内田樹という迷惑・「やまと」の語源

「やまと」の「や」は「やさしさ」の「や」、「ま」は「まこと」「ま」、「と」は「ともに生きる」の「と」、などといっている宗教評論家がいる。無意味でくだらない言葉遊びだ。
「やまと」ということばの語源は「山の人(やまびと)」ということにある、というのが一般的な通説です。
しかし「やまと」は地名であって、人のことではない。「山の人」が住んでいるところが「やまびと=やまと」である、といわれればなんとなく納得するかもしれないが、大和盆地は、山ではない。あくまで平地です。山から下りてきた人たちがそこに住み着いて、「やまと」と名付けたのです。
もともとは「やまびと」だったから、やまびとの土地という意味で「やまと」といったのでしょうか。
どうも、しっくりこない。
邪馬台国論争で有名になった九州福岡の「山門(やまと)」だって、山に囲まれた盆地です。山が家の門=垣根のような役割をしている土地だから、「山門(やまと)」というのでしょう。
門とは、「戸」が発展してできたものです。だから、古いやまとことばでは、門もやっぱり「と」という。
「と」は、内と外の境界。
まわりの山をこの世界の「戸=門(と)」と思い定めて、「やまと」と言った。それは、大和盆地の人々も同じであったはずです。
「と」という音韻は、「ここで世界は完結している」という感慨から生まれてくる。
まわりを山に囲まれたこの地は、すでに世界として完結している。そういう感慨を込めて「やまと」といったのではないだろうか。
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言葉の語源は、文字を離れなければたどれない。
「やまと」と声に出す感慨、それが語源だ。
「やまと」の「やま」は、山のことであって山ではない。なにはともあれ「やま」と声に出す感慨があったのだ。
「や」は、「ヤッホー」の「や」、「やれやれ」の「や」、「やあやあ」の「や」、「やっと・・・・・・した」の「や」。はるかかなた、という感慨から発声される。へだたりの語意。だから、疑問文の最後に「や?」と付け加えられたりする。
「や」と発声するとき、息は口の中に残って声だけが外に出てゆくような心地がする。息と声が分かれて遠く隔たっていく。だから、弓矢の「矢」のことを「や」という。
やまとことばの「やた」とは、「天空」というような意味です。サッカー日本代表のシンボルマークである「やたがらす」は、神武天皇がはじめて大和盆地に乗り込んでゆくときに南紀・吉野の鬱蒼とした杉林で道に迷い、そのとき天空にカラスがあらわれ道案内をしてくれた、という古事記の話からきています。
「や」は、はるかに遠い隔たり。「た」は、「たて」の「た」。たてにはるかに遠いところが「やた」であり、すなわち「天空」です。
「やま」の「ま」は、「まあまあ」の「ま」。「間」の「ま」。「まったり」の「ま」。まったりと体に気が満ちてゆくような発声です。
「やま」の「ま」は、ここが世界のすべてだという感慨に浸らせてくれるところの、この世界とあの世界の「間(ま)」。
「間(ま)」を認識することによって、世界は完結する。これが、古代人の世界観だった。
「ここが<やま(正念場)>だ」といえば、ここが分かれ目だ、という感慨です。かならずしも「山」の「やま」ではないし、「山」の「やま」でもある。
「・・・してやりたいのは<やまやま>だけど」といえば、してやりたいという気持としてやることができないという気持の「間(ま)」に置かれて途方に暮れている感慨を表している。
「山(やま)」は、この世界とあの世界の「間(ま)」である。あの世界には何もない、世界はこの世界の「果て」である「間(ま)」において完結している。それが、「山(やま)」という発声です。
「やまと」の「と」は、「ひと」ではない。古代の人びとは、とくべつな他者のことを「ひと」と言った。「ひと」の「ひ」は、「秘める」の「ひ」。めったにいないとくべつな、そして今目の前にはいない人のことだけを「ひと」と言った。
子供のことを「ひこ・ひめ」と言った。それは、母親の体の中に隠されてあったからだし、生まれたあとの赤ん坊も隠すように抱かれている存在だからでしょう。いや、自立できないで家の中で育てられているということ自体が、隠されてある状態かもしれない。
「ひと」という言葉が人一般のことをさすようになったのは、あとの時代になってからのことだ。奈良・平安時代だって、そういう変遷のまだ過渡期だった。彼らは、現代の女たちのように、自分のことを「ひと」とはけっして言わなかった。
「やまと」という感慨がある。それは、世界はここで完結している、という感慨であったのではないだろうか。そういう感慨とともに生きるのが日本列島の住民の流儀だったのではないだろうか。
古代人は、あの山の向こうには「何もない」と思い定めて、山奥のどんな狭いところにも住み着いていった。
あの山の向こうには「何もない」と思うからこそ、大和盆地の見晴るかす平地は素晴らしかった。こんな場所は、日本列島にここだけだ。そういう思いを込めて、「まほろば」という言葉が生まれてきた。「まほろば」とは、語源的には「見晴るかす土地」という意味です。
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彼らにとって山は、世界の果てであった。
だから、山には「神」や「魔物」が住んでいる、と畏れられた。その向こうはもう、「何もない」のだ。そういう世界観が、この生の向こうは何もない「黄泉(よみ)の国」が広がっているだけだ、という死生観になった。
吉本隆明氏は「共同幻想論」の中で、山に魔物が住んでいるという世界観は、あの山の向こうに行ってはならないという共同体の「禁制」である、と語っています。村から逃げ出すことを禁止するために「魔物が住んでいる」という物語がつくられてきた、と。
そうでしょうか。
古代人は、平気であの山の向こうに行っていた。あの山の向こうに行ってみたいと誰もが思った。
西洋の神(ゴッド)がこの世界の「外」の絶対的な存在だとしたら、日本列島の神は、この世界の「果て」に存在する。あの山はこの世界の「果て」であり、神が棲んでいる。あるいは、あの山は神だ、という感慨。古代人にとって山を眺めることは、神と出会う体験でもあった。
単純に、魔物が住んでいるとか、あの山の向こうに行ってはいけないとか、そういう対象ではなかった。あの山の向こうに行ってはいけないから「魔物が棲んでいる」といったのではない。世界の「果て」だから、そう信じたまでだ。
山は、神が棲むところでもある。だからこそここに住み着こうとも思うわけで、それは「禁制」でもなんでもない。純粋に実存的な彼らの世界観だったのだ。
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古代の道は、山道であった。
しかし同時に、山を眺めれば、ここが世界のすべてだ、あの山はこの世界の果てである、という感慨にもなる。
それは、根源的には共同体の制度の問題ではない。山を眺めたときの感慨の問題なのだ。
山の向こうに行ったっていいのだし、行きたいのだ。
共同体によるそんな禁制が生まれる以前から、日本列島の住民は、(たぶん縄文時代から)あの山には魔物が住んでいる、と思っていた。それは、あの山はこの世界の果てである、という感慨なのだ。
神も魔物も、この世界の「外」にいるのではない、この世界の「果て」にいるのだ。その向こうは、何もない。これが、日本列島の住民の世界観だった。
そうして、あの山の向こうに行ってみると、また目の前に山がある。で、世界の果てにたどり着いたという感慨をさらに深くする。そういう思いを繰り返しながら、彼らは旅をしていった。
世界の果てにたどり着いたという感慨、これが、日本列島の住民の旅をする醍醐味(=漂泊の心性)だった。その感慨は、今ここに定住していても、旅をしても、山を眺めることによって抱かされる。
村びとが、旅芸人や旅の僧をあたたかく迎え入れる。それは、「ここが世界の果てであり、ここにおいて世界は完結している」という感慨を共有する行為なのだ。
古代の日本列島の住民は、漂泊する民であった。そして大和盆地は、彼らが最後にたどり着く場所だった。そうやって人が集まり住み着いてゆき、大和朝廷が生まれていったのだ。
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やまとことばで、終わりにすることを「とめる」という。「打ち止め」の「と」「行き止まり」の「と」、「やまと」の「と」は、そのように世界が完結しているという感慨とともに発声される。
奈良盆地の中心に立って西の生駒山葛城山あたりの山なみを眺めてみればいい。われわれ現代人だって、「ああ、ここで世界は完結している」という感慨に浸されてしまう。その向こうに大阪の繁華街があるなんて、ちょっと信じられない。
弥生時代の終わりとともに大和盆地に大和朝廷が生まれてきたのは、歴史家が言うような俗っぽい政治的経済的な理由からではない。つまるところ、日本列島の住民の根源的な「世界観=信仰心」によるのだ。言い換えれば、単純に、どこよりもたくさん人が集まり住み着いてゆく土地だった、というだけのことだ。
大和盆地は、ほかのどんな土地よりも、深く神と出会っているという感慨を抱かせる場所だった。だから、たくさんの人がやって来て住み着いていった。「まほろば」という言葉には、そういう感慨がこめられている。
そういう理由で出来上がっていった人の集まりだったからこそ、万葉集古事記のようなおおらかな「やまとぶり」の文学が生まれてきたのであって、せちがらい政治的経済的理由で集まってきたのなら、万葉集もあのおおらかな天平彫刻もぜったい生まれてこなかっただろう。
古代人にとって、大和盆地ほど魅力的な場所もなかった。だから多くの人が集まってきて住み着いていったのであり、大和盆地ほど神とともに生きていることを感じさせてくれる土地もなかった。
政治的経済的理由だけで行動するのは現代人の習性にすぎない。古代は、人間がそんな理由だけで行動する時代ではなかったはずだ。そこのところを、世の歴史家はもう少し反省していただきたい。あなたたちだけの物差し(人間観)で古代人を計量してもらっては困る。
政治的経済的理由だけで行動していたと思っているから、何がなんでも大陸に近い九州に最初の大きな共同体(邪馬台国)が存在していたことにしたがる。政治的経済的理由だけなら、大和盆地に大和朝廷をつくる必要なんか何もなかったのだ。大陸に近い九州につくったほうが便利に決まっている。
国家ができたから政治的経済的理由で行動するようになったのであって、政治的経済的理由で行動しながら共同体になり国家になっていったのではないのだ。
人間の本性は、そのような「労働」をすることにあるのではない。あなたたち歴史家は、「労働」という枠の中でしか歴史を考えていない。
古代人にとって山は、世界の果て(ここで世界は完結している)という感慨を抱かせる対象であった。
そうして、たおやかな山なみに囲まれた大和盆地のことを「やまと」と名付けた。
つまらない言葉遊びなどしなくても、ちゃんと彼らの「世界観=信仰心」がこめられている。