祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」33

このテーマを考えることもいいかげんもう締めくくりに入っていかなければならないのだが、なかなか着地点が見つからなくて行きはぐれています。
神話の主題は、共同体や個人の「自己確認」にある、という一般的な合意に異をとなえるところから書きはじめたのだけれど、どうもうまくまとめられない。
ハードルが高すぎるというか、なんだか敵は、「ぬえ」のように消えてはすぐまた現れてくる。
「自己確認」なんて人間の普遍的な問題でもなんでもない、そんなものを伝家の宝刀みたいに振りかざすな、ということがいいたかったわけです。
そんなことが生きることの最大のテーマであるのなら、村上春樹とか内田樹とか、その他もろもろの俗物どもの天下は変わらない。いや、俗物でなければ天下は取れないのだからそれはもう仕方のないことかもしれないのだが、神話の根源的成り立ちはそんなことではなかった、ということだけははっきりさせておきたい。人間の真実は彼らの手の内にこそあるという彼らの主張など、僕は絶対に認めない。
「私は人間の真実を知っている」と彼らはいう。じつにまあ、えらそげにいう。そういう「自己確認」をして彼らは生きているらしい。そういう「自己確認」ができるほどに、自分の知性やら人格に自信があるらしい。
しかしわれわれは、「自己確認」して安心していられるほどの知性も人格も持ち合わせていない。われわれの「自己」など、惨憺たるものだ。好きこのんで「確認」できるような対象ではない。
「自分もまんざらではない」と確認することが、生きることの主題なのか。
そんなふうに確認できない人間は、生きることの主題を喪失しているのか。確認しなければ生きるに値する生にならないのか。
確認できない人々が、「自分の生は生きるに値しない」と思ってしまうのは、確認することが生きるに値することだと思っている連中が大手を振ってのさばっている世の中だからだ。そういう連中が、それをこの社会の合意事項(共同幻想)にして、確認できない人々を追いつめている。
われわれは、生きることの根源的な主題が「自己確認」することにあるのだとは思わない。村上さんも内田さんも、「自己確認」を主題にして「自己確認」できるつもりでいること、それこそがあなたたちの限界であり、あなたたちのみすぼらしさなのですよ。
なんか、みすぼらしいやつらだなあ、と僕はしんそこ思っている。
彼らもまた、僕のことをそう思うに違いないのだろうが。
「自己確認」が主題だなんて、生きることの「志(こころざし)」が低すぎるんだよ。だから、あなたたちはみすぼらしいのだ。
生きものとして生きてあることそれ自体を味わいつくせることができるかどうか、そういう問題を抱えてしまったものにとっては、「自己確認」の物語などたいした問題ではないのだ。
あなたたちは、そういう問題と向き合う能力がないから、「自己確認」というところで妥協しごまかしてしまっているだけなのだ。そうやって妥協しごまかしているから、思考がその先に広がっていかないのだ。
なるほど僕は、あなたたちから見ればどうしようもなくみすぼらしく薄汚い人間かもしれないが、あなたたちよりずっと遠くまで考えている。
村上さんや内田さん、あなたたちは僕よりも遠くまで考えているといいきれる自信がありますか。
知識のことを自慢されたら、こちらとしても苦笑いしてうなずくしかないのだが。
僕は、「自己確認」などというものを生きることの主題にはしていない。ただもう。他者に気づきときめくことができればいいだけだし、「自己確認」しているものがより他者に気づきときめいているとも思わない。
他者は、「自己確認」に先立って立ち現れる……こんなことは、常識中の常識のはずだ。「自己確認」から「出会いのときめき」が生まれてくるのではない。
古代人や原始人という他者、彼らがどんな主題を持って神話を語り合っていたか。ひとまずそういうことを考えたくてこのシリーズを続けてきたわけだが、それは、「自己確認」などという主題ではなかった。
彼らは、共同体としても個人としても「自己確認=自己完結」できないなやましさやくるおしさを表現し合い、共有していったのだ。そのように神話を共有しながら、人と人も集落と集落も連携していったのだ。
村上春樹氏や内田樹氏が提出する「自己確認」が原初の神話の主題であったのではない。そんなものは、人間の普遍的な主題でもなんでもない。そんなものは「近代」になってから突出してきた主題にすぎない。彼らの思考はすでに、「近代」に飼いならされてしまっている。
何が悲しくて僕が、彼らの歩いたあとを歩かなければならないか。僕は、すでにもう、彼らより遠くまで歩いてきてしまっている。
僕は、「自己確認」などというものを主題にして生きているのではない。
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梅原猛氏は、古事記は、柿本人麻呂天皇の要請を受けてつくり上げた神話である、という説を唱えておられる。あのすぐれた文学性は、すぐれた文学者でなければ表現できない、という。
そうして、「古事記奈良盆地の民衆が語り伝えてきた物語である」という本居宣長の説を、あっさりと棄却してくれている。
梅原氏は、神話は共同体の「自己確認」のために生まれてきた、というお定まりの思考を、当たり前のように踏襲してしまっている。
人類史における神話はどのようにして生まれてきたのかということを、ちゃんと考えていない。そこまで考える思考力も想像力もないのだろう。
「あの村のはずれの杉の木にすごい雷が落ちたんだってさ」「あの村には、米俵を三つまとめて担ぐ男がいるんだってさ」「あの山の巫女は雨を降らせる力があるんだってさ」……最初はそんな話からはじまったことくらい、ちょいと考えればすぐわかることだ。そしてそれが神話として結実していったことに対する感動が、本居宣長にはあった。
それは、人と人が「語り合う」場から生まれてきたのであって、ひとりの詩人のイメージに中だけで予定調和的につくられたのではない。
柿本人麻呂ひとりの才能から生まれてきただなんて、何をくだらないことを考えているのだろう。彼もまた、「個性」とか「才能」といった「近代」の思考から一歩も抜け出すことができない限界を抱えている、近代に飼いならされた学者にすぎない。
梅原氏には、人と人が「語り合う」ということの根源的なかたちに推参しようとする想像力が、決定的に欠落している。
神話の起源の問題が、そんな二時間ドラマのミステリーみたいなレベルの思考でかたがつくはずもないだろう。
神話は、政治だけの問題として生まれてきたのではない。
共同体が神話をつくったのではない。
神話が共有されていったところから共同体が生まれてきたのだ。
政治や経済のレベルでしかものを考えることのできない俗物は、もうその先のことは考えることができない。
本居宣長が「民衆が語り伝えたものだ」といったとき、人と人が「語り合う」ことの根源に推参しようという問題意識があった。
そういう問題意識も想像力もない無能な学者が、問題をどうしようもなく俗っぽいところに貶めて平然としている。
柿本人麻呂の作品である、といえばいっぱしの文学通になれたつもりでいやがる。
本居宣長小林秀雄も、文学に対する造詣が梅原氏なんかよりはるかに深かったからこそ、「民衆が語り伝えたものだ」といったのである。そこのところはもう、俗物の学者なんぞにわかるレベルの問題ではない。