祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」60・美的生活

けっきょく同じじゃないかといわれそうなのだが、やっぱり違うのだ。
内田樹先生はこういう。
「人間は滅びる存在である。滅びることを思いながら生きることによって、現在の目の前のものがより大切でいとおしいものになる」、と。
生きることの価値は死ぬことの価値によって担保されている……そうやって死を思いながら生きることを「美的生活」といい、そうやって生きてらっしゃるんだってさ。
死を思っている自分(の生活)にうっとりと酔いしれていらっしゃる。
何いってやがる。「美的生活」などというものはない。自分の生活なんかひどいだけのものだ。そう思うから、世界が輝いて見えるのだ。
滅びるから美しいのではない。ただ「美しいものがある」だけのこと。
生まれてきてしまったことの不幸に浸されてあるものは、その対象を、存在そのものにおいて無条件に「美しい」と思う。
たとえば、
十八歳の若い娘を美しいと思う。
その美しさは、やがて滅びる運命だと思うからか。
内田先生はそういう視線で若い娘を見ていらっしゃるのだとか。
しかしねえ、やがて滅びるかどうかなどわからないじゃないか。未来のことなど誰もわからない。彼女は明日死ぬかもしれないし、もしかしたら永久に今のままかもしれない。そんなことは、誰にもわからないのだ。
彼女がおばさんになった顔を想像して、その顔と比較して今が美しいと感動するのか。内田先生は、そうやって彼女を見て、今の美しさがいかに貴重でかけがいのないものかと感動しているんだってさ。
悪いけど僕はあほだから、そんな未来などよう想像しない。
いま目の前にあるその顔がすべてだと思う。
過去も知らないし、未来も知らない。
ほんとに僕は、彼女を目の前にして、彼女がおばさんになった顔なんか想像することができないのだ。
そこにその顔があることに驚きときめいているだけだ。
やがて滅びるものかどうかなんてわからない。
花を見ても、そうだ。
それが、やがて枯れてしまうものだなんて、ぜんぜん想像できない。
しおれてきて、はじめて「ああ、しおれてきたな」と思うだけだ。そして、盛りだったときの姿は、もう半分忘れている。そうしていつの間にか、しおれている姿そのものをすべてとして向き合っていたりする。もちろん、さらにしおれてなくなってしまうことなんか、まるで頭に浮かばない。
考えてみたら、彼女を目の前にして、それが今ここだけのものでやがて滅んでゆくのだという目で見るなんて、すごく失礼な話ではないか。そういう目で見られて、彼女はうれしいだろうか。彼女自身が自分はやがて滅んでゆくと自覚しているとしても、人からそう見られたいだろうか。
そんな視線など、あわれんでいるのと同じじゃないのか。
気持ちいいのは、あわれんでいる当人だけだ。
そうやって自分の気持ちよさをまさぐっているだけの話じゃないか。
僕は、気持ちよさなんか、「ああ気持ちよかった」と過去形でしか体験できないものだと思っている。気持ちよさは、自分を忘れている瞬間のことだから、けっしてリアルタイムでは体験できないものだと思っている。
快楽というか、生きてあるという実感は、つねに一瞬遅れてやってくる、われわれは永久にこの生に届かない、と思っている。
だから、人生なんか、気持ちよかろうとよくなかろうと、どっちでもいいのだ。
とにかく僕は、彼女の今の美しさが滅びるものかどうかなんてわからない。
僕の意識は、一瞬遅れて彼女の存在に気づく。僕が目にしているのは、つねに一瞬前の彼女なのだ。
僕は、つねに彼女に遅れをとっている。そのとき僕の意識は、彼女の今ここに届きたいという願いがあるだけで、やがて滅びてゆく未来を想像する余裕はない。
僕は、自分がやがて滅びてゆくだろうということを思うだけで、他人が滅びてゆくかどうかなどわからない。
他人は、つねに完璧なかたちで目の前に現われる。僕にとっては、目の前のその姿がすべてだ。
内田先生、女は、男の視線のニュアンスを、ちゃんと嗅ぎ取っているのですよ。
あなたの奥さんは、死ぬまで、あなたから「だんだん歳をとって容色が衰えてゆく存在だと見られている」と感じながら生きてゆかねばならないのですよ。
その美しさはやがて滅びてゆく……と感じて気持ちがいいのは、あなただけなのですよ。
そんな「美的生活」など、はた迷惑なだけなのですよ。
他者は、滅びないのです。今ここに完璧に存在するだけなのです。
そして「私」は、その「今ここ」から一瞬だけ置き去りにされてあるのです。
他人を滅びてゆく存在だと見るなんて、傲慢なナルシズムなのです。
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内田先生、僕は、あなたほど自分のことをあれこれ自慢する趣味も材料も持っていないが、あなたよりは誠実に「告白」しているという自覚はないわけではない。
そりゃあ僕よりももっと誠実で高度な「告白」の態度を生き死にのレベルで語っているブログもあって、そこから学ぶことも多いが、それに対してあなたには「告白」という態度がまるでない。
薄っぺらな「自慢」ばかりじゃないか。
あなたの「美的生活」なんか、自分に酔いしれているだけのことであって、「他者」も「死」も「美」も、きちんと見ていない。
「人間は死ぬことができるからこの生に価値がある。われわれが死にたくないと思うのは、死んでしまったらもう死ぬことができないからだ」だなんて、よくそんな思考停止したへりくつで満足していられるものだ。それでも思想家かねえ。
「死ぬことができる」という言い方がいかがわしいのだ。われわれの社会がどんなにかうまく死んでゆくことができなくて四苦八苦しているかということが、どうしてわからないのか。どうしてそこのところを考えようとしないのか。
僕は、自分はちゃんと死んでゆくことができるだろうか、と毎日戦々恐々としながら生きている。
あなたがかんたんに「死んでゆくことができる」といえるのは、死とちゃんと向き合うということができていないからだ。向き合わないで、ひとまずそういうことにして考えるのをやめてしまっているだけのこと。あなたのそのいじましいナルシズムが、ひとまずそういうことにしておきたいだけなのだ。
あなたは誰よりも自分に執着して死ぬことを怖がっているから、ひとまず「死ぬことができる」ということにしてそれ以上考えたくないのだ。
自分の都合のいいように考えてそれ以上は考えようとしない、それがあなたの習性であり、現代人の習性だ。そしてここまでが「自慢」で、ここから先が「告白」のレベルなのだ。
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何はともあれ、彼女が歳をとって彼女の美が滅びてゆく未来なんか想像するなよ。
そんな視線など、ただ小ざかしいだけのこと。死(滅び)を見つめていることでもなんでもない。
死(滅び)は、「今ここ」の事態であり、この生は「今ここ」において完結している。
彼女は、滅んでゆくから美しいのではない。その美しさそれ自体が、「今ここ」の裂け目にある死(滅び)のかたちなのだ。
滅びるから美しいのではなく、美しいということそれ自体が滅びのかたちなのだ。
いや単純な話、そんな若さやみずみずしさや美しさがこの世に存在するなんて奇跡だと思う。奇跡だということは、「死(滅び)」すなわちこの世の「裂け目」だということだ。
僕は、彼女がおばさんになった姿などよう想像しないし、彼女が死んでゆく存在だということもよくわからない。あほだから、今ここに彼女が存在するということ、それ以上のことは何もよう考えられない。
自分以外の人間が死んでゆく存在かどうかなど、僕にはわからない。
僕がわかっているのは、すでに死んでいった人たちがいる、ということだけだ。
僕にとっては、死者だけが、「死んでゆくことができる」存在なのだ。
まわりの生きている人たちのことはよくわからない。
僕はあほだから、僕の思考は、つねに世界から置き去りにされている。