祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」32

信濃大門さんは、こういっておられた。
西洋の「憑依」と日本列島の「憑依」とは少し違う。日本列島では能動的に「神につく」のではなく、いわば受動的に「神がつく」すなわち「神がやどる」のだ、と。
「やどり木」ということばがある。神社の心柱は、神がやどる「やどり木」であるのだとか。
この意見は、刺激的だ。
神道では、神のことを「御(み)柱」といい、「ひと柱」「ふた柱」と数える。
柱には神がやどっている、というイメージ。
出雲大社はばかでかい柱をシンボルにしているし、伊勢神宮の二十年ごとに神殿が建て替えられる「遷宮」は、心柱を新しくする行事である。
柱が神であるのではない。柱に神が「やどる」のだ。柱が神なら、取り替えたりはしない。
なぜ柱に神がやどるのかといえば、神は天にいて、柱は天に向かって垂直に立っているからだろうか。サンタクロースが煙突から入ってくるように。
そういうわけで、天地のはじめに最初に現れた神のことを「天之御中柱神(あめのみなかはしらのかみ)」とも「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」ともいう。
神は、柱の中にやどっている「主(ぬし)」であるらしい。
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「やどる」の「やど」の語源は、「遠いところにたどり着く」という感慨の表出。
一般的な語源辞典では、「や」は「家」で「と」は「処」だから「家のあるところ」という意味が語源である、ということになっているが、おそらくそうじゃない。
「や」は、「ヤッホー」の「や」、「遠い」という感慨の表出。山の稜線は見渡す景色の一番遠いところで、そこはこの世とあの世の「間(ま)」だから「やま」という。
「と」は、「止(と)まる」の「と」。
したがって「宿=やど(と)」とは、「遠くたどり着いた場所」ということになる。
ある語源辞典では、「やどる」とは「家(や)」を「取(と)る」から来ている、と解説しているが、これもいいかげんなことば遊びの域を出ていない。つまらない駄洒落だ。
「やどる」は、そのまま「遠いところにたどり着く」ことをあらわしていたのだ。
古代人が「家」のことを「やど」といっていたのは、旅人が遠いところからたずねてくるところだ、という意識があったからだ。
このことばは、おそらく縄文時代からあった。
縄文時代は、女子供が家を建てて集落をいとなみ、男たちは旅をしながらその女たちの家を訪ね歩くという暮らしをしていた。彼らの「家」は、まさしく「旅人が訪ねてくるところ」として機能していたのであり、それが、日本列島の伝統として現代まで続き、引越しすることを「やどがえ」といったりしている。
縄文時代の遺跡から、ペニスそのままのかたちをリアルに彫刻した自慰の道具が発見されている。それは、その集落の住人が女子供だけだったことを意味している。
ともあれ、「やどり木」の「やどり」とは、神が遠いところから旅をしてきてそこで休んでいる、というニュアンスなのだ。
そして「木」は、あとからのたんなる当て字で、語源としての「き」は「完結した世界」という意味を表していたのであり、したがって「やどりぎ」とは、神がやどっているもの、あるいは神が宿っている状態のありがたさを表出することばだったのだろう。
「むかし男ありき」というときなどの動詞のあとにつく「き」は、「完了」「完結」のニュアンスを表している。
「木(き)」も「気(き)」も、そこで世界が完結している、という感慨から生まれてきたことばである。木が持っている葉っぱや枝の群がりは、ひとつの「世界」になっている。そしてそこに神がいるという「気配」を感じれば、「ここで世界は完結している」という思いに浸される。語源においては、そういう「木(き)」であり、「気(き)」であったのだ。
むかしの人は、「やどりぎ」の「ぎ」を、鼻濁音で表出していたらしい。その音に思い入れをこめようとすると、自然にそういう発声になる。
語源としての「やどりぎ」の「ぎ」は、単純に「木」というだけの意味だったのではなく、「ここに神がやどっている」という感慨の表出だった。日本列島の伝統に照らし合わせてみても、素直にそのことばの語感に耳を傾けてみるにつけても、それが語源の姿だったはずだ。
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古代の日本列島における「天」は、この世界の「外部」だったのではなく、この世界の「果て」だった。この世界の外部には、何もない、「天」すらもない。彼らは、そう認識していた。
それに対して西洋人は、この世界(=天)の外部にこの世界(=天)をつくった「神」が存在する、という意識がある。
彼らは、この世界の「外部」に憑依する。
ただし、この場合の「憑依」とは、「神がかり」などの超常的な心の動きのことだけをさすのではない。もちろんそれもそうだが、意識が何かを認識すること自体、ひとつの「憑依」であるともいえる。われわれは、この世界に、そしてこの生に憑依して存在している。
誰もが「憑依」という心の動きを持っている。
西洋人はこの世界の「外部」に憑依するから、心の表現も精神の病も大げさになってしまう。この世界の外にこの世界をつくった神が存在すると考えている彼らは、ものを認識することも他者と関係を結ぶことも、この世界の「外部」に「命がけのジャンプ」をしてゆくような大げさな心の手続きを取らなければならない。そのようにして彼らは、この世界の「外部」に憑依する。
彼らにとって生きることは、神がいるこの世界の外に向かって「命がけのジャンプ」をしてゆくことらしい。
だから、「ドラッグ」を使ってでも「命がけのジャンプ」をしようとする。
彼らは、この世界の外にトリップしてゆかねばならないという強迫観念を持ち、この世界の外にトリップしてゆくことで神と出会うという達成感を体験している。
西洋においては、ドラッグを使ってこの世界の外にトリップしてゆくことは「正義」であり、それこそが根源的な生のかたちになっている。
社会的に恵まれた者たちはドラッグを使わなくてもトリップしてゆけるような社会の構造になっているが、恵まれない者たちはもう、ドラッグやアルコールに頼るしかない。何にしても、この世界の外にトリップしてゆかねば生きられない社会なのだ。
この世界の外にトリップしてゆけなくてもいいという社会ではないのである。
戦争をしてはいけないと思っていても、戦争をしなければならないという判断もしなければならない社会なのだ。
温暖化対策に協力しなければならないと思っていても、それを無視してでも繁栄を続けなければならないと判断しなければならない社会なのだ。
戦争をしてはいけないとか温暖化対策に協力しなければならないと思うのは人間としての心の動きで、戦争をしなければならないとか繁栄し続けなければならないと判断することは、いわば「神の裁き」である。
彼らは、心の内に、この世界の外の「神の裁き」を持っている。そこのところにトリップできなければ生きてゆけない社会をつくっているし、だから戦争ができる。
戦争は、凶悪な心によって起こされるのではない。いつだって「神の裁き」によって起こされるのだ。
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日本列島の神は、この世界に隠れていてときどき出現するし、隠れているという気配を感じること自体が神と出会っている体験でもある。
だが、西洋の神はこの世界の外の存在だから、けっして姿をあらわすこともなく、その気配を感じることもできない。だからもう、こちらからトリップしてゆくしかないし、トリップしてゆくことが彼らの心の動きの基本的なかたちになっている。
彼らの観念世界における「内部」と「外部」のあいだには、深い断裂がある。そうして、そのその断裂の向こうに「命がけのジャンプ」をしてゆく。
そうやって「天国」に行くのだ。
戦争をしなければならないとか繁栄し続けなければならないとかと判断することは、天国に行く心の動きであり、天国に行くためのパスポートを確保する観念行為である。
そういう判断のできないものは、天国には行けない。彼らは、きっとそう思っている。
それが、彼らの世界観なのだ。彼らの人と人の関係には深い断絶があり、そこを「命がけのジャンプ」をしてゆくようにしてつながり合う。そうやって、抱擁し合っている。
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戦争をしてはいけないとか温暖化対策の協力しなければならないとかと思うことは、神を裏切る観念行為である。「神の裁き」および「正義」は、アメリカにある。それはもう、たしかにそうなのだ。
「神の裁き=正義」を放棄しなければ、戦争をやめることも温暖化対策を実現することもできない。
そして、日本列島の伝統には、「神の裁き」は存在しない。
日本列島では、この世界の外には「何もない」。神すらも存在しない。
そうして人と人のあいだには、「断絶」ではなく「空間=すきま」があるだけで、その「空間=すきま」を共有してゆくことによって関係を結んでいる。
けっして、相手のもとに「命がけのジャンプ」をしてゆくようなことはしない。
いや、西洋だって、根源的にはおそらくそのようにして人と人の関係が成り立っているはずだが、社会的な関係を結ぶときには、そのような「命がけのジャンプ」をしてゆかねばならない構造になっているらしい。
それが、キリスト教の神によって成り立っている社会であり、人と人の関係だ。彼らは、この世界の「外部」に憑依する。
それに対して日本列島の「神=外部=超越性」は、この世界の「空間=すきま」にある。「神」は、「空間=すきま」に隠れており、そこから現れ出る。
新しい季節が、季節と季節の「空間=すきま」から現れ出るように。
われわれは、夏が秋に変わった、などとは思っていない。新しく秋が現れ出た、と感じている。
そうしてその現われ出た新しいものと「出会う」ことが、「憑依」であり、「やどる」という体験にほかならない。新しい秋が、われわれの心に「やどる」のだ。
「新しいもの」に神がやどっている。だから伊勢神宮では、二十年ごとに遷宮をする。
この世界の「外」に唯一の神が存在するのではない。
すべてのものに神がやどっている。
森にも山にも海にも鳥にも虫にも、神がやどっている。
しかしそれらの神はみな、それらの中に隠れている。その隠れている気配に気づくことが神と出会うことであり、「隠れている」ことが「超越性」であり「外部」なのだ。
日本列島ではかんたんに人が神になってしまう、とよくいわれるが、われわれはすでにたがいのあいだの「空間=すきま」を神として共有しているのであり、この世界の外に「命がけのジャンプ」をしてゆくような憑依体験を必要としていないからだ。
この国では、「神は存在する」とも「神は存在しない」ともいわない。「神は隠れている」という。