祝福論(やまとことばの語源)・やまとことばと女性論

前回、松尾多勢子という幕末の討幕運動家のことを書きました。
それは、信濃や伊那の風土性というか土地柄のことを考えてみたかったからだが、彼女のことを詳しく調べれば、女性論として何かおもしろいことが書けるかもしれない、という気もします。
150年前の50歳といえば、もう立派なおばあさんだし、女だてらに命がけの討幕運動に参加するなんて、当時としては例外中の例外だったはずです。しかも、信濃という僻地から、わざわざ上洛していってまでその運動に参加しようとした。
彼女は、女としてたくさんの例外を抱えていた。しかし、その「例外」の中にこそ、女であることの何かを見出すことができるかもしれない。
なぜなら、「女三界に家なし」というように、女であることは「例外」であることにほかならないのであり、人間であるということそのものもまた、人間であることの「例外」になることにほかならない、ともいえる。
彼女は、50歳を過ぎて、自分の女としての人生が終わったことを自覚し、これからは人間として生きようと決心したのかもしれない。でも、なぜそんなことを思うのかといえば、彼女が女だからだし、じっさいに女としての体や心の火照(ほて)りがまだまだくすぶっていて、そうやって生きることによってそれにけりをつけようとしたのかもしれない。
それはもう、まさしく「女」としての決断だったのかもしれない。
女だからこそ、女の「例外」になろうとした。
そして、人間になることもまた、人間の「例外」になることだった。
彼女にとって討幕運動家になることは、そういうことだったのではないだろうか。
人間の例外にならなければ人間として生きたことにはならない……そんな思いは、われわれの誰の中にも潜んでいる。だから、ときには人と競争して、人より抜きん出ようとするし、個性的でありたいとも願ってしまう。「ナンバーワン」になろうとしたり「オンリーワン」になろうとしたりする。どっちだって、同じことさ。そうやって人間の例外になろうとするのが、人間という生きものらしい。
「自分は例外である」、という疎外感……それが、女であることのゆえんであり、人間であることのゆえんなのだ。
因果なことに、人間とはそういう生きものなのだ。
そのときそれは、彼女の優越感というより、負い目であり、悲しみでもあったのだろう。
よくは知らないが、彼女は伊那谷の富裕層の奥様だったらしく、その立場で国学という学問も身に付けていったのだが、それでも50歳を過ぎれば、ただのおばあさんだ。美人であったのかどうかは知らないが、ただのおばあさんになってしまったという負い目や悲しみは、そういう立場で生きてきただけに、なおさらひとしおのものがあったに違いない。
ひとより優れているとか個性的であるというような「優越感」や「自己愛」や「自尊感情」を持つ前に、人間はすでに根源的な部分で、「自分は例外である」という悲しみや嘆きを抱えて存在している。
女とは、好むと好まざるとにかかわらずそういう嘆きや悲しみを深く体験してしまう存在であり、彼女らはつまり、人間であることの原初のかたちであると同時に、究極でもある。
男たちは、そのあいだで「優越感」やら「自己愛」やら「自尊感情」などというちゃちなものにしがみついてうろうろしているだけのことだ。
まあ、そういうスタンスで女性論を書いてみたい気持ちはないわけではないし、いま、やまとことばの語源のことを考えているのも、けっして無縁の作業だとも思わない。
僕にとって「女とは何か」と問うことは「人間とは何か」と問うことであり、それは、人間であることの悲しみや嘆きを問うことだ。
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猿は、猿であることを受け入れて生きている。猫は、猫であることを受け入れて生きている。
生きものはみな、みずからの自然を受け入れて生きている。
人間だって、人間であることを受け入れて生きている。
ただ、人間であることを受け入れることは、嘆き悲しむことでもある。
猿や猫は、みずからが猿や猫であることの感慨をとくに意識することもないだろう。
しかし人間には、人間であることの感慨がある。
好むと好まざるとにかかわらず、人間は、みずからが弱い生きものであることの感慨を抱えて生きている。
寒い、と思う。そりゃあ、猿や猫だって、寒いと思う。しかし、人間ほどには、その寒さを嘆いていない。人間は、寒さを嘆いてしまう。人間にとって寒さを「感じる=受け入れる」ことは、嘆くことだ。そして嘆くことは、弱い生きものであることの感慨である。
痛い、といって嘆く。眠い、といって嘆く。疲れた、といって嘆く。腹が減った、といって嘆く。この味噌汁は不味い、といって嘆く。このセーターは着心地が悪い、といって嘆く。時間が過ぎてしまった、といって嘆く。歳をとった、といって嘆く。
人間ほど嘆いている生きものはいない。それは、人間ほど弱い生きものであることの感慨を深く抱えて生きている生きものはいない、ということだ。
人間より弱い生きものはいくらでもいるが、人間ほど弱い生きものとして嘆いている生きものもいない。
人間はこの地球上に君臨して生きているが、それでも、人間ほど弱い生きものとして嘆いている生きものもいない。
また、そういう弱い生きものとしての嘆きを持っているから、文明を発達させてこの地球上に君臨するようになった。
猿だって、寒いことに深く嘆けば、セーターを着るようになるに違いない。しかし彼らは、寒がっても、嘆いてはいない。
人間は、嘆くことによって猿から分かたれた。
嘆くことが人間であることであり、嘆くことによって、人間であることの醍醐味がもたらされる。
人間であることを受け入れることは、嘆くことだ。
嘆きの上に、人間であることのいとなみが生まれてくる。
彼と彼女が恋をするのは、人間であることの嘆きを抱えて生きているからだ。
ことばだって、人間であること嘆きから生まれてきた。
したがってことばは、まず「嘆きの表出」として生まれてきたはずだ。そうしてその嘆きを共有してゆくことの醍醐味が見出されていった。そうやって人と人が仲良くなり、恋することの味わいがさらに深いものにもなっていった。
「寒いねえ」といって、ほろ苦く微笑み合う。ことばの起源とは、まあ、そのような体験だったはずだ。
「いい天気だねえ」とか「おはよう」ということばにだって、人間であることの嘆きが隠されてある。
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女は、女であることを「嘆き」として受け入れて生きている。それは、それだけ人間的であり、人間であることの醍醐味も深く知っている、ということだ。
女のオルガスムスの快感が、男の射精感覚よりはるかに深いのは、それだけ深く嘆きを抱えて存在しているからであり、それだけ人間的であることの証しなのだ。
原初の人類が直立二足歩行をはじめたことは、その不安定な姿勢を嘆き、胸・腹・性器等の急所をさらして立っているという嘆きを体験してゆくことだった。そのとき、そうやって弱い生きものになったのだ。それによって、他の生きものに対する何かアドバンテージを得たのではない。そんなものは、何もなかった。
しかし、その嘆きとともに世界や他者と向き合ったとき、かつて味わったことのない「ときめき」を体験した。そのときから人間は、恋をする生きものになった。たぶん、人間しか体験することのできない深い快楽と出会った。
女は嘆く生きものであることにおいて、人間の原初的なかたちをより確かにとどめており、快感の深さにおいて、人間の究極を体験している。