祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」53

「神話の起源」というテーマで書き始めたきっかけは、村上春樹氏の「1Q84」という小説が爆発的に売れている社会現象に対してわれわれはどう反応すればいいか、と考えたことでした。
誰かが、村上作品は「物語=神話」の構造の上に成り立っている、そこが大衆に広く支持されるゆえんであり限界でもある、といっていた。
いわれてみれば、たしかにそうだと思った。村上氏はおそらく、意図的にそういう構造に仕立て上げている。
それでみんなが読みたがるということは、現在は「神話の時代」である、ということだろうか。
オウム真理教をはじめとするカルト宗教の流行、スピリチュアルのブーム、それらはみな「神話」という物語に引き寄せられる現象であるに違いない。「ハリー・ポッター」や「スター・ウォーズ」の映画はまさに神話そのものだし、この国にはそうした神話的な劇画や小説が人気を博するという現象も枚挙にいとまがない。
現代社会は人々の心が「神話」にひきつけられる構造を持っている、ということだろうか。
「神話」とはいったいなんだろう。それを、起源にまでさかのぼって考えてみよう、と思った。
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で、そこでわかったことは、現代の神話と起源としての神話とは異質な構造を持っているということだった。
共同体のないところで共同体ができてくる過程で語られていった神話と、共同体ができたあとに共同体のアイデンティティを確認するためにつくられていった神話、それは、人と人の関係から、人と共同体の関係に移行してゆくことだった。
村上春樹氏の作品は、つねに個人と共同体の関係が語られているわけで、後者のタイプの神話である。そこには、人と人の関係がない。個人と共同体の関係から個人のアイデンティティを確認をしてゆく、これが、村上文学のパターンであり、まさしく典型的な現代の神話の構造を持っている。そこには、「個人のアイデンティティの確認」という問題だけがあって、他者に対するときめきも、他者に追いつめられる苦悩や絶望もない。
まあ多くの現代人はまさに村上文学のコンセプトに沿うように生きてゆこうとしているのだが、もしかしたらそれは、現代の病理なのではないか。
われわれは、「個人のアイデンティティ」というものに過剰に執着するあまり、人にときめくという心の動きが希薄になってしまっているのではないか。
少なくとも「起源としての神話」を語り合っていた古代人は、そんな生き方はしていなかった。彼らはもっと人にときめいていた。
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内田樹先生のようなフーゾクに行ったことのない人たちに教えてあげたいのだが、フーゾク嬢は、ただ機械的無味乾燥に客をさばいているのではない。ただそれだけの仕事なら、苦痛だし疲れる。いやな客ばかり相手にしていると、とても疲れる。いくぶんかは心地よく感じさせてくれる客を相手にしているほうが疲れないし、時間のことも忘れていられる。それに、彼女らだって、いい女だとかかわいいと思われたいという気持ちもある。それがあるとないとでは、仕事の張り合いもずいぶん違う。だからお客のほうも、たとえその場かぎりでも「あなたと会えてよかった」というようなニュアンスのひとことくらいは差し出すのがエチケットだ。
フーゾクの小部屋にだって、フーゾクであればこその、シンプルでストレートな「出会いのときめき」がある。それがなければ、彼女らだって、この仕事は続けられない。
村上作品が置き去りにしてしまっている人と人の「出会いのときめき」や「人に追いつめられること」だって、現代社会の大切なテーマのひとつなのだ。
仕事がハードで精神を病んだという話はあまり聞かない。たいていの場合、職場での人間関係に追いつめられて、精神を病んだりやめていったりするのだ。
現代社会においても、共同体(システム)との関係から個人としてのアイデンティティを確認してゆくということよりも、もしかしたら人と人の関係のほうがより切実な問題になっているのかもしれない。
人との関係を保留したまま共同体との関係から個人としてのアイデンティティを確認しても、とりあえずの解決にはなるが、根本的な解決にはならない。人との関係を保留したままにしておける人はいいが、すでにその問題に直面してしまっている人は、それではすまない。
共同体(システム)に反抗しようと加担しようと、そんなことは関係ない。そういう関係から個人のアイデンティティを確認してそれですんでいるということは、人との関係を保留したままでいる、ということだ。
おしゃれな村上文学に耽溺していれば、いっときは人との関係を保留したままでいられる。村上春樹内田樹という人たちは、みずからのアイデンティティに居座って人との関係を保留したままにしておくことの名人である。そうやって生きてゆける人たちはそれでいい。
しかし、避けがたく人との関係にさらされ追いつめられている人の人生は、それではすまない。
人間は、根源的に他者に追いつめられて存在している。他者に「見つめられている」存在である。人間社会では、どうしてもそういう問題が露出してきてしまうのだ。若者や貧しいものや正直なものたちは、どうしてもそういう問題にさらされてしまうのだ。
村上氏や内田氏のように、ただもうそういう問題を保留したままの関係に和んでいられたらそれでいい、というものではない。それではすまないのが、人間なのだ。
人は、共同体(システム)に追いつめられて精神を病むのではない。人に追いつめられて精神を病んでゆくのだ。そして、人にときめいてゆくときにこそ、より深いカタルシスが得られる。
人間のカタルシスのありかは、古代人の起源としての神話が教えてくれるのであって、村上文学の個人としてのアイデンティティを確認してゆく神話にあるのではない。
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共同体という概念を規定する基準はとても難しくて、人によってさまざまだ。家族でも共同体のうちだ、という人もいれば、国家に限定して共同体をイメージしている人もいる。
やまとことばの「くに」ということばは、故郷の村のこともそういったりするが、おおよそ共同体のことをさしているのだろう。
縄文時代に「くに=共同体」はなかった
奈良盆地の場合、弥生時代になっていくつもの小集落が連携し合いながら、「くに」という意識で結束していったのが共同体の始まりだといえる。
「くに」の「く」は、「組(く)む」の「く」。「に」は、「似(に)る」「煮(に)る」の「に」。
組み合わさって似る=煮る、すなわち小集落(=村)どうしの連係プレーによって「くに」になってゆく。おそらくそれは、奈良盆地から生まれたことばであるのだろう。
「くに」とは、小集落が寄り集まり組み合わさってゆきながら気持ちがひとつになっていったところ。おおよそ、そういう感慨から「くに」と表出されていったに違いない。ひとかたまりの大きな集落のことを表出している響きではない。
大和朝廷は、小集落どうしのそういう連係プレーから生まれてきた。
奈良盆地の人々のそういう連係プレーが巨大な前方後円墳を次々につくり上げてゆくエネルギーを生み、そこから大和朝廷という「くに」が生まれてきた。
巨大な権力が奈良盆地前方後円墳群を出現させたのではない。前方後円墳群を出現させた民衆のエネルギーが、大和朝廷が生まれてくる基礎になっていったのだ。
奈良盆地では、大和朝廷など存在したどうかわからない(おそらく存在しなかった)3世紀ごろから、すでに次々と巨大な前方後円墳が造られていたのである。
そしてそれらの巨大前方後円墳の存在は、そこで神話が語り合われていたことを想像させる。人々の神話を語り合うダイナミズムが、巨大前方後円墳を出現させるエネルギーになっていった。
天皇を埋葬するために前方後円墳が造られたのではない。前方後円墳に埋葬した人を、のちのち天皇と呼ぶようになっていっただけのことだ。
共同体は、人々の語り合うダイナミズムから生まれてきたのであって、権力(者)がつくり出したのではない。共同体が生まれる前から権力があったなんて、論理矛盾ではないか。共同体から、権力(者)が生まれてきたのだ。
原初の共同体は、人々(民衆)が語り合う場のダイナミズムから生まれてきたのであって、権力者がつくったのではない。日本列島最初の共同体(=都市国家)である大和朝廷だって、そのようにして生まれてきたのだ。
共同体は、ある日突然悪魔か怪物のように人々の前に現れたのではない。人々が生み出していったものだ。
したがって人々が共同体から追いつめられるということはない。民衆は、共同体を受け入れる。たとえそれが、理不尽に人々を戦争に追い立てるような対象であっても、だ。
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村上文学の主題(テーマ)は、「人は共同体(システム)に追いつめられてある」ということらしい。そこが、この作家の人間についての思考の浅さなのだろうと思う。
カミユのように、共同体(システム)に対する反抗を書いているんだってさ。団塊世代だもんね、そういうことが書きたいんだよね。
共同体(システム)に対する反抗することなんか、子供が母親に駄々をこねたり仲のいいきょうだいや夫婦がけんかばかりしていたりするように、共同体に対する愛着の裏返しにすぎない。
反抗できるのは、追いつめられていないからだ。そのとき人は、反抗するというかたちで共同体(システム)と和解している。人間は、共同体(システム)に追いつめられてなどいない。
「反抗」ということそれ自体が、追いつめられていないことの証しなのだ。
共同体に対する意識は、共同体が生まれてから起きてきた意識であって、共同体を作り出した意識ではない。人間が共同体を生み出したということは、人間は根源において共同体から追いつめられてはいない、ということを意味する。
われわれの父や祖父の世代が赤紙召集令状に黙ってしたがったのは、共同体から追いつめられていたからではなく、「人間は追いつめられる状況を引き受けてしまう」という、人間であることそれ自体から追いつめられていたからだ。
戦争に反対するからえらくて、しないから愚かだとか、僕はそんなふうには思わない。いろんな意味で、人間であることに率直なものは、戦争にしたがってしまうのだ。
人間は、支配され戦地に連れて行かれることや奴隷にされることを受け入れてしまう生きものである。
現代のこの社会に「ワーキングプア」といわれる層が存在するということは、そういうことを意味する。また、いい気になって働き蜂になってしまっているということだって、ようするに奴隷にされているようなものだ。
人間は、人間でなくなってしまうことすらも引き受けてしまう生きものなのだ。
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人間は、根源において、共同体の存在を受け入れている。
人間=民衆が共同体をつくったのである。そんなこと、当たり前じゃないか。
権力者が共同体をつくったのではない。共同体から権力者があらわれてきただけである。
したがってわれわれは、その権力者から追いつめられるということはあっても、共同体(システム)から追いつめられているわけではない。
人間を追いつめているのは、人間なのだ。
人にときめくことも、人から追いつめられることもなく、人との関係をお上手に操作して生きている人間にはわかるまいが、われわれ庶民は、共同体(システム)に追いつめられてなどいない。「人間はシステムから追いつめられている」といっていい気になっていられるなんて、人にときめくことも人から追いつめられることも知らないからだ。
くだらない。
われわれは、ただもう、人にときめき人から追いつめられして生きているだけだ。
そうした他者とのせっぱつまった関係を避けながら「われわれは共同体(システム)に追いつめられている」と合唱していられたら、そりゃあ幸せだろう。とにもかくにもあなたたちは、「人から追いつめられる」ということから逃れることができている。
しかしそれは、「人にときめく」という体験を放棄していることでもある。
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自分には社会学の素養がある、とうぬぼれている連中が大勢いる。社会学で人間を語って、人間の何かがわかったつもりでいる。このネット社会には、そんな話で盛り上がっている連中がじつにたくさんいる。
そうやって「システム論」をいじくっているだけでいい気になっていられるということは、人間について深く率直に考える能力をすでに喪失していることであり、人に追いつめられることに耐えられないからそうやってそれを避けて生きている、というだけのことだ。
それが、団塊世代流の生き方であり、彼らが先鞭をつけたその流れは、いまだに続いている。団塊世代よりももっと高度な団塊世代的な思考能力を持った後続世代が続々あらわれてきている。
しかし、それでも人は、人に追いつめられて生きている。人間であるかぎり、誰もその与件から逃れられない。それが、人間であることの根源のかたちなのだ。
もっとも深く人に追いつめられて生きてあるものがもっとも深く人にときめくことができるのであり、誰だってじつは、そういうかたちを胸の底に抱えて生きている。
なのに根性がいじましく意地汚いから、彼らは、そういうところを見ることを避けているだけだ。
そうでしょう、村上さん?