祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」6

前回のエントリーで、同じ文章を反復させて載せてしまいました。ごめんなさい。それは、現代では、もっとも耐え難いことのひとつらしい。そうだと思う。
神話の起源について書くことは、、先の見通しなどまったく立っていないけど、なんとなく長くなりそうな気がしています。
なぜならそれは、われわれが今の時代生きていることと少なからずかかわっている問題だろうと思えるからです。
お台場の「ガンダム」も大人気を博しているらしいし。
またたとえば、「物語(神話)の構造」が売りだといわれている村上春樹氏の新作が異常な売れ方をしていることにしても、われわれの時代が今「物語(神話)とは何か」という問題を共有していることのあらわれかもしれない。
われわれは今、「物語(神話)」によってこの「閉塞感」から抜け出したいという衝動を抱えているのだろうか。
では、「この閉塞感」とはどんなものかといえば、地球に人間があふれ、この国ではすべて地域が都市化して人がひしめき合って暮らしている、ということもそのひとつに違いない。
そして、すべての都市が「表通り」ばかりのつくりになって「裏通り」という「ガス抜き」の場所がどんどん消えていっているということもあるのだろうか。
明るい表通りを歩ける人間でなければ生きていてはいけないような世の中になってしまっている。
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「神話」は、人間の群れが限度を超えて密集したものになっていったときの、ひとつのガス抜きの装置として生まれてきた。われわれ現代社会は、そのことに対するさまざまなガス抜きやごまかしの方法を持っているが、けっきょく人間は、最終的には「神話」に頼ろうとするものらしい。
「私は幸せです」とか「俺の人生もまんざらではなかった」とか「人はみなかけがえのない存在である」とか、そんなふうに思うのも、つまりは「神話の思考」なのだ。
ただ、それが、原初の「神話」と同じ構造かといえば、それはちょっと違う。
そこが問題だ。
ブラジルには、20万人を収容するサッカースタジアムがあるという。人々はそこで、ゲームという「神話」を共有しながら熱狂してゆく。
じゃあそれは、コンピューターゲームに熱中してゆくことと同じかといえば、ちょっと違うだろう。
どちらも「ゲームという神話」なのだが、前者は自分を忘れて熱狂しているし、後者は、思い切り自分の世界に浸っている。
なぜ自分を忘れているかといえば、スタジアムのみんなと何かを「共有している」というカタルシスがあるからだ。そして後者は、誰とも共有することなく、ひたすら自分を確認している。
自分を忘れることと自分を確認すること、つまり、「群れ」を止揚してゆくか、「自分」を止揚してゆくか。
「神話」とは、「群れ」を止揚する装置であるのか、「自己」を確認するための道具であるのか。
村上春樹の「物語=神話」は、「自己」を確認する道具として、きわめて高度に洗練されている。
そして原初の神話は、ものぐるおしく自己を忘れさせ、群れを止揚してゆく。
神話とはもともとそういうものであったのだが、共同体の制度が完成されてくるにつれ、共同体の支配の正統性=正当性を語る物語に変ってきた。
つまりそれは、神話が民衆によって共有されているものから、支配者のものに変ってきた、ということだ。
古事記」と「日本書紀」は、おそらくそういう構造の違いを持っている。前者は、共同体の発生から文字による支配が現れるまでの時期に語り継がれていった物語であり、後者は、文字による支配が始まったことを宣言している。
古事記を語り伝えていったのは民衆であって、支配者の命令によるのではない。
巨大な前方後円墳のことにしろ、初期の大和朝廷は、民衆の主導によってつくられてきた。われわれは、そのことに気づくべきだ。
古事記のようなプリミティブな神話は、物語の構造として、神に憑依しながら自分を忘れ解き放たれてゆく機能を持っていたが、時代を経るにつれて、やがて、神との関係から自分を確認(発見)してゆく物語に変ってきた。
人々は、「共同体=国家制度」の完成によって、自己を確認することに執着するようになってきた。
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初期の「神話」は、村上春樹の小説のように、共同体(システム)との関係から「自己」を発見してゆく物語として生まれてきたのではない。
そんな自己確認にうつつを抜かしているのは、現代人ばかりだ。
共同体が発生したころの人々に、「共同体=システム=世の中」というようなイメージはなかった。ただ、たくさんの人間が群れ集まって暮らしていることのしんどさが嘆きとしてあっただけだ。
したがって、「自己」を確認しなければならない理由もなかった。「共同体=システム=世の中」というものを強く意識したところから「自己確認」というテーマが浮かび上がってくるのだ。
それは、生きものとしての実存的な嘆きだった。
そんなとき猿やライオンなら、余計な個体を群れから追い払って実存を確保する。
しかし人間は、自分(の身体)を忘れることによってその密集状態と和解してゆく。それが、直立二足歩行をはじめたとき以来の、人間が群れの中で生きてゆく流儀になっている。
初期の神話はそのようなところから生まれてきたのであって、「共同体=システム=世の中」を強く意識したからではない。
古事記神武天皇大和朝廷を打ち立てたという話がいちおうクライマックスになっているのだろうが、そんな物語が生まれる以前のプリミティブなかたちはどんなものだったのか、ということを考えたいのだ。
そのときは、共同体など語られていなかった、ただ「神」が語られていただけだ。そして、「国生み」などもしなかった。ただもう、天上には神の世界があってなにやらわけのわからない超越的なことが起きている、ということが面白おかしく語られていただけだろう。
そこで人々が神話を語り継いでいったわけは、共同体の起源ではなく、神に憑依していって「自分」を忘れてしまうことにあった。みんなして超越的な神に憑依してゆくこと、憑依を共有していること、それによって、自分たちの集団の密集状態に対するなげきから解放され、むしろ密集してあることそれ自体がカタルシスになっていった。
彼らには密集状態の嘆きはあっても「共同体=システム=世の中」という意識などなかったのだから、とうぜん「国生み」という話などもうまれてくるはずがない。
ただもう、みんなして憑依できる「かみ」が造形されていっただけだ。
豊作を約束してくれる神、というイメージもなかった。彼らは、豊作でなければないなりの生き方をしていた。われわれよりはずっと運命に従順だった。豊作でなければならないレベルの共同体になってきたのは、もっとあとの時代のもっと集団の規模が大きくなってからのことだ。
彼らにとって「かみ」は、何かをしてくれる取引する対象であったのではなく、あくまで「憑依」してゆく対象だった。スタジアムの観衆がグラウンドのゲームに憑依してゆくように。
憑依、といういいかたが悪ければ、熱狂といっても感動といってもいい。
それが、初期の神話だった。
彼らに、「共同体の起源」などという発想はなかった。共同体というイメージそのものがなかった。ただもう、われわれ現代人と同じように「この閉塞感」から抜け出したかったのだ。お台場に等身大の「ガンダム」を立たせるように。
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古代人は、社会(共同体)のことを「世(よ)=世の中」といった。
このことばは、いつごろから生まれてきたのか。
おそらく、共同体のなかった縄文時代にはなく、農耕社会が生まれてきた弥生時代にぼんやり意識されていったのだろう。
「世(よ)」は「寄(よ)る」の「よ」。「夜(よる)」の「よ」でもある。
「よよと泣き崩れる」の「よ」、「よれよれ」の「よ」、「ようやく」の「よ」。
心もとない感慨から「よ」という音声がこぼれ出る。
「寄(よ)る」とは、あてどなく移動してゆくこと。酒を飲んで心があてどなくさまようことを「酔う」という。あてどない「さま」を、「さまよう」という。
「夜(よ)」は、日が暮れて何も見えなくなってゆく時間帯のこと。
「よし」とは、試行錯誤の果てに最終的な結論に達すること。「し」は「知る」の「し」。「死(し)」もまた、この生の最終的な結論にほかならない。
古代の人々は、「世(よ)=共同体」をうまくイメージできなかった。
よくわからないが、われわれが寄り集まっている空間があり場所がある。そんな感慨から「世(よ)」ということばが生まれてきた。
いや、ただ、人が寄り集まっていることを「よ」といったのかもしれない。
人が寄り集まっている状態というのはとても不安定な状態であり、だから「よ」といったのかもしれない。
したがって初期の神話に「共同体の起源」などという物語はなかったし、共同体と「自己」との関係というモチーフもなかった。
それは、「自己」を忘れてものぐるおしく熱狂してゆく話として語り継がれていった。
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村上春樹氏も内田樹氏も、しょせんは近代合理主義にどっぷり浸った観念の持ち主であり、彼らがいうように、自己を確認し、自己をしっかり持てば何もかも解決するとはかぎらない。
ある意味でそれはとてもはた迷惑なことだし、それによって当人も他者に対するときめきを失ってゆくほかない。
他者にときめくとは、自分を忘れてしまう心の動きのことだ。
他者に対するときめきを失ったまま仲良しグループを結成し、なんだかときめいたつもりになっている。それはたぶん、現代人の病理なのだ。
村上作品は、「自己確認の物語」という構造になっている。内田氏も、はしゃぎまくってそこを評価しているのであり、村上作品を思い入れたっぷりに読んで自己確認していない人がいたら、お目にかかりたいものだ。僕だって、かつてはそんなことをしていた。今だって、読んだら、たちまちそんな心の動きに誘われてしまうのかもしれない。
良くも悪くも、それが、村上作品の魅力なのだ。
いつのまにか人類の「神話」は、自己確認の道具になってしまった。
現代人が自己確認に執着するのは、ひとつの制度性なのだ。誰もが、自己確認に執着するほかないような「神話」をすでに持ってしまっている。
人との関係に執着して仲良くしていると喜んだり、いやな思いをさせられたと過剰反応して追いつめられたり、他人より優位に立とうとして他人を安く見積もったり、けっきょくはそうやって自己確認ばかりしている。
現代では、他者との関係が、自己確認の道具になってしまっている。やさしいお人なのだろうが、ちっともときめいてなんかいない。おそれてもいない。
「私は幸せです」とか「俺の人生もまんざらではなかった」とか「自分は成長して立派な大人になった」とか、そんな「物語=神話」を紡いで自己確認ばかりしている。
僕なんかいつまでたっても成長できずに、あいも変らずつまらない人間を生きている。きっと、死ぬまでこのざまだろう。
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原初の共同体は、誰もが「自分を投げ捨てる」ということをしなければ運営してゆけるようなものではなく、そのための装置として「祭り」や「神話」が生まれてきた。
それに対して村上春樹氏の小説は、じっとりと自分に執着してゆく愉悦を与えてくれる。
売れるはずさ。
現代の神話は、そのように機能している。
F・カフカは、「誰かが目覚めていないといけない」といった。
村上氏も内田氏も、人類の未来のためにひとりだけ目覚めている「センチネル(見張りの歩哨兵)」を自認しているのだけれど、そうやってじっとりと自分に執着してゆくことが「目覚めている」ことになるのかねえ。
僕は、自分が「センチネル」になりたいとなんか思わない。人類の未来なんか、知ったこっちゃない。自分が目覚めているのか眠っているのかということもよくわからない。
僕の発言は、まったくいいかげんだ。人類のためになんかならない。なりたいとも思わない。
ただ、村上氏や内田氏に対して、「おまえら、一流大学を出て50年60年生きてきて、そのていどのことしか考えられないのか」という思いを抑えきれないだけだ。
そうして、行き当たりばったりに書いているだけのこと。未来なんかあるとは思っていない。
内田氏は、「子供は、大人という<人間>になりつつある存在である」といっておられる。
そんなことあるものか。
誰だって、赤ん坊だって、すでに「人間」であるに決まっている。
誰の生も、「今ここ」において完結しているのだ。
直立二足歩行をはじめた原初の人類は、限度を超えて密集した群れに置かれてある不幸の中で、この生を「今ここ」において完結させてしまう観念の手続きを持った。そうやって人間は、猿から分かたれていったのだ。
原初の人類の群れは、猿やライオンのように、よけいな個体を群れから追い払うということはしなかった。
それは、そうしないですむ未来の展望を持っていたからではなく、「今ここ」においてこの生を完結させてしまう心の手続きを獲得したからだ。
「今ここ」の「ものぐるおしさ」においてこの生は完結している。「今ここ」が未来も自分をも超越した「かみ」である、という実存感覚、そこから「神話」が生まれてきた。
問題はややこしい。
どこから手を付けていったらいいのか、よくわからない。
めんどくさいから、行き当たりばったりに書いてゆきます。