祝福論(やまとことばの起源)・「神話の起源」52

(承前)
安土桃山時代の茶室文化は、当時の武士たちによる戦国時代に命のやり取りをしていた高揚感や緊張感の余韻と、その機会に対する喪失感から生まれてきたひとつの代償行為である、と僕は思っている。
彼らは、茶室に入って、かつてのそうした高揚感や緊張感を反芻していたのだ。
生きるか死ぬかの立場にあるとき、この生はもっとも深く体験される。
高揚感とともに生きてあろうとするなら、戦争をするのがもっとも手っ取り早い。
それはもう、そうなのだ。
国が戦争をしているか否かは庶民にとっては運命の問題だが、われわれの生は、平和のさなかにあっても生きるか死ぬかの問題を離れては成り立たない。人は、そういうところに追いつめられて生きようとする傾向を持ってしまっている。なぜなら、そこでこそこの生のもっとも深いカタルシスが体験されるからだ。
人間の赤ん坊ほど無力な存在もない。彼には、自分で生きる能力はない。彼は、そういうかたちで「追いつめられて」存在している。そして無力であるがゆえにこそ、そこで、生きてあることの深いカタルシスを体験する。
人間は、追いつめられて無力な存在になることを引き受けてしまう生きものである。われわれの生は、そこからはじまっているのだ。そこから、生きてあることのよりたしかな手ごたえを見出してゆく生きものなのだ。
小学生が懸命に二輪車の練習をしていることだって、赤ん坊であったころの無力さ(追いつめられている状況)を反芻している行為かもしれない。
そしてわれわれ大人の男が、手に負えないやっかいな女に惚れてしまうことにしても、まあそのようなストレスを生きようとする人間ならではの心の動きにほかならないのであり、そこから人間社会のさまざまな陰影や味わいが生まれてくる。
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人間は、ストレスの中で生きようとする生きものである。
原初の人類が直立二足歩行をはじめたとき、胸・腹・性器等の急所を外にさらしているというストレスを引き受けた。そのストレスとは、「見られている」という意識であり、ここから人間の歴史がはじまった。
われわれは、意識の根源に「見られている」という自覚をストレスとして抱えている。
他者から見られている、神から見られている、共同体という世間から見られている……われわれは、あらゆる局面で、いろんなかたちで「見られている」という意識を持ってしまっている。
人間の根源にあるストレスは「見られる」ことのストレスであり、それをカタルシスに変えてゆくのが人間の生きる流儀である。原初の人類は、そうやって直立二足歩行をはじめ、ことばを獲得し、地球の隅々まで拡散していった。
住みやすい土地を求めて移住していったのではないのである。それだったら、今ごろすべての人類が住みやすい土地にかたまってしまっているさ。住みにくい土地住みにくい土地へと移住していったから、地球の隅々まで拡散するということが起きたのだ。
人類学者も世の凡庸な夢想家たちも、原初の人類が何か理想郷のようなところを求めて移住していったようなことばかりいっているが、人の住んでいない土地に移住するということは、住みにくい土地に移住する、ということである。そんなこと、当たり前のりくつだろう。そしてそれは、人間が「追いつめられる」ことのストレスを引き受けてしまう存在だからだろう。
人間の根源にあるストレスは、「無力」な存在であることの嘆きとしてある。すなわち、胸・腹・性器等の急所をさらしたまま「見られている」という状態に置かれていることの嘆きとしてある。
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むかしチンパンジーのような猿だったはずの人類の体毛は、なぜ抜け落ちたのか。
これは、人類学の大問題であるらしい。
そこでダーウィンは、人類の体毛が抜け落ちたのは体毛が薄い女が好まれたからだ、といっているのだとか。
だったら男は抜け落ちなかったのか。
女も、体毛の薄い男を好んだのか。
では、猿と同じ外見をしていた原初の人類が体毛の薄い個体を選ぶ理由とは何だったのか。
そこのところの説明は誰もしていないし、そんな選択の理由など、たんなる現代人の趣味にすぎない。説明など、できるはずがないのだ。
この説にうなずいている研究者はたくさんいる。みなさん、どうしてこんなとんちんかんな思考をして平気でいられるのだろう。
体毛が薄くなったから、体毛の薄い女が好まれるようになってきただけのことだ。それは、「結果」であって、体毛が薄くなる「原因」ではない。
原初の猿と同じように毛がふさふさしていたころに体毛が薄い女などいるはずがないし、いたら、奇形として気味悪がられただけだろう。
人類は、直立二足歩行をはじめたときから、何百万年もかけて、少しずつ少しずつ体毛が抜け落ちていったのである。
今でも体毛が濃い人間がいるということは、それが一朝一夕になったのではないことを意味する。
あるとき突然体毛の薄い女がぽつぽつあらわれてきた、とでも思っているのだろうか。
ばかばかしい。
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体毛が抜け落ちる原因の最たる要素は、老化をべつにすれば「ストレス」である。
直立二足歩行の姿勢のストレスがもっとも濃くたまっているところから体毛が抜け落ちていった。それが、胸と腹だ。
女のほうが体毛が薄いのは、それだけ女は自分の身体に対するストレスを多く抱えている存在であり、また、男は見ようとする生きものだから、なおそのプレッシャーもかかってくる。
ちなみに、男が女の裸を見ようとする生きものになってしまったのは、直立二足歩行によって女の性器が隠れてしまったからだろう。
そして、女は、隠れてしまって男が見たがるようになったために、よけいにそこを意識するようになっていった。
ともあれ人類は、いつも二本の足で立ち上がっている存在になったことによって、他者を見つめつつ、「見られている」という意識=ストレスを過剰に抱え込むことになった。そうして、そのストレスを処理しようとして衣装をまとうようにもなったし、ことばもまた、そうした存在のストレスを克服する機能として生まれてきたのだ。
向き合って黙っていると気まずい、とは、そうした「見つめられている」存在であることのストレスなのだ。
人間は、そのように「追いつめられて」存在している。
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人生において、もっともラディカルに「追いつめられている」のは、乳幼児期と思春期だろう。
だから、この時期のことを「通過儀礼」ということばとともによく語られる。
乳幼児期は、身体の無力感として追いつめられてある。
そして身体能力が完成してくる思春期は、それゆえに世界と出会い、世界から追いつめられてあることに気づく。これからどのように生きてゆけばいいのか。親や社会の制度から監視されていることのうっとうしさに耐え切れなくなってくる。
世にいう「自己意識に目覚める」とは、「世界から追いつめられている」と気づいてゆくことでもある。すなわち、人間として「見つめられている」存在であることを無意識のうちに自覚してゆくのだ。
この二つの時期の通過の仕方によって、その人の性格や世界観が決定されてゆく。
乳児期にみずからの「無力性」を嘆くということをちゃんとしておかないと、人にときめく心が育たない。「いじめ」をして平気なのも、この時期にみずからの「無力性」を嘆くということをちゃんとしておかなかったからかもしれない。
思春期に世界から追いつめられてあるという自覚深く持っていないと、恋してときめくという心の動きも薄くなる。言い換えれば、そういう自覚を持っているから、彼らの恋はせつないのだ。
追いつめられてあることを引き受けるところから、人間のいとなみがはじまっている。
追いつめられて「今ここ」に立ち尽くし、「今ここ」に対する「ときめき」を見出してゆく。人間の赤ん坊や思春期の若者たちは、そういう体験をしている。そしてそれこそが、人間存在の根源のかたちにほかならない。そんな生き方をしているから人間の体毛は抜け落ちていったのだ。
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では、思春期を過ぎればどうなるか。
だんだん世界=社会と和解して、「追いつめられている」という息苦しさも、「ときめく」という心の動きも薄らいでゆく。
文明とは、世界=自然に対するおそれや「追いつめられている」というみずからの無力感を克服してゆく装置である。したがって現代の文明社会と和解してゆけば、「追いつめられている」という息苦しさもさらに薄らいでゆく。というか、「追いつめられる」ということに耐えられなくなってゆき、追いつめられない生き方をするようになってゆく。つまりそれは、「ときめく」ことがなくなってゆく、ということだ。
自分が「有能である」と自覚してゆくことは、「ときめき」を失ってゆくことでもある。
現代人が、この文明社会を信頼し和解してゆくことは、自分が「有能である」と自覚してゆくことでもある。現代人は、そう自覚したがっているし、社会と和解しているぶんだけ自覚している。
まあ、人間だから、ときめくことがなくなるわけでもなかろうが、ときめくことを置き去りにしてしまう思想の生き方になってゆく。それが、文明人としての現代流の生き方だ。
それに対して神話の時代の古代人は、つねに世界=自然をおそれ、みずからの「無力性」を無意識のうちに自覚していた。
みずからの「無力性」を無意識のうちに自覚し、そうやって追いつめられていたから、「神」という絶対的な対象が見出されていった。
思春期の若者や古代人にとっての「神=かみ」とは、たんなるときめく心の表出である。追いつめられている心の、世界=自然に対するおそれであり、おののきであり、ときめきである。
それは、現代人がイメージしている「神=ゴッド」とは少し違う。
彼らは、みずからのアイデンティティを獲得していない。みずからのアイデンティティを失ったまま、ひたすら世界におそれおののき、ときめいてゆく。
だから彼らはチームワーク(あるいは友情)によって生きてゆこうとしているのだが、それは、現代社会の大人たちによるチームワークとは少し違う。
もっと野蛮なチームワークなのだ。純粋でプリミティブなチームワーク、と言い換えてもよい。
現代社会は「神=ゴッド」の支配による統制の取れたチームワークをつくり、それに対して彼らは「神=かみ」にときめいてゆく混沌としたチームワークを持っている。
古代であれ現代であれ、純粋でプリミティブな「神話」は、「追いつめられている」ものたちによって語り合われている。