まれびと論・17 壊れてゆく家族

先日、門前仲町の小さな公会堂で、小津安二郎の「宗方姉妹」という映画の自主上映会をやっているのを見てきました。
いつも同じような映画をつくりながらいつ見てもけっして観客を退屈させない、裏切らない、という小津の職人芸のすごさを、あらためて感じさせる映画でした。
かならず、満足させて帰してくれる。
われわれは、そのもっとも退屈なカメラワークに、退屈を忘れて引き込まれてしまう。
カタルシス(たぶん日本的な)」というものを、きっちり本質的なところでつかまえていた人なのでしょうね。日本的で、しかも普遍的な、というか。
だから、外国人にも「完璧な映画だ」と評価されたりする。
この映画は、松竹の監督である小津安二郎が、東宝に招かれてつくった映画でした。だから、主人公の姉妹は、小津と一緒に招かれた田中絹代と当時東宝の看板女優であった高峰秀子が扮していたのだが、そのキャスティングには少々違和感がありました。田中絹代はそのときもうだいぶおばさんになってきていて、若い高峰秀子と年が離れすぎているような印象があったし、優等生的で庶民的な顔だちの高峰にしても、映画の設定の「おてんばで都会的な現代娘」というキャラクターではなかった。当時としては斬新であったにちがいない衣装を着てみせても、ちっともファッショナブルじゃなかった。
これがもし、松竹で小津映画の常連だった原節子岡田茉莉子という組み合わせだったら、もっと肩入れして観ることができたのにと、そこがちょっと残念でした。
秋日和」という別の映画で岡田茉莉子が着ていたシースルーのセーターは、着こなしもデザインも、50年後の現代の娘が見てもほとんど違和感がないであろう雰囲気だった。
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それは、まあいい。この映画で小津安二郎は、時代とは何か、ということを問うていた。
戦後、時代とともに「家族」が解体されてゆくであろうということを、彼はいちはやく見抜いていた。そうして、家族礼賛の映画がつぎつぎにつくられてゆく50年代60年代の時代にあって、ひとり、家族の解体それじたいを肯定してゆく映画を撮りつづけた。
彼はべつに、美しい「家族愛」を描いたのではない。家族を解体して「出会い」の場に立つことを描こうとしたのだ。
それがなぜ普遍的かというと、中学生になった子供が、友達と一緒にいた方がいいといって家族旅行についてゆかなくなることと同じだからです。みんなそうやって「家族」を解体しながら成長し、他者との関係を発見してゆくからです。
「家族の解体」という問題は、いつの時代も誰の人生においても存在している。
そういう思いを込めて小津は、主人公の田中絹代に「古くならないものがほんとうの新しいものだ」というせりふを吐かせている。今の時代の新しいものなんか、次の時代の古くさいものでしかないではないか、と。
失業して気持ちがすさんでしまった姉の夫。そういう呑んだくれてばかりいる亭主に尽くすなんて古くさい態度は捨てちまえ、と現代娘の妹がいう。しかしそれに対して姉は、「夫婦の仲がうまくいっていないことを私は肯定する。そのときこそ私は夫と向き合っている」と決意表明をしてみせる。
「夫婦が一生べたべたくっつきながら生きてゆくことなんかできない。そのつど関係を解体してあらためて<出会い>の場に立つ、ということを繰り返しながらやっていくしかないんだ」と小津安二郎は、平明な日常会話でこの姉に語らせている。
夫は、最近妻の前にあらわれたかつての恋人とのあいだに不貞があるのではないかという疑惑を、どうしてもぬぐい去ることができない。そして最後に自殺のようなかたちでとつぜん死んでしまうのだが、そのとき妻である姉は、わたしはもうこの制裁から一生逃れることができないと悟る。不貞はしなかったけど、深く愛してはいたからだ。まあ実際問題として一生逃れられないかどうかはともかくとして、そのときのそういう感慨にしたがうなら、かつての恋人の、これでもう自由になったのだから僕のところにいらっしゃい、という申し出を受けることはできない。
申し出を受けることじたいが死んだ夫との関係によりつよく閉じ込められてしまうことだというダブルバインドを、そのとき彼女は悟った。
そのようにしてひとつの「家族」や「関係」が解体されていった、という話です。
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妹は、どんなに現代娘らしく振舞っても、心の中までそうなりきれない自分にいらだっている。そのいらだちをぶつけるかのように、姉のかつての恋人に対して「私を奥さんにしてくれ」と迫ってゆく。
姉が「出会いの場に立って関係を欲求しつづける人」であるとすれば、妹は、「関係を結ぶ」という現代社会の価値観を確かめようとしている。
しかし妹のその志向が、いかに古くさいことであるかということを、われわれは今思い知らされている。
企業はもう、仲間意識の終身雇用制ではやっていけなくなってきているし、企業活動じたいも、共同体の枠から抜け出して、つねに新しい世界との「出会い」を探してゆかねばならなくなってきている。
「家族」や「関係」の解体におびえて、鬱病認知症という病理に避難しようとする人が増えてきている。
団塊世代の鬱陶しい仲間意識に、若者たちはうんざりしてしまっている。
若者じしんは、あらゆる意味で「関係」の中に身を置くことよりも、「出会い」の場に立つことを模索し始めている。
ばかギャルの、電車の中で化粧をしてしまえるほどの「関係を解体してゆく」身振りや心の動きに、われわれは今驚かされている。彼女らは、電車の中にいても、自分だけのプライベートな空間をつくってしまう。そうして、出会いの場に立つための「清め」をけんめいにしている。
そういうギャルのことを大人たちが「公共心がなってない」などというのは、平気で化粧をしてしまうくらい彼女たちから無視されている自分の存在感の薄さに気づいていないからだ。そう言って公共心という共同体との関係にしがみつこうとするあなたの方が正しいといえる根拠など、いまや何もないのだ。
あなたたち大人より、彼女らの方がずっと「日本人」としてプロフェッショナルなのだ。
この国には、関係を解体して「出会い」の場に立とうとする伝統が、縄文時代以来続いてきている。だからこそ公共心が育たないのであり、しかしそれこそが、「まれびと」の文化でもあるのだ。
現代は、かんたんに仲間意識(関係)が解体されてしまう時代です。そういう時代の空気に追いつめられて、中高年が鬱病になったり認知症になったりしている。
「私は壊れてしまった関係を肯定し受け入れる」、と「宗方姉妹」の姉が言った。その身振りと心の動きは、けっして古びていない。