祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」31

原始時代に迷信などなかった。
現代社会に暮らすわれわれがいかに迷信深い存在であるかということを、もっと自覚してもよいと思う。
科学が発達した社会で生きているからといって、われわれがそのまま科学的な思考の持ち主だとはかぎらない。
だいいち、科学的に語ったからえらいというものでもなかろう。科学それ自体が迷信であるのかもしれない。
迷信は、古代においては、権力社会にあっただけの心の動きである。それが、江戸時代に入って庶民のところまで下りてきて、迷信文化が花開いた。
浮世絵のあのばかでかいペニスはひとつの迷信だし、「傘お化け」とか「一反もめん」とか「塗りかべ」とか、なんでもかんでも妖怪にしてしまったのは、江戸の庶民だ。
江戸時代を「近代」の幕開けだとすれば、近代こそ迷信の時代なのだ。その迷信文化の延長として、近頃のスピリチュアルとかカルト宗教のブームがある。
近代に入って、人間がひどく迷信深くなった。近代の「理念」など、ほとんどが迷信ではないか。
それはたぶん、「貨幣経済」の定着によって人間の心の動きがずいぶん様変わりして迷信深くなってしまった、ということだろうと思うが、このことについてはひとまずここでは深入りしないことにする。
ここでいいたいことはつまり、原初の「神話」と現代人が紡ぎ出す「神話」とでは、後者のほうがずっと迷信深いものになっている、ということだ。
そもそも「神」ということばの認識そのものが違う。現代の「神」のほうがずっと迷信深く、擬人化されてしまっている。
「神が世界をつくりたもうた」ということ自体が、すでに擬人化の視線であり思考なのだ。
すなわち、歴史のある段階で「神=超越性」の概念が劇的に変質してしまったということだが、それは、ヨーロッパの近代思想が世界を席巻してしまったということでもあろうかと思える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
歴史の時代区分をどのようにとらえるかという問題はやっかいだ。
大雑把にいえば、国家という共同体ができて一夫一婦制が定着してきた時期が「古代」で、貨幣経済が定着した以降が「近代」、ということだろうか。
一夫一婦制と貨幣経済、この二つによって、人間の意識と社会の構造が劇的に変化していった。
一夫一婦制によって、第三者を排除するという心の動きが顕在化してきた。
貨幣経済によって、人は迷信深くなった。
三者とは、「あなた」と「わたし」にとって、見えない超越的な場所に立っている存在である。そんなところから、「悪霊」や「怨霊」をおそれるという心の動きも生まれてくるし、そんなふうにして「神」がどんどん擬人化されてゆく。
そして「貨幣」は、交換するものにとっての「超越的な第三者=神」として生まれてきた。
人間社会は、目の前にいる「他者」との関係で動いていた原始時代から、しだいに見えない「第三者」との関係で動くものになっていった。
つまり、そうやって「神話」が変質してきた。
村上春樹スターウォーズハリー・ポッターも、しょせんは「近代」という制度性に染め上げられた神話に過ぎない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
とはいえ、人間は、先験的に「超越性」と出会ってしまっている存在である。したがって、「神」とはただの迷信である、などといってすませてしまうことはできない。
われわれの思考は、「超越性」に対する視線を媒介として広がりもすれば深まりもする。
「超越性」に対する視線は、人間の思考のエンジンのようなものである。
たとえば、人類史における「ゼロ」という概念の発見は、超越性に対する視線を持っていたから実現したのだろう。
この生や世界にときめくということ自体が、超越性に対する視線なのだ。
目の前にすてきな商品がある。買おうかと思うけれど、別の店に行けばもっとすてきなものがあるかもしれない、と思う。
想像力とは、超越性に対する視線のことであるともいえる。
ネット社会に現れた虚構の美少女が、若者たちを魅了してゆく。その美少女は、虚構であるがゆえに、より豊かな超越性をそなえている。それはまさに「神話」の構造であり、彼らは「神」を必要としている。
神を必要としている若者が、町にあふれている。
いや、誰の心の中にも神を必要としている部分はある。人間の心は、超越的なものに対する視線で染め上げられている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古事記によると、神は「天地(あめつち)のはじめ」から現れ出たことになっているが、キリスト教では、神が天地を創造した、といっている。
キリスト教の神は、この世界の外にいる。彼らは本当の「外部」というものを知っている。だからキリスト教は普遍的な「世界宗教」たりえている、といっている知識人は多い。
そうじゃない。人間なら誰だって「外部」という「超越性」をイメージしてしまうのだ。「外部」を知っているのは、キリスト教徒だけではない。みんな知っているのだ。
その「外部」をどうイメージしてゆくかの違いがあるだけだ。
日本列島では、この世界の外は「ない」と思っていた。だから、そういう神話が生まれてきた。「ない」ということは、「外部」を持たない、ということではない。「ない」というかたちで「外部」を意識している、ということなのだ。
たとえば、「わたし」は「あなた」の過去を知らないし、そんなことはどうでもいいと思うから聞こうともしない。そのとき「私」は、「あなた」に過去がないと思っているか。そんなことはないだろう。「あなた」に「過去という外部」があることくらい、ちゃんと知っている。「ない」というかたちで、知っているのだ。
日本人の島国根性は「外部」という意識が希薄である、などとわけ知り顔でいわれると、ほんとにうんざりする。「外部=超越性」に対する意識を持っていない人間などいるものか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天地を創造した神のイメージを持っているからえらいというものではない(べつにバカにもしないけど)。彼らは、そういうかたちで「外部」を意識しているだけだ。われわれだって、「外部には何もない」というかたちで「外部」を意識している。意識しているから「ない」というイメージが生まれてくるのだ。意識しなければ「ない」と思うこともない。
日本列島の住民にとっては、「ない」ことが「外部の超越性」にほかならない。だから、日本列島の神は「隠れる」というかたちでイメージされている。
古事記での最初の神は、「現れてすぐ隠れた(成りまして、身を隠したまひき)」、と記述されている。この表現の「あや」を見過ごすべきではない。
では、人類史において、そういう「外部」の「超越性」に対する意識はどのようにして発達してきたのか。
西洋では、1万年前くらいから、すでに一夫一婦制が定着していた。
もともとネアンデルタール以来一か所に人が寄り集まってゆく習性を持っていたのだが、氷河期が開けて爆発的に人口が増えた。
氷河期の北ヨーロッパ人はたくさん子供を生んだ。寒さのために乳幼児の死亡率が高く、そうしないと群れを維持できなかった。彼らは、群れ集まってゆこうとする切実な衝動を先験的に持っている。
そうして氷河期が明けて気候が温暖になれば、当然乳幼児の死亡率も低くなり、もともと多産系だった彼らの群れは、爆発的に人口が増えていった。
しかし、人間がまとまって行動できる群れの限度は、100人から150人くらいである。猿は、この臨界を超えると、群れが分裂する。
人間だって、たとえば500人の集団になれば、自然に4つか5つの百人前後のグループに細分化されてゆく。
しかし、猿のように新たな群れとして独立してゆくことはない。他の群れとの関係を持ったほうが、何かと都合がいい。たとえば、女を交換できる。男も女も、よそのグループの異性のほうが魅力的に見える。そういう関係を持って、初めて100人の集団が自己完結できる。
この小集団は、500人の全体の群れに対する違和感やうっとうしさを抱えながら、自己完結しようとしている。自己完結しながら、500人の群れに参加してゆく。
しかし自己完結するなら、50人のグループのほうがもっといい。10人なら、なおまとまりやすい。そのようにして細分化してゆきながら、最後に究極の自己完結する単位として一夫一婦制の家族が生まれてきた。
人間の群れは、自己完結しようとする衝動を先験的に持っているのではない.自己完結できないで際限なく寄り集まってゆこうとしてきたから、こんなにも大きな群れをいとなむことができるようになったのだ。
しかし生きものとしての限度を超えて大きくなったとき、細分化して、その大きな群れに対して自己完結しようとする衝動が生まれてきた。
氷河期が空けて群れが際限なく膨らんでしまったことによって、自己完結しようとする衝動が生まれ、その最終的なかたちとして一夫一婦制の家族が生まれてきた。
それはおそらく、西洋的「自我」の発見でもあったのだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
弥生時代奈良盆地は、小さな浮島のような干上がった土地が点在する湿地帯であったために、100人から150人以上の大きな集落をつくれる条件が与えられていなかった。
そういう自己完結できない集団では細分化の動きが起きてこないから、一夫一婦制の家族も生まれてこない。
アジアでは、ヨーロッパに比べて一夫一婦制の家族の定着が大きく遅れた。弥生時代奈良盆地の集落は、アジア的集落のひとつの典型だったのかもしれない。
しかし、ヨーロッパでは大きな集落が生まれアジアでは生まれなかったからといって、アジアのほうが文化的に遅れていたというわけではない。
ヨーロッパではその大きな集落群がそれぞれ都市国家として自己完結していったが、アジアでは、自己完結できない小集落が無限に連携してゆき、結果的にはさらに大規模な共同体になったりもしていた。それが、インダス文明黄河文明になったのだろうが、それでも、ヨーロッパではいち早く一夫一婦制の家族制度が定着して「自我」が発達してきたのに対し、アジアでは、一夫一婦制の家族の定着も「自我」の発達もなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人類の群れの「都市化」におけるその限度を超えた密集状態の混乱やうっとうしさは、人々に自己完結しようとする意識をもたらし、その結果として一夫一婦制の家族制度が生まれてきた。
一夫一婦制の家族は、自己完結して閉じてゆき、外部の第三者を排除することの上に成り立っている。彼らはつねに外部の第三者を意識し、その「超越性=異質性」を確認することによって自己完結を得てゆく。
そしてそれは、この世界の外の第三者を超越者として意識している、ということでもある。つまり、世界の外に世界を創造した神をイメージしている。
これに対して「父」がいないために自己完結できなかった古代のアジア的家族は、つねに「父という外部」の「不在=ない」を意識している。
古代ギリシャをはじめヨーロッパの都市国家群はそれぞれ自己完結してよく戦争をしていたために、城塞などの都市の防御の機能も発達したが、インドから東南アジアにかけての古代文明は、無防備で実にあっけなく滅ぼされてしまったケースが多い。
古代のアジアでは、自己完結してゆく一夫一婦制の家族制度がなかなか定着しなかった。
アジアの神話には「神が天地を創造した」という発想はない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
弥生時代から古墳時代にかけての奈良盆地の各集落は、共同体としても家族としても自己完結できない「嘆き」を共有しながら連携していた。
彼らにとって今ここに不在の「第三者=父=他の共同体」は、その出現によってはじめて世界を完結させてくれる対象だったのであり、排除するべき相手ではなかった。だから、大和朝廷の都には城塞などというものはなかった。
彼らは、そうした第三者たる対象の「不在」をつねに嘆いて暮らしていた。したがって、そんなところから「城塞」の思想など生まれてくるはずがない。
彼らにとっては、その「不在」こそが「超越性」であり、「神」であることの証しだった。
「ゼロ」という概念は、アジアで発見された。
そして仏教は、「空(くう)」を止揚する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヨーロッパにおける人と人の関係の文化は、「三角関係」として発達してきた。そうして「神」は、この世界の外のこの世界を創造する第三者としてイメージされていった。
しかしアジア(ことに奈良盆地)では、この世界の中の「不在」の対象としてイメージされていた。
この世界の外に存在することの超越性。それに対して、今ここにおいて「不在」であることの超越性、そして外部性。この違いが、そのまま起源神話の違いとしてあらわれている。
つまりヨーロッパでは、良くも悪くも「第三者」を意識しながら他者との関係がつくられてゆき、それが一夫一婦制の家族制度になっていったのだが、アジア(ことに奈良盆地)では、第三者を「不在」とする他者との関係が止揚されていた。
だから日本列島の住民は、三角関係に対する免疫が希薄である。三角関係を意識する訓練が足りないから、第三者を相手にする外交交渉が下手だ。「あ・うん」の呼吸などということは、第三者には通じない。
亭主の浮気は見て見ぬふりをするのが女のたしなみである、という。
相手の身分や過去を聞くのはつつしめ、という。
今ここのこの世界の外は何もない、とイメージする「不在」の文化。
しかしだからこそ、「出会いのときめき」も鮮やかに体験されるわけで、アジアの「出会いのときめき」を止揚する文化に対する、ヨーロッパの「一緒にいる(共生する)ことの充足」を止揚する文化、ともいえる。
とすれば「アジア的なるもの」とは、一夫一婦制の基盤が脆弱な文化のことかとも思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「神が天地を創造した」という神話は、ようするに、一夫一婦制が早くから定着していた地域の風土性から生まれてきたイメージである、ということであって、それが普遍的な真理であるか否かと問うのはせんないことだ。
もしもそこに普遍性があるとすれば、人間は先験的に「超越性」に対するイメージを持っている、ということだけだろう。
だからわれわれは、「神」という概念を否定も肯定もしない。人間はそうした「超越性」に目がいってしまう存在である、という事実をそのまま受け入れるだけだ。
われわれは「神話」が生まれてくるような社会の中に暮らしているのであり、この先に「神話」から解放される時代もきっとないだろう。
「神話」とともに生きることは、人間であることの与件なのだ。
しかしそれは、「神が存在する」ということとはまた別の話である。くどいようだけど。