祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」10

日本列島において、集団が大きくなったり集団どうしの連携が生まれたりして「共同体」ができていったのは、弥生時代に入ってからだった。
縄文時代の集落は、女子供だけで構成されていたから、集落どうしの連携は生まれにくかった。女は、家や集落の中に閉じこもって生を完結させてしまう傾向がある。外をほっつき歩く男が集落の成員になったとき、集落間の連携や対立が生まれてきた。おそらくそれが、弥生時代の始まりだった。
初期の共同体において、もっとも切実な問題は、その密集しすぎた集団において人と人の関係をどのようにあんばいしてゆくかということだった。
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食うことは技術的な問題だったが、人と人の関係は、心の問題だった。その心の問題を解決していったのが、「神話」だった。
弥生時代奈良盆地は、もっとも「神話」が充実し、もっとも大きな共同体が形成されていた。彼らは、「天皇」という「神話」を共有してゆくことによって集落間の連携を果たし、大きな共同体を形成していった。
そこで大きな共同体ができていったということは、集落間の戦争の果てに最後に一番強い集落が全体を支配していったとか、そういうことではない。現在の歴史家はそんなくだらない「物語」ばかり語りたがるが、たとえばそのころの九州地方はそんなことばかりしていたからいつまでたっても大きな共同体を形成できずに、最後に大和朝廷に飲み込まれることになったのだ。大和朝廷に支配されるようになって、やっと集落間の連携が生まれてきて、それで抵抗を試みたりするようになったが、そのときはもう遅かった、ということだ。
集落間の戦争の果てに大きな共同体が生まれてきたなんて、彼らの考えることは薄っぺらだ。
おそらく九州は、弥生時代において、もっとも「食う」という問題を解決している地域だった。しかし「食う」という技術的な問題を解決しても、大きな集団の「共同体」は生まれてこない、ということだ。解決していたから、連携する必要がなく、対立ばかりが起きてきて、しばしば戦争にもなった。
「食う」ことなんか関係ない。人と人の「出会いのときめき」がダイナミックに起きてきて、はじめて大きな共同体が生まれてくるのであり、現代のこの国おける戦後の復興も、そのようにして実現していった。
それに対して誰もが「食う」という問題を解決して幸せになっているわれわれの時代において、テレビでは物を食っているシーンばかりがあふれ、料理本が大いに売れまくり、食うことしか頭にないないような人間ばかりになってきている。それは、人と人の「出会いのときめき」が薄れ、共同体がもうこれ以上大きくなりようがなくなっていることを意味している。
現代人は、食うことと、幸せと、みずからの個の固有性の確保と、そんなことばかり考えている。
怒ってもしょうがない、そういう時代かと悲しくなるばかりだ。
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しかし腹が立つのは、なんだか安っぽい古代の歴史解釈ばかりがのさばっていることであり、弥生時代奈良盆地は集落間の戦争ではなく「連携」に成功していたからいち早く大きな共同体を持つことができたのだということが、ほとんど語られていない。そういうことを想像する能力のないあほな歴史家どもが、寄ってたかって戦争物語の安っぽい「古代のロマン」を吹聴しまくっている。
奈良盆地で稲作農耕を中心の暮らしをいとなんでゆくには、集落間の連携をつくってゆくしかなかった。そうやってみんなで巨大な前方後円墳を造って灌漑施設にしたり、それを信仰の対象にしたりしながら大和朝廷が生まれてきた。それは、そこに巨大な権力が存在したことの証しではなく、集団間の連携がつくられていたことの証しなのだ。それがなければ、共同体が未発達だったあの時代に、あんなばかでかいものはつくれやしない。
大化の改新のあとに、「薄葬令」という、もう大きな墳墓を造ってはならないというお触れが出た。そのときになってはじめて、この国における、支配者による統治が本格化したのだ。
弥生時代の末期に吉備や出雲や九州の連合軍が奈良盆地を攻め入って大和朝廷を打ち立てただなんて、そんなくだらない物語を史実であるかのように語るのはやめていただきたい。コンピューターゲームじゃあるまいし、おまえら、あほか。そのころ「連合軍」を組織する能力は、「天皇」という「神話」を共有している奈良盆地(あるいは畿内)の人々にしかなかったのだ。
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「神は、みずからの姿に似せて人をつくりたもうた」と聖書では説いているらしいが、人が人に似せて神をイメージしていった、という問題もある。
人間は、何かというと「擬人化」したがる生きものである。
おもちゃ遊びをしている子供は、自分がおもちゃになってしまっている……といっても、それは、おもちゃを擬人化しているということだ。だから彼らは、おもちゃが泣いているとか歌っているとか、そんな言い方を当たり前のようにする。
古代人が虎になったり熊になったりするイメージを持ったことだって、ようするに虎や熊を擬人化していただけのこと。
人間の心は、この世界のすべてのものにまとわりつきまとわりつかれて、すべてのものを「擬人化」してしまう。
しかし、虎や熊の「能力」は、人間を超越している。人間の「外部」に存在するものだ。そういう超越性から、「神話」が生まれてくる。
限度を超えて密集した群れを形成している人間の心(観念)は、先験的に他者の存在にまとわりつきまとわりつかれている。まとわりつきまとわりつかれる心の動きを持っている。その心が、この世のすべてのものにまとわりつきまとわりつかれてゆく。それが、「擬人化する」という心の動きである。
人の心は、「もの」にまとわりつきまとわりつかれる。この世界の森羅万象のすべての「もの」にまとわりつきまとわりつかれている。
人間は、何もかも擬人化して、観念的に身動き取れなくなっている。だから「神」という超越的な「外部」に向かって心が動いてゆく。
心が動くとは、まとわりつきまとわりつかれている「もの」を引きはがしてゆくことだ。
何もかも擬人化してしまう人間は、鳥になったりもする。しかし、鳥になってしまえば、もう人間ではない。空を飛ぶことは鳥にしかできない。人間にはできない。だから、鳥になろうとする。人間は鳥になることはできるが、空を飛ぶことはできない。鳥だから、空を飛ぶことができる。
鳥が空を飛ぶ「こと」は、人間の外部に存在する。この世界の森羅万象のすべての「こと」は、人間の外部に存在する。その「こと=事件」が伝説になり、神話になってゆく。初期の共同体の人々は、そういう「こと」を共有してゆくことによって、定住していることの他者およびこの世界とのまとわりつきまとわりつかれている関係と和解していった。
定住して共同体をいとなんでゆくことは、他者の存在だけでなくこの世界とも、まとわりつきまとわりつかれる関係を結ぶことだった。
人間の共同体は、「神」という外部を共有してゆくことによって、そのまとわりつきまとわりつかれる関係と和解していった。