祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」59・恋している

町を歩いている中年過ぎの男や女の、人生に疲れたようなあのどんよりとした顔つきを見て、「ひどいもんだなあ」と思ったことはありませんか。
俺もあんな顔をしているのかと思うと、ぞっとする。
人前では、用心して誰だってそれなりに顔をつくる。しかし、ひとりの無防備になっているとき、つい正体をさらしてしまう。
あれが、大人という人種の正体なのだ。
世界に対する反応を失って、自分の観念世界に沈んでしまっている。
若者は、どんな若者だって、あそこまで陰惨な顔にはならない。
少なくともやつらよりは世界に反応しているから、もっと生気があるし、もっと無邪気である。
体ごと世界に反応して生きている若者の表情は、無防備なときこそもっとも美しく魅力的である。
二十歳を過ぎてもまだ少年や少女のような顔をして町を歩いている若者がいる。そういう顔と出会うと、目が覚めたような心地になる。
大人になることなんか、自慢できることでもなんでもない。汚れてみすぼらしくなってしまうだけのことじゃないか。
大人の分別とかたしなみとか知恵とか教養とか、そんなものが何ほどのものか。
世界は輝いている。
他愛なくときめくことができればいいだけのことさ。
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島倉千代子の歌。
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作詞・西沢爽  作曲・市川昭介  昭和36年
「恋しているんだもん」
1 小指と小指 からませて 
  あなたと見ていた 星の夜 
  地球も小っちゃな 星だけど 
  幸福(しあわせ)いっぱい 空いっぱい  
だって だって私は  恋しているんだもん
2 仲よしげんか して通る 
  いつもは楽しい 散歩道 
  ごめんなさいねと いえないで 
  涙がいっぱい 胸いっぱい 
  だって だって貴方に  恋しているんだもん
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こんなもの恋のうちに入らないというべきではない。
恋なんか、こんなものなのだ。
抱き合ってキスして、セックスして、セックスがエスカレートしてSMプレイにたどり着く。そこまでしないと恋とはいえないのか。
初恋の少年少女の胸がきゅんとなる体験と、濃密なSMプレイと、どちらに深いエクスタシーがあるかといえば、そんなものどちらともいえない。
自分の観念世界に沈んで世界や他者に対する体ごとの反応を失ってゆけば、SMプレイにたどり着くほかないだろう、というだけのこと。
恋をすればするほど恋に鈍感になってゆく、という不条理がある。
最高のSMプレイよりももっと深いエクスタシーをともなった他愛ない恋もある。
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内田樹先生、自分のインポを正当化して「人生にはセックスよりも大事なものがある」といいたいのなら、これくらい他愛なくときめいてみろ。
これくらい他愛なくときめいていれば、生きてあること自体がエクスタシーだろう。
ときめいていれば人は生きられる。これが、「生きられる意識」だ。
「セックスよりも大事なもの」とは、そういうものだろう。
ときめく心の動きが、人を生かしているのだ。
べつに、高邁な理念や倫理が必要なのではない。
しかし、この世はままならないもので、そういう「ときめき」は、「生まれてきてしまったことの不幸」を自覚するところから起きてくる。
明日死んでしまう人が、もっとも深くこの世界(自然)にときめいている。
病気になれば、誰だって、草の緑さえ目にしみるようになる。
「生まれてきてしまった不幸」を自覚することが、「生きられる意識」だ。
われわれは、生きられない意識で生きている。
「生きられない意識」が「生きられる意識」だ。
他愛なくときめいているものたちは、生きられない意識を生きている。
だから彼らは、無力なのだ。
無力なものほど、この世界にときめいている。
「セックスよりも大事な」理念や倫理や生きがいなんかを語りたがるものほどインポになりやすいのであり、それは「生きられる意識」の喪失なのだ。
生きるために必要な意識などない。生きられない意識が生きられる意識であり、生きられない意識が生きられる意識になってしまうから、生きてあることがしんどいのだ。
死にたいと思ったら死んでしまえるほど、人間はかんたんな生きものではない。
人間は、死にたいと思って死ぬのではなく、死のうと決心して死ぬのだ。
死にたいと思うことは、「生きられる意識」なのである。
死にたいという思いを持っていないやつに、生きてあることの醍醐味はわからない。
死にたいと思って眺める空の青さがどんなに輝いているかということは、やつらにはわからない。
無力な病人や子供の目に映る空の青や海の青は、われわれが眺めるそれよりもずっと輝いている。
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胸がきゅんとなることが、恋(セックス)の基礎であり、究極なのだ。そういう心の動きから無縁になったものが、えげつない変態プレイに走らねばならなくなるのだし、「人生にはセックスよりも大事なものがある」などとしゃらくさいことをいって自分の鈍感さを補おうとしている。
インポテンツな思想家のいうことは信じられない。
内田樹先生は、「人間は死ぬからこの生が大切でいとおしいものになる」というようなことを言っておられる。
「この生は大切でいとおしいものだ」なんて、まったくインポの論理だ。
ティッシュペーパーよりも薄っぺらで安直な生命観だ。
先生のおことばを借りれば、まさにステレオタイプな「定型の思考」だ。
このていどのことくらい、そのへんにうじゃうじゃいる俗物の大人たちがみんなしていっているじゃないか。
人間は、この生が大切でいとおしいから生きているのではない。生まれてきてしまったことが不幸でいたたまれないから、生きてあるのだ。その不幸の自覚といたたまれなさが人間を生かしてしまうから、生きてあるのだ。
まあ、ちんちんの立たない人生を生きるつもりなら、大切でいとおしいものでけっこうなのだが。
世界の輝きにときめいて生きているものは、誰もが、どこかしらで、生まれてきてしまったことのかなしみといたたまれなさに浸されている。この生は大切でいとおしいものだという認識なんぞ、俗物どものたんなる社会的合意にすぎないのであり、それを制度的思考ともいう。
ちんちんが勃起しないやつらは、そういうことにしないと生きられないのだ。
つまり、生きてあることの醍醐味を知らないから、生きようと欲望しないと生きられないのだ。欲望するためには、この生は大切でいとおしいものであらねばならない。
しかし、この生のかなしみといたたまれなさに浸されてあるものは、不可避的に世界の輝きにときめいているから、欲望しないのに生きてしまう。彼らにとって生きることは、欲望することではなく、「結果」に過ぎない。
インポのやつらばかりが、生きることに欲望し、生きることは大切でいとおしいものだとほざいている。
俗物め。
生きることがそんなにも大切でいとおしいものなら、死ぬわけにいかないじゃないか。
死ぬことは、大切でもなくいとおしくもないものなのか。
人間が、心の底で死ぬことをどんなに大切にいとおしく思っているか、おまえらみたいな思考停止した俗物にはわからない。
生まれてきてしまったことの不幸といたたまれなさに浸されてある人間にとって、それは、ある意味でもっとも大切な切り札なのだ。
だから人間は人殺しの歴史を歩まねばならなかったのだし、今ごろの若者の「どうして人を殺してはいけないのか」という問いも生まれてくる。
死を最後のよりどころとして生きている人のかなしみやいたたまれなさなど、おまえらみたいな低脳の俗物にはわからないだろう。
まったく……。