まれびと論・16 沖縄の「まや」の国

折口氏があまりにもくだらないことばかり書いているから、なかなか先に進めない。
沖縄に、日本列島本土の古代を見ようなんて、ナンセンスです。沖縄には沖縄の歴史があるし、本土には本土の歴史がある。
沖縄に海の向こうの世界を信仰する習俗が色濃く残っているのは、沖に漕ぎ出せば見知らぬ島を発見することのよくある土地柄だからです。しかし本土の縄文人のほとんどは、8千年のあいだずっと内陸部の山間地で暮らしていたのです。だから、沖縄の習俗を本土の古代と重ね合わせて考えることはできないのです。
沖縄には、そういう海の向こうの遠い島のことを、「まや」の国、といったりするそうです。「やま」の反対です。このあたりにも、本土の山の文化に対する沖縄の海の文化、という違いがうかがえます。
言葉のつながりは、たとえば「美しい花」といったりするように、まず感慨を表出して、そのあとに名辞や概念が補足される。「やま」といえば、「や」に感慨がこもっている。はるかに遠いものに対する憧れやとらえどころのない気分です。そして「ま」と発声して、この世界と向こうの世界との「間」という概念を補足する。
であれば「まや」というとき、「ま」が先になって感慨を表現していることになる。
「ま」は、体の力が開放されるような発声です。そのとき、ほどよく体の力が抜けてゆく感覚がある。
「あらまあ」というときのおだやかな開放感をともなった驚き。「まあまあ」といえば、はっきりしないけどおおよそは達成されているというおだやかな気分を表現している。つまり、あああんなところに島が見えるという驚きと納得の気分ですね。そして、それははるかに遠いところにある、という概念をこめて「や」が補足される。「やあやあ」とか「やっと」の「や」です。
奈良盆地の山は最初からそこにあってあらかじめ納得されている対象であるが、沖縄のその島は遠くの沖に出てはじめて発見される。その発見した感慨が、「ま」というかるい驚きとよろこびと安堵がこめられた発声になる。
たぶん、その島までは行かなかった。遠すぎて行けるわけもないし、行ったら帰って来れなくなる。行けないところだから、「はるかに遠い」と認識しながら、その概念の表出として「や」と発声した。
誰も行ったことはないが、多くのものが見たことのある島のことを「まや」といった。
沖縄の人にとってその島が「はるかに遠い」ことはふだん体験することのできないひとつの概念であるが、本土の人の山に対する「はるかに遠い」という感慨は、日常の体験だった。だから、前者は、その島の住人を想像したときに「神」という概念に結びついてゆく。そこから人がやって来ることなどないのですからね。やって来るとすれば、「神」だろう、ということになる。そして鎌倉時代になって、とうとう「やまとんちゅう」という傍若無人な「神」がやって来た。
いっぽう後者の本土では、縄文時代からすでに、山の向こうから人がやって来る暮らしをしていた。そしてそのとき、じっさいにやって来るのだから、単純に「神」を想像することはできない。しかしたしかにそこは「はるかに遠い」ところなのだから、自分たちと同じ人間だとも思えない。沖縄の「やまとんちゅう」ほど異質ではないが、同じ人間でもない。そういう「間(ま)」を体現した来訪者に対して「まれびと」という感慨を抱いた。
しかし沖縄にやって来た「やまとんちゅう」はもう、「神」とか「鬼」と呼ぶしかない存在だった。
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沖縄と本土の人びとは、たぶんもともとは同じ言葉の民族どうしだったが、とにかく氷河期開けの1万2千年前から鎌倉時代までの約1万年のあいだ、なんの関係もなく別々の歴史を歩んできたのです。だから、あんなにも言葉が違ってしまったし、まったく別の言葉でもない。
米づくりやその行事が沖縄から伝わって来たのではないし、天皇の祖先が沖縄にいたわけでもない。天皇制は奈良盆地の歴史から生まれてきたのであって、沖縄は関係ないのです。1万2千年前から日本列島本土に住み着いていた人たちが奈良盆地に集まってきて、そこから天皇制が生まれてきたのだ。
宮崎県の「高天原(たかまがはら)」から大挙してやって来たのでもない。そういうお話をつくっただけのことだ。大集団の移動などということをする能力もなかった遠い遠いむかしから、個人または少人数でいつの間にか奈良盆地に集まってきていた人びとが、天皇制をつくっていったのです。
たとえば長野のある村の人びとが「われわれの祖先は出雲からやって来た」という物語をつくったり、九州や四国や奈良の山奥で平家の落人だったと言い伝えたり、そんな話は無数にある。
すべては、「遠いところから人がやってくる」、という習俗が縄文時代以来続けられていたことに由来する。
縄文時代は、ほとんどの人が山間地で暮らしていた。彼らにとって、あの山の向こうは、はるか遠いところだった。そのはるか遠いところろから人がやってくることの驚きとときめき。この狭い島国で人びとはそういう感慨を紡ぎながら生きてきたのであり、「まれびと」の文化はそこから生まれてきたのだ。
「経験知」もなしに勝手に「海の向こうの常世の国から神がやってくる」というイメージが生まれてくるはずがない。縄文人は海の向こうは何もないと思っていたし、それが、現在にいたるまで残っているこの国の人間の無意識なのだ。この国は、歴史のはじめから「まれびと」の文化があり、古代になってやっと大陸文化の影響を受けながら流行のファッションのようにそういう神のイメージが語られていっただけのことだ。
それは、日本列島の住民の神概念を背後から支えているイメージではない。
日本列島では、その歴史のはじめから、あの山の向こうから人がやってくる習俗を持った社会だった。
しかし沖縄は、鎌倉時代まで、誰もやってこない地域だった。常世の国のことも、そこから神がやってくることも、誰も思っていなかった。それが、いきなり本土からやって来て、傍若無人に支配していったのです。「にらいかない」の国のイメージは、そういう支配者の住む海の向こうの国に対する恐怖や畏敬の念から生まれてきたのだ。
それをですよ、折口氏は、「常世の国からの神の光来」などとたわけたことを言っているのです。天皇制の基礎は沖縄に残っている、と言いたいらしい。
そうじゃないのだ。沖縄の人は、トラウマのように海の向こうからやって来る神という存在を怖がっている。本土の人間が無邪気に天皇を慕いつづけたような幸福な体験は、一度もしていないのだ。
「にらいかない」は、折口氏のまれびと論のキーワードのひとつらしいから、このレポートの最後にもう一度考えてみます。