祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」5

共同体とうまく調和していないと、人は、自分など生きていてはいけないのではないか、ここにいてはいけないのではないか、という気分になってしまう。
そういう気分と無縁でいられる人は、幸せです。
しかしこのブログは、そういう気分をどこかに抱えながら生きている人に向かって発信したい、と思っています。
人は、そうかんたんにそういう気分から逃れられない。
本当は、誰もがその胸の奥のどこかしらに、そういう気分を抱えているのではないだろうか。
働き盛りの大人たちや幸せなセレブたちは、そんなものはさっさと封じ込めてしまっているのだろうが、老人や若者や子供や女たちは、そうはいかない。何とかその気分をやりくりしながら生きてゆくしかない。
まあ、そこからこの世界の真実を見つけ出すことや芸術を創造するということも生まれてくるのだし、そういう人たちがあっけなく打ちひしがれるということも起きている世の中なのだ。
共同体とうまく調和してそういう気分のない人は、いまさら、何とか共同体と調和して人とうまくやってゆこうという意識がない。そんなことは、すでにちゃんとやっているつもりでいる。だから、彼らによってこの世界の真実が見つけ出されることや芸術が創造されることも稀であるし、彼らの存在がそういう気分の人たちを追いつめているということもある。
人間は、この限度を超えて密集した群れとうまく調和できない。それでも調和してゆくためには「神話」を持たねばならない。
「神話」は、人々を慰める。そして、慰められた瞬間から、調和してゆこうとする(この世界と和解しようとする)衝動を置き去りにしてしまう。
古事記がなぜあんなにも荒唐無稽な話になっているかといえば、和解できない「ものぐるおしさ」の中に身を置くことが和解してゆくことだ、というパラドックスの上に成り立っているからだ。
和解できないことの「ものぐるおしさ」を共有してゆくことによって、日本列島の人と人の関係の文化が成り立っている。われわれが深くお辞儀をして挨拶するのは、和解できないことの「ものぐるおしさ」を共有してゆく作法なのだ。
われわれは、抱きしめあって世界を完結させる、というようなことはしない。
このへんは、ややこしいところだ。
たとえば村上春樹の小説のような人を慰める「神話」は、ひとまず用心してみるほうがよい。それは、われわれの中の何かを麻痺させる機能を持っている。その「神話」は、われわれに自己陶酔(ナルシズム)を与えてくれる。そのときわれわれは、村上春樹と自己陶酔(ナルシズム)を共有してゆく。
自己陶酔、すなわち、みずからの「個」の「固有性」を確認すること。人は、社会のシステムとの関係から、みずからの個の固有性を確認する。システムを肯定しようと否定しようと同じことだ。システムとの関係に身を置くことが、みずからの個の固有性を確認することになる。
「神」を否定することは、「神」との関係に立つことだ。
原初の神話は、他者との関係に向かう契機になっていた。それは、神との関係の不可能性を表現するものだったからだ。
しかし共同体の制度が定着してくると、神との関係を描くようになってくる。神との関係を持つと、個の固有性が与えられる。つまり、人々のあいだで、他者を安く見積もることによってみずからの個の固有性を確認してゆくという習性が生まれてくる。現代の神話は、そうやって個人に「慰め」を与えている。
システムとの関係に立ってみずからの個の固有性を確認しながら、人は、他者との関係に無感動になってゆく。
人間社会に「神話」は必要だが、それによって世界が完結するわけでもないし、完結させてしまってはならない。また、おためごかしに、完結しない、といって慰められるわけにもゆかない。けっきょくは、そうやって神=システムとの関係に立ちながら、みずからの個の固有性を確認している。
古事記を語り継いだ古代人は、生きてあることの「ものぐるおしさ」を手放さなかった。それは、神との関係の不可能性に立って、他者との関係に向かう物語だったのだ。