祝福論(やまとことばの語源)・「山(やま)」と「岳(たけ)」2

「山(やま)」と「岳(たけ)」の違いは、ただ高いか低いか大きいか小さいかというような違いではない。
その山を眺めるとき、そのやさしい姿をした「山」に抱かれてあるような親しみと充足をおぼえるのか、それとも、遠く立ちはだかる「岳」に対して畏敬の念を抱くのか。古代人にとってはどちらもそこは「神」が棲むところだが、「山」に抱かれてある暮らしの神のイメージと、「岳」を仰ぎながら暮らしている地域のそれとでは、それなりの精神風土の違いが生まれてくる。
「岳(たけ)」は、「ここだけ」「これだけ」の「たけ」。山なみの中のとくべつな屹立する山をさす。
一方「やま」の「や」は、「はるかに遠い」というニュアンス。途方に暮れるとき、「やれやれ」という。弓矢の「矢(や)」は、遠くまで飛んでゆく。
「ま]は、「まったり」の「ま」。「充足」「完結」の語義。
「やま」とは、この世界の遠くの果て。古代人は、山の端(は)を眺めながら、世界はここで完結している、その向こうはもう何もない、そしてときには、もうここで死んでもいい、という感慨を抱いた。ことに奈良盆地の山なみは、どこよりもそういう感慨を深く抱かせてくれる対象だった。
「やま」とは、ひとつの最終的な感慨の表出。最終的な充足。そこから、「やま」という音声がこぼれ出る。
だから、クライマックスのことを「やま」という。
日本列島の住民の山に対する思いは、そのまま神に対する思いだった。
古代の奈良盆地の起源としての「天皇という神」は、たおやかな姿をした山なみを神とするその精神風土から生まれてきた。
日本列島の住民にとっての「天皇という神」は、屹立する「岳(たけ)」のような対象ではなく、基本的には、今も昔も、奈良盆地のたおやかな山なみのような「親しみと充足」を抱かせてくれる対象である。
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最近では「大和朝廷」といわないで、「大和王朝」というらしい。
奈良盆地にはそれまでいろんな「王朝」が入れ替わり立ち代り生まれていたが、最後に天皇家の「大和王朝」が平定して現在に至っている、といいたいのだろう。
「王朝」とは、権力者がいて、民衆を支配し税を搾取している共同体(国家)組織のこと。そういうかたちができて、はじめて「王朝」といえる。
しかし、「大和朝廷=大和王朝」以前に、「王朝」といえるほどの共同体(国家)組織が、はたしてあっただろうか。
弥生時代奈良盆地は、原始共産制の社会だった。世界中の起源としての共同体がみなそうであるし、稲作農耕を基本とする社会なら、なおそうであったろう。みんなで力をあわせて働かなければ、稲作はできない。土地なんか誰のものでもなかったし、貧富の差も無かった。
そしてみんなが力をあわせてゆくためには、心をつなぐ共通の「神」が必要だった。それが、奈良盆地のたおやかな山なみだった。
また、現実問題として、集団をまとめるリーダーは必要だったのだろうが、それはあくまで民衆自身の合議で決めれれたのだろうし、リーダーの所有する物や特権は、民衆から与えられたものであったはずだ。リーダーの座を降りれば、それらの物や特権も失う。リーダーは、それらの物や特権を、「支配」によって獲得(搾取)するのではなく、民衆から与えられるのだ。
原始共産制社会は、民衆が連携し結束してゆくエネルギーの上に成り立っていた。そのために実務的リーダーのほかに、神との仲介者(たとえば<巫女>のような存在)としての精神的リーダーを必要としていた。それが、「天皇」であり、「天皇」は、神のうつし身でもあった。
奈良盆地における神のうつし身としての「天皇」は、たおやかな姿をした親密な対象であった。
奈良盆地から「天皇」が生まれてきたということは、それまでの奈良盆地の共同体は、人々の連携と結束の上に成り立った原始共産制の社会だった、ということを意味する。
人々の連携と結束のよりどころとして、「天皇」が生まれてきたのだ。
しかしそんな天皇制社会も、いったん生まれてしまえば、「王朝=朝廷」ができて権力争いが起きてくる。
古事記日本書紀の編纂を命じた天武天皇は、かなり強引な権力争いによって天皇の座を得た。したがってそのことを正当化するためには、その共同体(王朝)も戦って勝ち得たものであることにする必要があった。おそらく神武東遷の話は、そうした天武王朝を正当化しようとする意図のもとにつくられたのだろう。
古事記日本書紀も関係ない、「天皇」は、奈良盆地に住み着いた人々の連携・結束してゆく心の動きの反映として生まれてきたのであり、その基礎は、彼らが、たおやかな山なみに囲まれた奈良盆地の景観に対する愛着を抱きながら歴史を歩んできた、ということにある。
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古事記日本書紀天皇の系譜はじつにいいかげんで、初代の神武天皇が生きた時代は、弥生時代が始まったころになっている。であれば、ほんとうの初代の天皇が誰であったかという解釈はいろいろあって、極端な例では、第26代の継体天皇が最初で、それ以前の古墳時代の巨大前方後円墳にまつられている天皇はすべて実在性が疑わしい、という研究者もいる。
まあこれは、外からの侵略者である天皇家が土着の王朝を滅ぼし畿内地方の支配権を乗っ取った、という解釈から来ているのだろうが、純粋に「王朝」といえる共同体(国家)組織が畿内地方に生まれてきたのは、もしかしたらそのころ(古墳時代後期)だったのかもしれない。
べつに誰が「乗っ取った」わけでもないが、それ以前は「王朝」といえるほどの共同体(国家)組織にはなっていなかったのではないか。
近ごろ話題になっている弥生時代後期の纏向遺跡は、三輪山のふもとにあるから「三輪王朝」の跡だとか、卑弥呼邪馬台国だったともいわれている。
そこには、当時の日本列島において最大級の建造物が整然と配置されてある遺跡があり、それを王宮跡だと研究者はいう。そうだろうか。それは、祭殿や人々の集会所のようなものだったのかもしれないわけで、それほどに人々が連携し結束してゆくダイナミズムが生まれている場所だった、ということをあらわしているのではないか。
巨大な権力が存在していたとか、そういうことではないように思える。
人々が助け合い連携してゆく原始共産制の社会がダイナミックにいとなまれていた、ということを意味するだけだろう。そしてそういう歴史過程を持たなければ、日本列島最初の「国家」も「天皇」も、生まれてきようがないのだ。起源としての国家は、世界中のどこでも、そういうところから生まれてきたのだ。
権力が国家をつくったのではない、国家から権力が生まれてきただけのこと。
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「大和(やまと)」の「やま」は、「山」だけを意味したのではない。「山」だけを意味したのなら、「山」という字を当てるさ。そういう字があるのだもの。
それは、奈良盆地のたおやかな姿をした山なみに対する「ここで世界は完結している」「もうここで死んでもいい」という奈良盆地に暮らす人々の感慨を表している。「大和」すなわち「大きく和する」とは、そういうことだろう。
それが、日本列島の住民の「山(やま)」に対する根源的な感慨なのだ。
視界をさえぎるもののない水平線の景観は、人の心に、その向こうに何があるかわからない、という不安をもたらす。
それに対して、視界をさえぎる「山」という対象は、ある落ち着きを与えてくれる。日本列島の住民は、水平線に対する不安を深く体験しているがゆえに、「山」に対していやされる心の動きもひとしおのものがある。
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そして、だからこそ「岳(たけ)」という対象に対しても、たんなる「マウンテン」だけではすまない感慨を抱いてしまう。
「たけ」は、「やま」の「最終的な充足」に対する「最終的な認識」、あるいは「最終的な愛着」をあらわしている。「これだけ」の「たけ」。
信濃は、日本列島でもっとも「岳(たけ)」と呼ばれる山の多い地域であるのだろう。そしてそれらもまた、奈良盆地のたおやかな山なみとは別の意味で、古代においてはやっぱり「神」だったはずである。
奈良盆地の人々がその山並みの景観からもたらされる「最終的な充足」を心のよりどころにして暮らしていたとすれば、信濃の人々にとってのそれは「最終的な愛着」であり「遠い憧れ」だった。「しなの」の「しな」だって、まあそういう感慨の表出なのである。
したがって遠く立ちはだかる「岳「たけ)」を仰ぎながら暮らしてきた信濃の人々にとっての「天皇という神」は、奈良盆地とは少し違う。彼らにとっての「天皇という神」は、おそらく古代から、畏敬の念とともに仰ぐ「遠い憧れ」の対象だったはずである。信濃では、古代から幕末・明治までそういうかたち「尊王思想」が純粋培養されてきた。
幕末の薩摩や長州や土佐における尊王思想は、権力闘争のためのたんなる方便だったが、信濃の人々は、純粋に「尊王思想」を携えてその運動に参加していった。彼らは、遠く立ちはだかる「岳」を仰ぎながら暮らしてきて、どの地域よりもせつなく純粋に遠いもの(=天皇)への憧れと畏敬の念を抱いている人々だった。
だから信濃は、昔から旅人を大切に迎え入れる土地柄であり、自分たちもまた旅に対する憧れを強く抱いていた。そして古事記ヤマトタケル信濃で東国征伐の軍団を整えたと記述されているのは、信濃が東国の中でもいち早く大和朝廷に協力していった地域だったことを意味している。
まあ、悪くいえば「権威に従順である」ということにもなるのだが、「岳(たけ)」は、ひとつのとくべつな「権威」にほかならない。
そのような精神風土の伝統の上に、「尊王思想」が古代からめんめんと受け継がれてきたのだった。
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「しな」とは、「固有の愛着」という意味。「の」は「野」、「(山の)斜面」のこと。「しなの」の語源は、「固有の愛着の斜面」という意味にある。そういう感慨の表出として、「しなの」ということばが生まれてきた。
信濃の人々の「愛着」や「憧れ」という心の動きには、なみなみならぬものがある。もちろんそれは、良くも悪くも、であるが。
僕はべつに、信濃を賛美しているのではない。そういう心の動きは「岳(たけ)」を仰ぐ暮らしの中ではぐくまれてきた、といいたいだけだ。
信濃のなかでも、そういう心の動きがもっとも過激な土地が、「伊那」というところらしい。
「伊那」とは、「しな」という愛着よりももっと過激に「ここがいちばん」「われわれの愛する土地はもうここしかない」というような感慨を表すことばである。みずからの土地に対して愛着しつつ、まわりのほかの土地を「いな(否)」といって否定している。それでいて、遠いものに対する愛着や憧れもほかの地域以上に強い。伊那の人々の心は、なやましい。
伊那は、「伊那谷」というくらいで、高い山なみに挟まれ、たくさんの「岳(たけ)」が眺められるが、その中の「駒ケ岳」は、よそ者が眺めてもどのいただきがそれなのかよくわからない。しかし伊那の人々にとっては、一目瞭然でそのいただきが目に飛び込んできている。
それは、ただ見慣れているからというだけのことではない。われわれには、彼らほどの「いな」という心の動きを持っていないからだ。われわれには、なぜそれがとくべつな山であるのかよくわからない。
伊那は、郷土史の研究がとても盛んなところである。そして教育水準が高い。子供が一所懸命勉強して東京や京都の大学を目指すことは明治以来大いに奨励されてきて、貧しい家の子でも、親はそうかんたんには「金がないからやめておけ」とはいわない土地柄なのだとか。
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そして幕末のころは国学尊王思想が信濃のなかでも際立って盛んで、それは中山道の重要な宿場町であると同時に、駿河に降りてゆく道ともつながっており、信濃のほかの地域より外部との接触が多かったということもあるかもしれない。。
ただ、ほとんどが無名だった伊那の志士たちにとっての「尊王思想」は、薩摩や長州のようなたんなる倒幕のための方便以上のものがあったらしく、それが、彼らの行動を不器用にしたり悲劇的なものにしたりしていた。
そんな中で、松尾多勢子という人は、50歳を過ぎた女の身で単身上洛し、坂本竜馬などと生死をかけた活動をともにしたという。そうして明治の世になるとさっさと伊那に戻って後進の指導に当たったのだとか。伊那の人の遠いものへの憧れと教育熱心は、この人が象徴しているのかもしれない。
松尾多勢子は、京都の皇族と勤王志士との仲立ちのようなことをして、討幕運動におけるかなりの重要人物になっていった。伊那の人々は、歴史的にも皇族に信用があるらしいのだが、それと同時に、彼女の国学の素養と、勤王思想の信念の深さのようなものが皇族たちの心を動かしていったのだろうか。何かほかの国の誰とも違う、つまり伊那谷特有の信念の「深さ」を持っていたのかもしれない。
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険しい山脈に囲まれた伊那谷の人々は、信濃のなかでも際立って遠いものに対する純粋で一途な思いを抱いている。また、そうやって山脈に阻まれているから信濃のほかの地域との交流がままならない反面、ほかの地域以上に外部との接触が持てるというなんとも微妙な土地柄のために、信濃のほかの地域に対する疎外感と優越感がない交ぜになっている。その疎外感と優越感が、遠いものへの憧れをさらに深くしていったわけで、その対象が、彼らにとっての「天皇」だった。
彼らの勤王思想の信念の深さは、奈良盆地の人々とは、少し違う。
「遠い」ということに対する連携の不可能性。その不可能性に身を置きながら熱くせつなく遠いものにあこがれてゆくという心の動き。それが、伊那谷尊王思想の信念の深さだ。
それに対して、薩摩や長州だけでなく、古代の奈良盆地の人々だって、自分たちの連携のために「天皇」をまつり上げていった。前者が意識的確信犯的であるのと、後者が無邪気で無意識的であったのとの違いはあるにせよ。
幕末のころの京都の公家にとっては、伊那谷の一途で純粋な信念の深さは、うれしいものであったに違いない。しかし、同時に、使いやすい相手として見くびりもしていただろう。
それに対して薩摩や長州は油断のならない同志であると同時に、多くの成果を運んできてくれる相手でもあった。
もともと「天皇」は、その起源の成り立ちからして、方便として利用しやすい対象だった。強大な権力の侵略者でも、屹立する「岳(たけ)」でもなかったのである。
だから伊那谷尊王思想は倒錯的で時代遅れであったかというと、そうともいえない。この国が明治から太平洋戦争にまで突き進んでいった際の天皇のイメージは、まさに、この伊那谷の信念の深さをなぞるように先鋭化していったのだ。
もちろんそれは、伊那谷の信念の深さとは似て非なるものであったのかもしれないが、いずれにせよ、それは、古代の原始共産制社会における奈良盆地の人々が「天皇」を祀り上げていった心の動きとは、さらに別のものだ。
いったいわれわれは、「天皇という神」を、どのように考えればいいのだろうか。
天皇陛下だって人間だ、といって安心していられるほどかんたんな対象ではないし、「神だ」といったらいけないわけでも間違っているわけでもない。