祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」7

僕が書くことのだめなところは、原典(テキスト)をちゃんと検証していないことにあります。
それどころじゃないんだよ、といえば言い訳になるけど、まあ人間がだらしなくできているから、めんどくさいのです。
古事記に出てくるオトタチバナヒメの話は、昔も今も、人々を魅了してきた。
ヤマトタケルが東国遠征に出かけた際、嵐の海の中で船が立ち往生してしまい、ヤマトタケルの妻だか召使いだかのオトタチバナヒメがみずから海に身を投げて海の神の「祟(たた)り」を鎮めてくれた、という話。
自己犠牲、ですね。
そこまで好きな男への愛に殉じることなんか、誰にでもできることじゃない。自分もそんな愛され方をしてみたい、そんな女と出会ってみたい、と思うのだろうか。
女は、「もう死んでもいい」という瞬間を持つことができる。それは、つらいことを思い詰めた果てだったり、オルガスムスという快楽の果てだったり、愛する人間のためだったり、まあいろいろだろうが、とにかくそんなふうに「今ここ」において自分の生が完結してしまう瞬間を体験することができる。
女は、一人では死ねない男のために一緒に死んでやることができる……そんなふうにして「心中」が生まれてきたのだろうか。
また、古代には、そんな「生贄」というか「人身御供」のようなことがよく行われていたのだろうか、という問題もある。
そんなことはいくらでもあった、とも、なんにもなかった、ともいえる。
なぜなら古代人は、オトタチバナヒメの例のようにかんたんに自分を投げ捨てることができたし、また、そんなことをしたがるほど「自己と共同体の関係」を強く意識していたわけではないからだ。
あの橋の橋桁の下には人身御供が埋まっていて、そのおかげで橋が壊れない……という伝説があるとすれば、それはたぶん、そんなことがあったからではなく、そういう話にして壊れないことを信じようとしているだけだろう。
もしほんとうにそんなことがあったのなら、誰もが口をつぐんで語り継ごうとなんかしない。
戦争に行って何人も人を殺してきた、と嬉しそうに語る人なんか、めったにいない。それと同じことさ。その話が語り継がれているということは、そんなことがなかったことの証しなのだ。
そして、「なかった」という事実よりも「あった」という嘘のほうがより真実味を帯びて信じられてゆく、という人間の心の動きがある。その心の動きの上に伝説=神話が成り立っているのであり、その心の動きに伝説=神話を語り継ぐ妙味があるのだ。
基本的に伝説=神話は、「うそ」である。「うそ」であることが、伝説=神話のアイデンティティなのだ。
事実を語り継ぐことなんか、おもしろしくもなんともない。だから、その話は、ときが経つにつれてどんどん変質していって、もとの事実なんか跡形もなくなってしまう。
事実を語り継ぐことではなく、その過程で話がつくりだされてゆくところに、熱狂があり感動があるのだ。
現在にも「人身御供」の伝説がたくさん残っているとすれば、それが「うそ」だからだ。
「うそ」だから、安心して語り継ぐことができるのだし、「うそ」だから熱狂し感動し、信じられてゆくのだ。
人間は、「うそ」を生きようとする生きものだ。
僕も、安酒場のホステスの語る身の上話に、何度もだまされてきた。
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オトタチバナヒメの入水なんかただのつくり話だが、古代人はかんたんに「自分を投げ捨てる」能力を持っていた、ということは信じられる。彼らのそういう性向が、そういう話を生み出した。
彼らは、「自分を投げ捨てる」ことのカタルシスによって共同体をいとなんでいた。
人間は、あらかじめ限度を超えて密集した群れの中に投げ込まれているという不幸を抱えて存在している。どんなに人里はなれたところに住んだって、観念的には、誰もがそのようにして存在している。それが、人間であることの与件なのだ。
誰もが、あらかじめそのような「嘆き」を抱えて存在している。その「嘆き」を共有してゆくことこそ、原初の共同体が成り立ってゆく契機になっていたのであり、その「嘆き」を共有することによって、猿やライオンのように余分な個体を追い払うということもせずに、限度を超えて密集した群れの状態と和解していったのだ。
西洋人のいう「快感原則」なんかじゃない。「嘆き」を共有していることこそ、人間がこんなにも密集した群れの中で生きることを可能にしている。「嘆き」を共有してゆくことが、人と人の関係の基本なのだ。
だから、われわれは、いともたやすくもらい泣きをしてしまう。いや、赤ん坊はもっとかんたんにそうなってしまうということは、生きものじたいの群れをつくることの基本はそんなところにある、ということかもしれない。
5万年前の氷河期に、地球上でもっとも大きな群れが存在したのは、もっとも住みにくい土地である極寒の北ヨーロッパだった。それは、「嘆き」を共有してゆくことが大きな群れになることを可能にしていった、ということを意味している。
一番住みやすい土地に一番大きな群れができていたわけではないのである。
5千年前のナイル文明の発生にしても、ナイル川の氾濫という災厄に対する「嘆き」を共有してゆくことによって、人々が寄り集まって暮らしてゆくダイナミズムが生まれてきたのだろう。その結果土地が肥沃になった、ということは、あくまで「結果」にすぎない。
人類の歴史は、「嘆き」が共有されてゆくことによって、人口が密集していったのだ。
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人は、「嘆き」を抱えて存在しているから、「自分を投げ捨てる」ということができるのであり、「自分を忘れる」という状態がカタルシスになる。
初期の共同体は、そういう心の動きを共有してゆくことの上に成り立っていた。
支配者が現れて共同体をつくったのではない。共同体が大きくなってゆく過程で、人々が支配者(リーダー)を必要としただけのこと。また、共同体が大きくなってくると、この群れをどのようにあんばいしていったらいいか、と考えるものが出てくる。ともあれ、まず、そのようにして共同体の歴史がはじまったのだ。
初期の共同体は、「自分を投げ捨てる=自分を忘れる」ことのカタルシスを共有してゆくことの上に成り立っていた。
「神話」はそのための装置だったのであり、したがって古代人は「自分を投げ捨てる」ということがかんたんにできたし、そのことに喜びを持っていた。
オトタチバナヒメの話は、弥生時代以来のそういう伝統から生まれてきた。
たぶん、そのころの古事記を語り伝えていた人々は、われわれも昔はもっと「自分を投げ捨てる」ということができていた、という思いがあったのだろう。今はもうオトタチバナヒメみたいな女はどこにもいないじゃないかという思いと、それでも誰の中にも今なおそんな心の動きが残っているという思いが重なって生まれてきた話ではないだろうか。
彼らは、まだまだ「嘆き」を共有していた。古事記の内容は、全体としては、すでに共同体との関係から自分を確認してゆくという物語になってしまっているのだが、それでも細部には原始共同体の心の動きの痕跡は残されているのであり、われわれ現代人だって、何のかのといってもけっきょく「嘆き」を共有してゆくことが人と人の関係の基本になっている。
だから、オトタチバナヒメの話に心を動かされるのだ。
自己犠牲、なんか関係ない。根源的に不幸を負って存在している人間にとって、「自分を投げ捨てる」ことは、気持ちのいいことなのだ。
それを、「自分を確認する」行為として考えようとするからややこしくなるのだし、できなくなってしまいもするのだ。
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そのときオトタチバナヒメには、自分を投げ捨てる喜びがあった。
「あなた」と出会って微笑み会うことができるとしたら、われわれがどこかしらで人間であることの「嘆き」を共有しているからであり、微笑むとは、自分を投げ捨てる喜びのことだ。
その話を、「自己確認」とか「自己実現」とか、そんなややこしい「物語」にするべきではない。そんなものが欲しいのなら、きっと村上春樹の小説が与えてくれる。
人は、「自己確認」や「自己実現」のために「自己犠牲」という行為を選ぶこともできる。そしてそういう行為が美しいのかどうかなんて、僕にはよくわからない。
そのときオトタチバナヒメは、ただのやけくそで飛び込んだだけかもしれないですよ。ヤマトタケルへの愛、なんてものは、よくわからない。誰かが飛び込むしかないのなら、私が飛び込んでやろうじゃないの、という気持ちだったのかもしれない。誰かが飛び込んで嵐がおさまるのなら、ヤマトタケルよ、おまえが飛び込めよ、という話です。
それがもし「自己犠牲」の話であるのなら、そういうことでしょう。
人間の心には、「自分を投げ捨てる」喜びがある。それは、人間が、根源的に「嘆き」を抱えて存在しているからであり、人間の群れが、じつは「自分を投げ捨てる喜び」を共有してゆくことの上に成り立っているからだろう。
「自己犠牲」なんか関係ない。そんなことを確認して自分にうっとりしているなんて、不潔だ。オトタチバナヒメは、そんなふうにうっとりして死んでいったのではない。
「もうどうでもいい」というデカダンスが彼女の中にあったのであり、それこそが古代人の心の動きだった、と僕は勝手に解釈している。
ことばを発することは、自分を表現することであると同時に、自分の中の思いを外に吐き出して自分の中を空っぽにしてしまう行為でもある。「思い」が体の中にたまっていることより、空っぽになってしまうことのほうが気持ちいい。そういう実存的な気持ちよさが根源にあって、やがて「自分を表現する」という制度性が生まれてきたのだ。
おそらく現代人は、「自分」に執着することをやめないだろう。しかしたとえ現代人であろうと、じつは、この密集した群れのなかで「自分を投げ捨てる喜び」とともに人と人が出会い、ときめき合っているのだ。