内田樹という迷惑・「美しい」という感慨

内田さん、生きることは「生き延びる」という「労働」なのですか。
われわれは、そうは思わない。
生きることは、生きることを「味わい尽くす」ことだと思っている。
ハリウッド映画は、生きることをすべて「労働」にしてしまう。生き延びるための労働として描くことによって観客はカタルシスを得ると思っていやがる。
「風とともに去りぬ」も「ティファニーで朝食を」も「タクシードライバー」も「真夜中のカウボーイ」も「未知との遭遇」も「ロッキー」も「エイリアン」も、みんなそうだ。
たしかにわれわれは、それらの作品に感動した。感動させられてしまった。
しかしふとわれに返ったとき、感動してしまうなんて我ながら他愛ないな、とも思う。そうして、そんな「労働」をあれこれ分析して悦に入っている内田氏の映画批評が、だんだん鬱陶しくなってくる。
「近代」は、この生を「労働」にしてしまった。300年前に建国されたアメリカには「近代」しかない。それがアメリカの強みであり、えげつなさであり、限界でもあるのだ。
最近封切りされた「イントゥ・ザ・ワールド」という映画では、文明を批判して自然に還ることすら息苦しい「労働」として描かれていた。
僕はもう、ちょっとかなわんな、と思った。
自然に還ろうと還るまいと、そんなことはどうでもいいのだ。今やわれわれは、生きることも考えることも、感動することすらも、「労働」という檻に閉じ込められている。そういう「近代」というものの病弊こそが、問題なのだ。
労働として自然に還っても、心の中の矛盾は解決されない。オフィスビルでパソコンに向かい合っているのも、森の中で鹿狩りをしているのも、そういう近代的な自意識にしがみついているかぎり、同じ「労働」でしかない。
ロバート・デニーロの「タクシードライバー」だって、気味悪いくらい自意識にしがみついている物語だった。
そこのところを、アメリカ人は、まだ自覚していない。今なお「近代」にしがみついている。
しかしそれは、しょうがない。とにもかくにも、彼らには「近代」しかないのだから。
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自分の外に、「自分ではない」ところの「世界」が広がっている。その世界と関係しながら、われわれは生きている。
われわれは、世界との関係をつくるという労働をして生きているのではない。すでに世界との関係の中に投げ込まれているのだ。
世界との関係においてしか「意識」は発生しない。
意識は、能動的なはたらきでも受動的でもない。と同時に、能動的でも受動的でもある。つまり、能動的な「労働」としてのはたらきとはいえない、ということだ。
電車に乗ろうと思うのは、電車が来るからだ。その意識は、能動的でも受動的でもないと同時に、能動的でも受動的でもある。まあ、そんなようなことだ。
「あの山の姿は美しい」と思うのは、能動でも受動でもないと同時に、能動でも受動でもある。
あの山の姿は美しいと思う「自分」を起点にすれば、それは能動的な意識のはたらきだが、あの山がなければそう思うこともない。とすれば、それは受動的な意識でもある。
そう思う自分を確認することは「労働」であり、労働とは自己意識である。ハリウッド映画の主人公たちは、そうやって「自分」をまさぐることばかりしている。内田氏みたいに。
それは、自分とあの山との関係から生まれてくる意識である。自分の中から生まれてくるのではない。そういう関係から、意識が発生する。
意識は、「私」の「外部」で発生する。「私」と「世界」との「境界」で発生する。
あの山の姿は美しいと思う「自分」に気づくことは「労働」であり、それを「近代的自我」という。
それに対して、「自分」を忘れて「あの山」に心を奪われることは「遊び」である。
現代人は自分をつくり上げることばかりに熱心で、自分から逸脱してゆくことの醍醐味を喪失している。
それは、自分と世界との関係をつくり上げる、ということでもある。それが「労働」という行為だ。
あの山に心を奪われる、というと、なんだか受動的な心のはたらきのようだが、「自分を逸脱してゆく」という能動性もはたらいている。
自分を逸脱してゆくことが醍醐味であるのは、自分に幻滅しているからだ。そういう「なげき」という契機がなければ、逸脱してゆくという心がダイナミックにはたらくことはない。
逆にいえば、「自分をつくり上げる」ことに執着していれば、外の世界に「心を奪われる」というはたらきがどんどん衰弱してゆく。世界と関わることが、自分をつくり上げるための「労働」になってしまう。
現代人は、けっして「自分」を手離さない。それは、けっこうしんどいことだ。
心のはたらきの基本は、「自分」から逸脱してゆくことにある。それは、空腹や暑さ寒さや痛さや苦しさを感じてそこから抜け出してゆくことにある。われわれは根源的に「自分」から逸脱してゆこうとする衝動を持っている。その逸脱の仕方が、自分をつくり上げてゆくことなら労働になり、自分を忘れて世界に心を奪われてゆくことなら遊びになる。
それは「自分」から逸脱しようとする衝動なのだから、自分をつくり上げてゆくことに終わりはこない。たまねぎの皮をむくように、果てしなく繰り返してゆかねばならない。
西洋人の自我意識の執拗さとダイナミズムは、たぶんそんなところにある。われわれ日本人にはできない。言い換えれば、できる人は、多くのシステムがすでに西洋化してしまっている現代の日本社会でたちまち頭角をあらわす。
内田氏のように自意識過剰な人間になったやつが勝ちです。それは、たしかにそうなのです。そうなったほうが生きていきやすい世の中です。だから、たくさんの人が、内田氏を見習おうとしている。
人生の勝者になりたければ、内田氏の言説を信奉して生きてゆけばいい。内田氏はそれを、「常識」という。
とすれば僕の考えていることは、「非常識」です。
しかし僕は、人間はたぶんその「常識」によって滅びてゆくのだろうと思っている。
国を滅ぼすのは、いつだって「勝者」たちです。太平洋戦争のときのヒットラーも、日本の軍部も、その時代の「勝者」だった。
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「あの山の姿は美しい」という感慨は、どこから沸いてくるのか。
「あなた」と出会ってときめく心は、どのようにして沸いてくるのか。
どのように美しいかは、このさいどうでもいい。
「美しいなあ」「すてきだなあ」・・・・・・「なあ」と詠嘆する。「あなた」のことを「汝(な)」という。「なにもない」の「な」。
やまとことばの「な」は、「対象」の語意。対象に心が奪われて、自分がなくなってしまう感慨の表出。
「なげく」の「げ=け(気)」は、揺れたり騒いだり震えたりする心のこと。「く」は、「春めく」というように、動いてゆくさま。「なげく」とは、対象に向かって心が揺れたり騒いだり震えたりしてゆくこと。対象に心がとらわれている状態。対象に心がとらわれてしまっていることの不安定さ。「美しい」という感慨は、そのような一種の不幸として体験される。だから、鳥肌が立ったりもする。
「美しい」という感慨は、みずからの存在が不安定になる「なげき」として体験される。
「イントゥ・ザ・ワールド」の主人公は、みずからが自然の中に立っていることのアイデンティティを懸命に確認してゆく。
そういうことじゃないんだなあ。そういう「労働」をしてしまったら、もう「自然」じゃないのさ。
「自然」という対象に感動することは、アイデンティティを失う体験なのだ。
したがって「自然」の風景の中でアイデンティティの充実を体験するよりも、街の暮らしを「なげく」ことのほうが、ある意味でもっと「自然に還る」ことなのだ。
「美しい」という感慨は、「なげき」を携えて生きている心から生まれてくる体験であり、息をしたり空腹になったりする生き物であるかぎり、誰もが「なげき」を携えて生きている。
古代人はその「なげき」と和解していたし、現代人はそれを否定して、ひたすらみずからが存在することのアイデンティティを追い求めている。そうやって「労働」にいそしみながら、「美しい」という感慨すなわち「世界は輝いている」という体験を喪失し、「鬱」になってゆく。
あなたは、内田氏の言説にしたがって「なげき」を手離し、人生の勝者としてみずからのアイデンティティを確認してゆくことをめざすのか。
われわれは、「なげき」を手離さない手離すことができないもうひとりの「あなた」に向かって語りかけたい。そこにおいてこそ「世界は輝いている」という体験がなされるのだ、と。