祝福論(やまとことばの起源)・閑話休題

戦国時代が終わって安土桃山時代に入ると、茶の湯が流行してきた。
それは、戦国時代の「死と背中合わせ」の生きざまを芸術として昇華してゆくムーブメントだったのだろうか。戦争がなくなって、そのとき武士たちの心に、かつてのそういう切羽詰った高揚感の余韻や、空虚な心地の喪失感はあったはずだ。
彼らにとっては、茶の湯も、それはそれで「命のやり取りをする」行為だったのかもしれない。千利休切腹という壮絶な自死の話は、そういうことを連想させる。
客が茶室に入ることは、死と背中合わせのところに追いつめられることなのだろうか。おそらく利休にとっては、そうだったのだろう。
まず畳二枚の狭い空間に閉じ込められる。そこで人は、何かを覚悟する。ここにはもう、未来も過去もない。「今ここ」があるだけだ。
もう、どこにも行けない。そのとき客は、奴隷になったようなものである。
主(あるじ)のもてなしは、献身的であると同時に、専制的でもある。
マゾヒズム、という。
人は、追いつめられることを引き受けようとする。この生はそこからはじまる、という感慨がどこかにある。
われわれの父や祖父が赤紙召集令状に従ったことにしても、人間の根源に潜むそうしたマゾヒズムとともにあったのではないだろうか。
そして戦争帰りの僕の父にも、高揚感の余韻や喪失感はたしかにあった。