内田樹という迷惑・品格のない女性論

内田氏は、上野千鶴子氏の「おひとりさまの老後」という本が、あまりお好きでないらしい。
ひとりで死んでゆくという覚悟を決めた彼女は、もはや死んでしまった人間にセンチな未練など示さない。子を持つこともすでに断念している。妊娠した女が「産もう」と決意することを否定しないが、男たちの「子供が欲しい」という願いなど、ただの権力欲か制度的な感傷に過ぎないと認識している。
それはその通りだ、とわれわれも思う。
この本を、高名な社会学者がかっこつけて言っているだけだ、というようなやっかみ半分の批判や、おまえさんには歴史意識や哲学がないんだと気取って切り捨てるような批判はするべきではない、と思う。この本はあくまでも、初老を迎えたさびしく孤独な女が考え抜いた、死んでゆくみずからの身の処し方を語っているのだ。
彼女が名誉も金も地位もあるとしても、もはや女という生き物としての値打ちは半分失いかけている。そういう現実とどう和解して生きてゆくか、たぶん、そこのところを書きたかったのだろう。
彼女は、世の中の俗っぽい男たちのように、これで自分の人生は完成した、というような達成感など持っていない。老いるとは、生き物としての喪失感とどう和解してゆくことかということだ、と彼女はいっている。だから、いちいち死者に未練など持ちたくないのだ。なぜならそれは、自分が老いて死んでゆくことに対する未練でもあるのだから。そうして、もはや子供を産む能力も意欲もない自分や、同じ立場の同性たちにたいして、「イエス」と言って励ましてやりたいのだ。
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しかし内田氏は、そうした考えは共同体をつくって生きてきた人間の本性を逸脱している、という。
死者に対する未練と子供が欲しいという願いこそが人間の本性なのだ、という。
こうです。
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「家族とは、誰かの不在を悲しみのうちに回想する人びとを結びつける制度である。(・・・中略・・・)それは死者の弔いというかたちをとることもあるし、やがて家族のうちの誰かから生まれてくる子供への期待というかたちを取ることもある。<もういない人>の不在と<まだいない人>をともに欠如として感知する人びとが<家族>を構成する」
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そうして、上野千鶴子は「家族の不在(悼むべき祖先の不在、来るべき子孫の不在)を少しも痛みとして感知しない人間」である、という。
よけいなお世話じゃないですか。子供のいない夫婦が、子供がいないことを「欠如」と感じないようにして生きていったらいけないのですか。上野千鶴子氏が、「私は子供を産まなかったことを誇りに思う」と言ったらいけないのですか。
僕の妹は、そう言っている。
彼女らは、内田氏よりもずっと深く直接的に「生きる」ということと向き合っている、と思う。
夫婦に子供がいないことなんか、「欠如」でもなんでもないのだ。それはそれで、人間に対する誠実な態度であると思う。
また、「祖先を悼む」なんて言っても、そんなものただの安っぽい「未練」じゃないか、といったら、あなたはどう反論するのか。
祖先は、「いたむ」べき対象ではない。「まつる」べき対象なのだ。そこのところの人類学的な事実が、あなたのような未練たらしい人間にはわかるまい。
すくなくとも人類学的には「祖先を悼む」とはいわない。「死者を悼む」というのだ。泣いて泣いて泣きはらしたあとに、「死者はもういない」とさっぱりあきらめることを「死者を悼む」というのだ。だから人間は、死者を土に埋めたり焼いてしまったりする。さらにはチベット人のように、鳥に食わせてしまったりもするのだ。
「祖先を悼む」なんて、未練たらしい俗物のすることであり、祖先は「まつる」対称なのだ。「まつる」ことは、「いたむ」ことじゃない。そんなことをしていたら、祖先の霊は浮かばれない。
鳥を見ても、狐を見ても、祖先の生まれ変わりだと思って話しかけるのか。そんなことをしてあなたたちはいいかもしれないが、そうやってこの世をさまよっていることにさせられている祖先はたまったものじゃないぞ。そういう観念の病を「狐憑き」というのだ。
死者に対してきちんと「悼む」ということをしなかったものは、あとで強迫神経症的な「鬱」におちいる。そうやってあとになって(祖先)を悲しんだり悼んだり怯えたりすることによって、「狐憑き」になるのだ。
思い切り泣きはらすとか、「異邦人」の主人公のムルソーのように空を仰いで一瞬のうちに納得するとか、そういう通過儀礼を果たしえなかったものが、「祖先を悼む」などという未練がましい感情を引きずってゆくのだ。
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女は、別れる瞬間は思いきり泣き喚くくせに、一度捨てた男はもう、けっして振り向かない。女は、目の前にあるものしか信じない。言い換えれば、やがて目の前に現れるものを「待つ」ことはできるが、捨てたものや目の前からなくなってしまったものに未練を残すということはしない。
未練がましいのは、男ばかりだ。別れた女のことを、いつまでもぐずぐず想っている。それは、内田氏のいう「祖先を悼む」という態度と同じだ。
女は、未練など持たない。「思い出」として懐かしむ。女は、思い出を食べて生きている。それは「祖先をまつる」という態度にほかならない。
たとえば、どんなに淫乱な女でも、惚れた男がインポになってしまえば、それを受け入れることができる。死刑囚との獄中結婚なんて、女にしかできない芸当だ。
女房が妊娠しているときに浮気をするという男の気持は、女にはわからない。なぜ待てないのか、と女はいう。
やがて大きく硬くなるであろうペニスを待つことはするが、とにもかくにもオルガスムスに達したなら、しぼんでしまったペニスを恨みはしない。まあ、そんなようなことだ。死者を前にして泣いて泣いて泣きはらすことは、オルガスムスのようなものだろう。そうやって、さっぱりと死者をあの世に送り届けてやる。
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その向こうに何かが確かに隠れている、と思える場合と、その向こうにはもう何もないと思うしかないときとがある。隠れているものは現れてくるのを待つし、もういない対象は「いない」とあきらめる。それが、人間の世界とのかかわり方だろう。
現代人は、死者をさっぱりとあの世に送り届けてやるという心の動きのダイナミズムを失ってしまっている。
とくに男は、それがうまくできない。待つことができないし、もういない対象をまだあるようにして未練を抱く。内田氏のいう「誰かの不在を悲しみのうちに回想する」なんて、もう存在しないはずの対象をまだ存在しているつもりになっている感情なのだ。そんなものは、清らかな心でもなんでもない。まだ存在しているようにイメージするから悲しいのであり、それは、自分の殺した相手の霊におびえているのと同じ心の動きなのだ。
「ない」ものに対して、感情なんか持ちようがないではないか。そういうないはずのものを「ある」とイメージしてしまうから、未練な感情が生まれるのだ。
100円玉を落とした。その100円玉は、道端のどこかに転がっている。だから、悲しいのだ。しかし死者は、100円玉ではないのである。もういない、のだ。
また、隠れているものを「ある」と思ってしまうから、待つことができない。
隠れているもの、すなわち見えないものは、「ない」のだ。しかし、やがて現れてくると信じる。その「信じる」心が、男にはない。
女が妊娠する。そうして、10ヶ月、ひたすら待つ。
生理がやってくる。そうして通り過ぎるのをひたすら待つ。
男には、そういう「待つ」という体験がない。懸命に信じて待つ、ということができない。
歯痛や腹痛になると男は、それが永久に続くかのように錯覚してうろたえてしまう。女のように、いつかは通り過ぎて消える、と信じることができない。
女は、自分がいつか死者のことを忘れてしまうだろうということを、本能的に知っている。だから、そのとき思い切り泣く。死者はいなくなってしまう存在であるということを実感している。
そういうことをうまく実感できない人間だけが、いつまでもその「不在」を悲しんでいる。
われわれがこの世界で生きてあるためには、「家族の不在(いたむべきに祖先の不在、来るべき子孫の不在)を少しも痛みとして感知しない人間」になるしかないのだ。
内田氏のように「感知する人間」になってしまうその未練たらしさこそ、精神の病を引き起こすもとになるのだ。
だから、「おひとりさまの老後」が主張することを、われわれは支持する。
女は「来るべき子孫の不在」に悲しんでなんかいない。自分ひとりで生まれて自分ひとりで死んでゆく覚悟はちゃんとできている。そういう覚悟ができない男ばかりが、「来るべき子孫の不在」を嘆いている。そしてそういう倒錯的なことを主張する男ばかりの世の中だから、40歳になったシングルの女や不妊症の女たちが追いつめられなければならない。
生きてあるのに必要なことは、目の前の「あなた」を人間のすべてだと思うことだ。「不在」の人間は、悲しみの対象ではない。「存在しない」のだ。
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やまとことばの「ひ」という音韻は、古代人の隠れているものを待ち焦がれる気持がこめられている。
秘匿の「ひ」。
「ひ」と発声するとき、声も息も、後戻りして喉の奥に隠れてしまうような心地がする。
隠れているものを「ひ」という。
「日(太陽)」も「火」も、燃えさかっているから「ひ」というのではない。夜の闇に隠されて、その出現を待ち焦がれる対象だからだ。
子供は、母親の胎内に隠れていて、現れ出ることを待ち焦がれる対象だから「ひこ・ひめ」といった。
そして、そのような対象全般のことを、「ひな」といった。
「雛(ひな)人形」は、ふだんは大事にしまわれていて、ひな祭りのときだけ取り出される。「鳥のひな」は、卵の中に隠されている。「鄙(ひな)」は、隠れ里のこと。「雛型・雛形」は、お菓子などのもとになっている型枠や原形のこと。「ひなぐもり」とは、雲の向こうに太陽が隠れているのがわかる薄明るい空模様のこと。
「ひな」の「な」は、対象の語義。隠されているものが現れてくることをじっと待っている古代人の心がこめられている。
古代人は、目の前に存在しない人間を「存在しない」と認識することができたからこそ、その別れを深く悲しむことができたのだし、やがて現れるであろうことを「待つ」こともできた。そういう心の動きが、いまや女だけのものになりつつある。
女は、古代の心性を男よりももっとたしかに持っている。
現代の男たちはもう、すっかり近代合理主義にしてやられている。内田氏の書いたものを読むと、そういうことがよくわかる。
現代の若い娘たちは、友達との日常の別れでも、懸命に手を振る。それは、別れを深く悲しむことができた古代人の心性がよみがえりつつあることのあらわれかもしれない。そうして彼女たちは、目の前からいなくなってしまった相手のことは、じつにさっぱりと忘れてしまっている。
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存在することをやめた祖先は、やがてすっかり忘れられる。だからわれわれは、祖先を「まつる」ということをして、ときどき思い出すのだ。「祖先を悼む」から「まつる」のではない。「まつる」ことによってしか、われわれはもう祖先を思い出すことができないのだ。
深く悲しむものは、さっぱりと忘れることができる。女が捨てた男に未練を残さないのは、そういうことだと思う。
内田さん、人類は、「祖先を悼む」というあなたたちによって滅びるだろう。
せっかくみんなで楽しく遊んでいるのに、一人が、ママが帰れというからとか塾があるからと言ってさっさと帰ってしまう。すると、それによって、みんなの遊びもなんとなくしぼんでしまう。まあ、そんなようなことだ。
あなたが力説する「<もう存在しない他者><まだ存在しない他者>の現時的な不在を<欠如>として感じ取ることは人間が種として生き延びるための不可欠の能力である」という論理は、そのまま神のためなら戦争をしてもいという論理と同じなのですよ。その薄っぺらな脳みそを絞って、ようく考えてみなさいよ。
「祖先の不在を悲しむ」なんて、汚れきった大人の自己撞着に過ぎない。
ザコンの亭主が、死んだ母親といちいち比較して妻を見ているのが、そんなに立派か。祖先の不在を悲しみ悼んでいる人間が、いかに生きている目の前の人間に対して粗雑な振る舞いをしているかという例なら、ほかにいくらでもある。
出会いのときめきと別れの悲しみを深く体験することのできないものたちが、そうやって「<もう存在しない他者><まだ存在しない他者>の現時的な不在を<欠如>として感じ取る」のだ。そうやって人は、目の前の他者に対するいきいきとした感受性を喪失してゆくのだ。
上野千鶴子は、私はもう祖先だの子孫だのという「存在しない他者」にかまけるのはやめた、と宣言する。
その通りだ。
目の前の「あなた」が、人間のすべてなのだ。
人類は、人類滅亡を願うものたちによって滅びるのではない。生き延びようと画策するあなたたちによって滅びるだろう。あなたたちこそ、センチなニヒリズムの持ち主なのだ。