祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」58・不安を生きる

すべてが存在するはずがないのに存在すると感じてしまうこのうっとうしさはなんなのか。
死ねば楽になれる……あなたは、そういう約束を深く納得できるか。
存在を信じるから生きられるのではない、存在しないということを深く納得できるから生きられるのだ。
あなたは、納得できるか。
存在することなんか、うっとうしいだけだ。そんなものを他愛なく信じてしまうから、生きることも死ぬこともできなくなってしまうのだ。
それは、インポテンツの状況である。
みずからの身体が「存在しない」ということを深く納得する体験として、ちんちんが勃起するのだ。
あなたの身体にときめいて、みずからの身体に張り付いた意識が引きはがされる体験として、すなわち「存在する」と感じてしまうこのうっとうしさ(穢れ)が浄化される体験として、ちんちんが勃起するのだ。
それは、「私は存在しない」という体験なのだ。
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誰もが、けんめいに「生きられる意識」を手探りしながら生きている。
「幸せ」が「生きられる意識」だというのなら、幸せでなければ生きられない、ということか。
そんなもの、ただのインポの思想じゃないか。
不幸を生きることができなければ、「生きられる意識」とはいえない。
そして、不幸を生きることによってちんちんは勃起するのであり、カタルシス(浄化作用)という快楽を体験することができるのだ。
不幸でなければ、カタルシスなんか必要ない。
人間は、「穢れている」という自覚を背負っているから、カタルシス(浄化作用)を体験する。
不安を背負って生きているから、「かわいい」とときめく。
われわれは、存在そのものにおいて、すでに穢れている。
そういう自覚を持っていないから、ちんちんが勃起しないのだ。
幸せだからインポになるのであって、不幸だからではない。
不安を背負ってちんちんは勃起してくるのだ。
内田樹先生、あなたが自慢げに説く「生きられる意識」が説得力を持つためには、あなたは誰よりもダイナミックにちんちんが勃起するおじさんであらねばならない。
あなたがその歳で恋をして結婚したというのなら、「人生においてセックスはおまけみたいなものだ」なんてことはいってはならない。そうやってちんちんが勃起しないことを正当化するような言い方はするべきではない。
結婚をしたことを自慢するなら、恋をしてちんちんが勃起することも自慢しろ。
結婚という「儀礼」こそいちばん大切なものだといって、自分のちんちんが勃起しないことを正当化する。「儀礼」をいちばん大切にすることがあなたの「生きられる意識」であるとしても、それこそが「生きられる意識」の根源であるかのようにいうのは、ちと虫が良すぎる。
あなたはかつて、「セックスのことばかりいうな、そんなことはたいした問題じゃない」という論理で、上野千鶴子氏などの社会学者をさんざんののしっていた。
そして今「家族のいとなみの本質は<儀礼>にある」という。
ちんちんが勃起できなくてもいいさ。セックスなんかしてもしなくてもどちらでもいいことさ。
しかし、セックスに耽溺して生きている人や死ぬほどセックスをしたいと思っている人をさげすむような言い方はするな。
ちんちんが勃起できないでセックスしないのがいちばん幸せでまっとうな生き方であるかのような言い方はするな。
あなたの「家族の本質は<儀礼>にある」という言い方には、ちんちんが勃起しない人間のある屈折したサディズムが見え隠れしている。
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家族の「儀礼」が、家族の幸せつくる。それはまあ、そうかもしれない。
お父さんが給料袋を持ってくるのも、家を建てるのも、まあ「儀礼」のようなものだ。
みんなで遊園地に出かけることだって、家族の結束をはかる「儀礼」だといえる。
しかしその幸せを第一義とすることによって家族の心そのものがしっかりつながりあうかといえば、それはまた別だろう。
高度経済成長期の親たちはそのことを十全に執行したにもかかわらず、「家族の崩壊」という事態をまねいた。
儀礼」をおろそかにしたから家族の崩壊をまねいたのではない、「儀礼」を第一義として家族のひとりひとりを追いつめていったから、家族も儀礼も崩壊していったのだ。
内田さん、あなたはその論理で奥さんを追いつめ娘を追いつめしたから、二人とも逃げていったのですよ。
家族における「儀礼」と「心のつながり」は、反比例する。
家族とは、夫婦関係であれ親子関係であれ、もともと心と心のつながりからスタートする場所である。
儀礼など必要のないところに儀礼を持ち込み、儀礼こそが第一義であるかのような空間にしてしまうことによって、心と心のつながりが崩壊してゆく。
儀礼によって心と心がつながるのは、心と心がつながっていない関係においてだ。赤の他人と仲良くなりたいのなら、まず贈り物をしたほうがいいだろう。儀礼にはそういう機能があるが、はじめから心と心がつながっている関係においては、それがかえって心と心のつながりを崩壊させるものになる。
だから、「今夜は無礼講だ」などという。
家族なら、なおさら儀礼が無用な空間であらねばならない。
長い年月を経た夫婦ならセックスなしの「儀礼」だけの関係でも成り立つが、新婚さんの場合はそうもいかないだろう。
結婚式を派手に挙げたカップルほど、セックスレスの新婚生活になりやすい。結婚式で安心という幸せを確認してしまったからだ。
性衝動は、生きてあることの不安から起きてくる。
家族問題とは、ちんちんが勃起するかどうかという問題なのだ。
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内田先生には、生きてあることの不安と向き合うことのできる心の動きがない。だから、「儀礼」が第一義のものになるのだろう。
生きてあることの不安と向き合うことのできるものでなければ、ちんちんは勃起しないし、恋はできない。
恋をできないものはさっさと結婚してしまうのがいちばんなのだろうが、はたして儀礼と幸せだけで家族生活をいとなんでゆけるか。
生きてあることの不安を持っていない親や亭主ほどうっとうしい存在もないし、生きてあることの不安を処理できない親や亭主ほど恐ろしい存在もなく、DVが起きやすい。どちらも、生きてあることの不安を生きられない存在なのだ。
生きてあることの不安と和解し、生きてあることの不安それ自体を生きること、それが「生きられる意識」だ。
生きてあることの不安からカタルシス(浄化作用)をくみ上げてゆくことができる意識、それが「生きられる意識」だ。
セックスだけのことじゃない。生きものが生きることは、根源的にそういうかたちになっている。そしてだからこそ、ちんちんが勃起するかどうかは、けっして内田先生があなどるほど小さな問題ではない。
勃起できなくてもいいが、居直るな、残念だと思え。なぜならそれは、「生きられる意識」の問題を含んでいるからだ。
それは、存在論の問題なのだ。だから、哲学者は、伝統的にみなスケベだ。ニーチェマルクスは梅毒で狂い死にしたし、フーコーエイズで死んだ。内田先生のようなえせ哲学者ばかりが、ご清潔に生きていらっしゃる。
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人は、生きてあることが不安だからインポになるのではない、インポになったときに生きてあることの不安が押し寄せてくるのであり、生きてあることの不安を生きられないからインポになるのだ。
この生は、生きてあることの不安を生きるほかないようにできている。誰もが、根源においてはそういう危ない綱渡りをして生きてあるのだ。
この生は、不安の上に成り立っている。不安を生きられないのも病理だが、不安から逃れてしまうのも病理であり、われわれはもう、不安そのものを生きるしかない。不安そのものを生きることによってしか、生きてあることの醍醐味はくみ上げられない。
結婚して家族をいとなむことが生きてあることの不安を消してしまうことであるのなら、そりゃあ亭主はインポになってしまうし、家族間の心のつながりもどんどん崩壊してゆくほかない。
70年代以降の「ニューファミリー」は、そうやって家族のいとなみに挫折したのだ。
生きてあることは、楽しくハッピーであればそれで万事OKというわけにはいかない。
われわれの根源の意識は、楽しくハッピーでありたいという観念を裏切って、勝手に不安や苦しみに取りついてしまう。
家族が、不安や苦しみそのもを生きるトレーニングの場でないのなら、子供たちの心はどんどん離れてゆくし、家族から巣立ってゆけない。
「ニューファミリー」の家族は、楽しくハッピーだったから挫折したのだ。
家族は大切なものであるという、その思想によって挫折したのだ。
親たちがどれほどそんな価値にしがみついても、子供は不安そのものを生きているのであり、その違和感によって心が親から離れていってしまう。また、そんな価値にしがみつくから、子供を不安そのものを生きられない人間にしてしまいもする。それは、生きてあることのカタルシスをくみ上げられない人間にしてしまう、ということだ。
酒鬼薔薇事件や秋葉原事件は、そのような家族が生み出した。
あの少年やあの若者は、この生における一種の「インポテンツ」を抱えていた。不安や苦しみからカタルシスをくみ上げられないという、そのインポテンツ(性的不能性)から、彼らのサディズムが起きてきた。
彼らは、「家族」という制度によって奪われたみずからの性的能力、すなわち「ときめく心」を奪い返そうとした。
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獣のように性的能力が旺盛だからサディズムが起きてくるのではない。やりたい気持ちとやることのできる能力の欠落との落差にいらだってサディズムが起きてくる。
内田先生が「世のため人のため」といって世の中や人を変えようとするのは、世の中や人に対するサディズムである。みずからのインポテンツ(ときめく能力の欠落)に対するいらだちなのだ。
内田先生は、家族関係に挫折してときめく能力を喪失した。それが、サディズムの源泉なのだ。
現在、内田樹先生がそのみずからのインポテンツを正当化する言説によって人気者のオピニオンリーダーにおさまっているということは、この社会が、そういうサディズムを共有する空間になっているということを意味する。
家族関係に挫折したクレーマーだらけの世の中じゃないか。彼らは、家族関係に挫折しつつ、家族に執着している。彼らは、そのクレーム行為(サディズム)によって、家族の結束を取り戻す。それは、家族の結束という「儀礼」に執着する「制度的意識」である。
しかしそういう傾向の社会だからこそ、同時に、「かわいい」とときめいてゆくムーブメントも起きてきた。それは、若者たちが見つけ出した「生きられる意識」である。
秋葉原事件の若者は、みずからのインポテンツなサディズムと、抑えきれない「かわいい」というときめきとに、心が引き裂かれていたのだろうか。彼は、勃起の能力に自信がないために、オナニーとかフーゾクに行くとかということをあまりしなかったのだろうと思う。射精してしまえば、「殺してやる」というサディズムもいったんはおさまるのだが。
射精直後の男ほど情けない存在もない。しかしそれはそれで、ひとつの浄化作用なのだ。
ちんちんが勃起するということをばかにしちゃあいけない。勃起しようとしてサディズムが起き、避けがたく勃起してしまうものは「かわいい」とときめいてゆく。
なんのかのといっても、内田先生だって勃起したがっているのだ。
「オー・グレイト」と感動する欧米の社会は「勃起しようとする文化」であり、「かわいい」とときめいてゆく日本列島は「勃起してしまう文化」である。
現在のこの国の住民は、欧米から輸入されたグローバルでサディスティックな近代意識と、日本列島ほんらいの小さきものにときめいてゆく歴史の水脈との、二つの対照的な意識を同時に生きている。