まれびと論・18 「なまはげ」は怖いか

なまはげ」はわりとポピュラーに親しまれている来訪神であるらしいから、このことについて少し考えてみます。
「国文学の発生・まれびとの意義」の中で折口信夫は、「なまはげ」の「なま」は「海鼠(なまこ)」の「なま」で、追い払う、というような意味だ、といっています。
海鼠は、色もかたちも鼠に似ている。だから、祭りのときに海鼠を供えるのは、家の鼠を追い払う儀式だ、というわけです。まあそうかもしれない。しかし、海鼠の「なま」にも、「なまはげ」の「なま」にも、語源的には、「追い払う」とか「懲らす」というような意味はないはずです。こういう強引で短絡的なこじつけをしてくるから、学者の言うことが信じられなくなるのだ。
とりあえず、そのようなことが書いてある個所を引用しておきます。
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小正月あるいは元日に、妖怪の出て来るのは、主として奥羽地方である。「なもみはげたか」「なまはげ」「がんぼう」「もうこ」などいう名で通有点は蓑を着て、恐ろしい面を被って、名称に負うた通りの唱え言、あるいは、唸り声を発して家々に踊り込んで、農村生活のおける不徳を懲らすかたちをして行くのである。私は、地方地方の民間語源説はどうあろうとも、「なま」「なもみ」は、「海鼠」と語源をひとつにしたもので、「おとづれ人」の名でなくば、その目的として懲らそうとする者の称呼ではないかと思う。そうでなくば、少なくとも、我が古代の村々の、来向かう春の祝言の必須文言であったとだけは言われよう。この妖怪、じつは村の若い衆の仮装なのである。村の若者が人外の者に扮して、年頭の行事として、村の家々を歴訪するというのは、どういう意味であろうか。なんにしても、不得要領な「ほとほと」(という唱え言)と同じ系統で、まだそれほどに固定していないものだということは知れる。
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まず「なまこ」という言葉の語源について考えてみます。
「な」は、体の力が抜けていくような感覚の発声です。「なよなよ」の「な」。
「ま」は、体がゆったりと安定してゆく心地の発声。体がこの世界の「間」に安定して収まっている気分。
ゆえに「なま」とは、安定した「間」にまだうまく収まっていない状態。つまり「生(なま)」である状態。
「なまこ」とは、この世という「間」にまだ収まっていない状態の子供、つまり赤ん坊のこと。原始人は、「なまこ」を見て、サメか何かの赤ん坊(あるいは、胎児)だと思ったのではないだろうか。
したがって「なま」が「海鼠(なまこ)と語源をひとつにしたもの」であるとしても、「懲らそうとする者の称呼」である根拠など何もない。
なまはげ」の「なま」は、「生(なま)」という意味でしょう。じつは、それでちゃんとつじつまは合っているのです。折口氏は、「生(なま)」といえば、生魚や生肉のようなものしか思い浮かばないから、そんな苦しいこじつけをしなければならなくなっているだけです。
「なま」とは、この世(共同体)という「間」にうまく収まっていない状態のこと。すなわち、煩悩や幼さのことです。
そして、「はげ」は「掃(は)く」の強調、あるいは東北訛り。
なまはげ」とは、共同体の安定のために「生(なま)」な煩悩や幼さを一掃しにやってくる神=妖怪のこと。それでちゃんとつじつまは合うでしょう。
なまはげ」は、雪に閉じ込められているさなかの季節にやってくる。そうやってみんなが家の中でじっとしていると、大人も子供もわがままになってくる。そろそろ春の準備を始めなければならないのに、おとなはすっかり「怠(なま)け癖」がついてしまっているし、子供も「生(なま)意気」になって、親の言うことを聞かなくなってきている。
なまはげ」とは、単純に「怠け=生意気」の東北訛りのことかもしれない。その「なまけ」を一掃しにやってくるのだ。
「なまけ」とは、共同体に大敵の「生(なま)」な「気(け)=気分」のことだ。
「なもみはげたか」とは、「<なまみ=生味>掃(は)けたか」というような東北訛りの言い方でしょう。
いずれにせよ「なまはげ」の「なま」に、折口氏のいうような「懲らしめる」という意味など何もないはずです。
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では「なまはげ」は、どうして鬼の形相をしているのか。
もちろん、恐がらせるためでしょう。しかし、「懲らしめる」ためじゃない。人が、この世の「間(ま)」におさまって生きてゆくことは、畏れ嘆きつつ暮らすことである、という認識があるからだ。そういう体験をもたらすために「なまはげ」がやってくるのだ。
雪に閉じ込められてじっとして暮らしていると、感覚が鈍って、日々の暮らしが退屈になってくる。とくに子供は、手持ち無沙汰になる。そういう子供の気持を覚まさせてやるのは、よろこばせるよりも、畏れ嘆かせてやることだ。
空の青さが目にしみる感慨は、深い嘆きを持っている人にもたらされる。嘆くことによって、感受性が目覚める。
誰がいい子かわるい子かなんて、いちいち「なまはげ」に報告するわけではないのだ。そんなことはわかるはずもないのであれば、懲らしめるもくそもないじゃないですか。懲らしめるためではなく、子供の感受性を覚まさせてやるために、「なまはげ」がやってくるのだ。
雪に閉じ込められると、子供は胎内回帰して「なまこ」になってしまう。その「生(なま)」な部分を一掃するために、「なまはげ」がやってくる。
なまはげ」たちは、「ほとほと」と唱え言をしながら村の家々を歴訪してゆくのだとか。
「ほ」は、「ほっとする」の「ほ」。「と」は、「留める」の「と」。「ほとほと」とは、村という「間」に安定してとどまっている状態を表象する擬音。つまり、情緒が不安定になったり停滞したりしている村びとの心の動きを安定さてやりたいという「祈り」なのだ。
ただの「妖怪」だと決め付けてもらっては困る。意図あって鬼の姿に変装している「神」なのだ。それは、じゅうぶんにたしかなコンセプトを持った「固定」した行事であったはずです。
すなわち、雪に閉じ込められて暮らしてきた人びとがそろそろ春を迎えようとする時期に、もっともありがたい「来訪者=まれびと」として「なまはげ」がイメージされていったのではないだろうか。
折口先生が考えきれなかった部分を、僕が考えてさしあげました。
「神」のイメージに規定されて村の暮らしがあったのではない。村の暮らしに沿って「神」がイメージされていったのだ。「まれびと」という人が来訪する暮らしの中から、「まれびと」という神が来訪するイメージが生まれてきたのです。「国文学の発生・まれびとの意義」という論稿は、知識や文章表現は一流なのだろうが、そこのところの思考および分析が倒錯的でかなり杜撰です。