後の繁栄が、そういう病的な心を生みだした。
人間が生き延びねばならない理由はない。生き延びねばならない理由はないということを受け入れて、人は生きはじめる。そして、死んでゆく。
終戦直後や震災直後のがれきの中に立ちつくす人に、死者を悼む心があれば、人間の生き延びねばならない理由なんか思うことはできない。
人は、死者を悼むところから生きはじめる。そして、死んでゆく。人類の歴史は、そのようにして流れてきた。
おまえらには、死者を悼む気持ちがなさすぎるんだよ。人間を生かしているのは死者を悼む気持ちであって、生き延びようとする欲望や戦略ではない。
それに、反原発を声高に叫べば叫ぶほど、人々の核アレルギーによる差別意識がさらに進行して、福島や大飯原発周辺の住民はますます肩身が狭くなってゆくことだろう。
まあ、正義はあなたたちのもとにあるのだし、そういう声もなければ無知で強欲な原発推進派がのさばりすぎるということもあるのだろう。
とはいえ、かんたんに「生き延びる戦略」などといってくれるな。そんなことばかりいっていると、この社会の痴呆症的傾向が進んでゆくばかりだ。
人間の文明や文化は、そんな戦略の上に成り立っているのではない。
あなたたちは、そんなことを合唱しながら、文化や文明の崩壊に加担しているのだぞ。
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   4・終戦直後とバブル以降
終戦直後の社会だって「生きるための戦略やエネルギー」があふれていたのではない。人々は生の根源(=人間の自然)に遡行していったからこそ、そんな執着やルサンチマンとは無縁だった。
かんたんに「生き延びる戦略」などという言葉に飛びつくなよ。そうやってじぶんたちの作為的で制度的な思考を正当化しているだけじゃないか。そういう言葉で生き物の自然が語られているかぎり、近代合理主義もグローバル資本主義も安泰だし、この社会の追いつめられているものたちがなだめられることもない。
もしかしたら、戦争の高揚感もバブルの高揚感も同じ要素はあるのかもしれない。違うところは、そのあとにもうこりごりだと思うか、夢よもう一度と思うかということだろうか。そうして、人々が耐乏生活に慣れていたのと、耐乏生活ができなくなってしまっているのとの違いもある。
終戦直後の大人たちは生の根源(=人間の自然)に遡行していったし、現在の大人たちは、そこから逸脱したまま糸の切れた凧のようになってブサイクな顔をさらし続けている。
終戦直後は「生きるための戦略やエネルギー」にあふれていたのではない。「ぐったりと疲れ果てる」という「けがれ」の中に身を置き、人々はそこから生きはじめたのだ。
そして現在のわれわれは、経済繁栄とともに「けがれの自覚」を捨ててきてしまった。それはつまり、「生きはじめる場」を失ってしまっている、ということだ。
「生きはじめる場」を失っているから、生き物には「生きるための戦略や衝動(本能)」が先験的にそなわっている、というような思考をしなければならなくなる。それが真実であるのならそれでもいいのだが、そうではなく、そんなりくつなど制度によって捏造されたただの絵空事にすぎないから、誰もが何かわけのわからないような閉塞感に陥ってしまっているのだ。
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   5・生きはじめる場
人間は、「けがれの自覚」から生きはじめる。それが、直立二足歩行の開始以来の伝統なのだ。「けがれの自覚」こそが、「生きはじめる場」である。
内田樹先生や上野千鶴子氏のように上機嫌で元気溌剌なら生命力にあふれているとはいえないのである。現代社会の大人たちは、上機嫌で元気溌剌にふるまいながら、生命力を失っている。だから、歳をとるとインポになったり歩けなくなったりする。
歳をとれば歩けなくなるのは当たり前だ、とはいえない。われわれ人類にはまだ、どんなに長生きしようと最後の瞬間まで歩きつづけることができるという希望は残されているのではないだろうか。直立二足歩行とは、そういう体力がなくても歩ける歩き方なのだと思う。
それはたぶん、観念的制度的な「欲望」の問題ではなく、身体的なホメオスタシスや無意識的なカタルシスの問題なのだ。人間は、そういうホメオスタシスカタルシスとともに歩いているのであって、「欲望」や「戦略」や「体力」で歩いているのではない。
つまり人間は、二本の足で立っていることの「けがれ」をそそぐようにして歩いているのだ。
人間が二本の足で立っていることはひとつの「けがれ」であると同時に「生きはじめる場」でもある。
現代人の観念は、「生きはじめる場」を失って、「生きるための戦略」などという空論を捏造し、因果なことにすっかりそれを信じ込んでしまっている。
生き物に「生きるための戦略」などないのだ。
ただもう「生きはじめる場」に立ってしまっているだけのこと。
終戦直後の人々は「生きはじめる場」を持っていただけのことであって、「生きるための戦略やエネルギー」にあふれていたのではない。
それはむしろ現代人の問題で、われわれは「生きるための戦略やエネルギー」はたっぷり持っているのに、「生きはじめる場」を喪失して、得体のしれない閉塞感に陥ってしまっている。
いまどきの老人がかんたんに歩けなくなったり、騒々しい中年オヤジがインポになったり、傷ついた若者が引きこもってしまったり、授業中の小学生が落ち着きをなくしてしまったり、われわれは今、「生きはじめる場」を見失っている。
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【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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