祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源(オモロ)」51

沖縄には、「オモロ」という古い歌謡の文献が残されている。
沖縄の万葉集だ、ともいわれている。
たぶん、大和の人間が入り込んでくる中世よりずっと前の石器時代のような暮らしをしていたころから歌い継がれてきたものであり、それを16世紀ころに生まれた中央(首里)の権力者の要請によって採録しまとめられたものを「おもろそうし」というらしい。
ただ、「オモロ」には、恋の歌がほとんどない。神の歌ばかりである。
そこが、本土とは状況が違っていた。
本土の万葉集には、神の歌はないも同じで、多くは恋の歌である。本土には、縄文以来、共同体を持たないまま恋の歌ばかり歌っていた八千年以上の歴史がある。だから、共同体の発生とともに神の歌も生まれてきたが、いぜんとして恋の歌が人々の心を中心を占めるものであったわけで、そんな状況から万葉集が生まれてきた。
それに対してどうやら古代の沖縄では、神の歌が人々の心の中心にあり、それは、早い段階からすでに共同体がつくられていたということを意味する。おそらく本土の縄文時代のころから、すでに共同体が存在していたのだろう。
共同体がつくられれば、人々の暮らしのもっとも大きなイベントは共同体の結束のための祭りになり、そこでは神の歌が歌い踊られる。
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本土では、縄文時代以来、「歌垣」というかたちで、男女が集まって歌い踊るという習俗が長く続いてきた。沖縄のように神の歌を歌い踊るよりも、こちらのほうが主流だった。
本土の住民が神の歌を歌い踊ることを覚えたのは、中世以降の一遍や空也による「念仏踊り」などが生まれてきてからのことだろう。
それ以前は、「祝詞(のりと)」のように、厳粛に神に歌を捧げるということはあっても、みんなで陽気に神の歌を歌い踊るということはしなかった。
その代わりに、恋の歌をみんなで歌い踊るということをしていた。
もちろん沖縄にも、古い恋の歌はたくさんあったに違いない。しかしそれ以上に彼らは、神の歌をみんなで歌い踊るという習俗をおそらく日常的にいとなんでいた。そんな暮らしの中から「オモロ」が生まれ育ってきたのであり、それは、歴史の早い段階から大きな集落=共同体がその地域に生まれていたからだ。
本土には、少なくとも縄文時代を通じての8千年のあいだ、大きな集落はほとんどなかった。
本土のほうが広いから本土のほうに大きな集落あったと考えるのは、短絡的過ぎる。歴史は、そんなかんたんなものじゃない。
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氷河期が明けた1万年前の縄文時代、本土の平地は、山間地の氷が溶けて流れ込み、、ほとんどが人の住めない湿地帯になっていた。そのために人々の多くは、山間地で暮らした。
それに対して沖縄では、氷河期でも氷原などなかったから、海に面した平地でも、湿地帯になることはなかった。それに山はジャングル同様で、人が住める場所ではなかった。
山間地には大きな集落が生まれてくるようなスペースはないが、海辺の平地に人が集まってくれば、自然に大きな集落が生まれてくる。
魚や貝は、運がいいときは余るほど獲れるが、しかし腐りやすい。そして時化(しけ)が続いたりして運が悪いときは、まったく獲れない。だから、海産物と農耕作物との交換も積極的日常的に行われていたのかもしれない。そういう行為を活性化するためにも、共同体としての結束は必要になってくる。
海の民は、一日一日が勝負で、農耕民のような季節の区切り目があまりない。気質的に、どうしてもあまり先のことを考えない暮らしになってゆく。
したがって彼らが神の歌を歌い踊るということをしていたとしたら、それはもう、なかば日常的ないとなみであったはずである。
そうやって寄り集まることが好きだから、大きな集落=共同体ができていった、ともいえる。
本土での神の歌は、収穫や田植えのときなどの特別なものとして発展してきた。しかし沖縄の神の歌=オモロは、神に対する日常的な感慨が歌われている場合が多い。
彼らは、本土よりずっと早くから大きな集落としての共同体を持っていたし、本土よりもその日暮らしの気質が濃かった。そのために、神の歌が日常化されて、恋の歌が残ってゆく機会を侵食していったのかもしれない。
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「オモロ」は、もともとは「ウムイ」と呼ばれていた。
人々が神殿前の広場に集まってこの歌を歌い踊るというのが正式なものであったらしいのだが、「おもろそうし」が編纂される16世紀ころには、すでにすたれかかっている習俗で、このころになってから「オモロ」と呼ばれるようになったのだとか。
したがってこの歌が盛んに歌われていたころの名称は、「ウムイ」だったのだ。
「ウムイ」の「ウム」は、「生む・産む」の「うむ」。
「うむ」ということばは、けっして軽やかな響きではない。
「うむ」と、重々しくうなずく。あるいは、「うむ」と、答えに窮してしまう。
「産みの苦しみ」というように、子を産むことは苦しい行為に決まっている。
「うむ」は「生む・産む」という意味である、というのではない。沖縄においてもおそらくそういう「苦しさ」のニュアンスを持ったことばだった、ということだ。そうしたニュアンスにおいては、やまとことばも沖縄ことばも、起源は同じなのだからそう大きな違いはないはずだ。
「い」は「いの一番」の「い」、「それそのもの」というような強調の音韻。
したがって「ウムイ」ということばの実質的な意味は、おそらく「ウム」にある。
とすれば、「ウムイ」という神の歌を歌い踊る場にも、「産みの苦しみ」があったのだろう。
つまりその歌は、「即興」で歌われていたのではないか。「ウム」とは、「即興」という意味だったのではないか。
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「オモロ=ウムイ」の基本的な形式は、「反復」である。
祭りの広場に人々が集まり、まず二つのグループに分かれ、最初に主題が歌われたあとに片方が短いフレーズを差し出し、それを受けたもう一方がその中のことばをひとつ変えて返してゆく。このやり取りを、えんえんと繰り返してゆく。
ことばをひとつだけ変えて返してゆく、というのは、それが即興であった証拠だろう。そして差し出すほうも、最初のころは即興であったはずだ。
たとえばこんなふうに、
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このおみや このまみやに  訳・この御庭 この真庭に
むかしから けさしから     昔から けさし(昔)から
あすびおみや おどりおみや   遊び御庭 踊り御庭
げにあるげに だにあるげに   実にあるゆえに 誠にあるゆえに
 …(ここまでが主題)…
雨乞いに 踊らしゅん      雨を乞うて 踊らす
いぶ乞いに 踊らしゅん     いぶ(雨)を乞うて 踊らす
踊らば あすばば        踊らば 遊ばば
三か日てば とうさ       三日では 待ち遠しい
四か日てば とうさ       四日では 待ち遠しい 
夜ぐれのふが内に        夕暮れのうちに
夜すずめが内に         夕しじまのうちに
雨おろちへ たまふれ      雨をおろしてください
いぶおろちへ たまふれ     いぶ(雨)をおろしてください
あばす風 くわぬ        荒れ狂う風は 乞わない 
しきよと風 くわぬ       恐ろしい風は 乞わない
きよらねど 乞る        清らかな(雨)をぞ 乞う
みなよねど 乞る        柔らかい(雨)をぞ 乞う
やわやわと たまふれ      柔柔と ください
なごなごと たまふれ      和和と ください
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即興でもなんとかなるていどの短いフレーズの繰り返しだし、もともと世界中の歌は、即興としてはじまっているのではないか。
ただ、これはあくまで原型的なもので、もちろん「おもろそうし」にはもっと複雑で高度な反復の歌も掲載されている。
ともあれこれは、即興の妙を楽しむイベントだったのではないか。
気のきいた応酬が生まれれば大いに盛り上がる。そして、気のきいたフレーズは次の機会にも引き継がれてゆきながら、しだいに様式化されていった。
とはいえ古代人にしても、誰もが拍手喝采するような気のきいたフレーズを差し出すことは、かんたんではなかっただろう。そういう困難さの中に身を置きながら歌い上げてゆくことこそ、この行事の醍醐味だったのかもしれない。
そういう「産みの苦しみ」というニュアンスを含みながら「ウムイ」と呼んでいたのではないだろうか。
そしてその応酬を繰り返す二つのグループは、本土の「歌垣」のような男と女ではなく、二つの異なった集落だったのだろう。そうやって集落どうしが張り合う緊張感と高揚感が、即興のフレーズを生み出すエネルギーになっていったのだろうし、同じ共同体の仲間であるという連帯意識にもなっていったのだろう。
ともあれわれわれは、ここでも、「追いつめられる」という心の動きがはたらいていることに気づくことができる。追いつめられて即興的なフレーズが生まれてくるから、「ウムイ」というのだ。
人類は、限度を超えて密集した「群れ」の状態から追いつめられて、二本の足で立ち上がり、ことばを生み出してきた。「オモロ=ウムイ」は、そういう起源のかたちの痕跡を残している。
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幼児はよく即興の歌を口ずさんでいる。古代人もまた、自然に即興のことばが浮かんでくるような感性を持っていたのではないか。
文字がなかった時代において、ことばは今ここで生まれ、消えてゆくものだった。人々は、ことばを即興的なものとして扱いながら生きていた。
大昔は語彙が少なかったし、「語り合う場」がことばのおもなフィールドだったということもある。
それに対してわれわれは、即興的に扱える範囲を超えてたくさんの語彙を持ってしまったし、ことばの機能も、ただ語り合って楽しむだけのものではなくなってしまっている。
だから文字を持ったのであろうが、それによってことばから支配され、ことばを自由に即興的に扱う能力を失った。
現代では、ことばが、「今ここ」だけのものではなくなってしまっている。文字は、われわれの意識を「今ここ」から引きはがし、いたずらに過去や未来につれてゆく。そうして、「今ここ」に対するときめきが薄くなってしまっている。
ことばの即興性は、「今ここ」に対する「ときめき」の上に花開く。
いつの時代も、語らいの場は、ことばの即興性の上において盛り上がっているのだ。
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文字を持たない幼児には、「今ここ」しかない。彼らは、「今ここ」にときめいて生きている。「今ここ」に対する「ときめき」の表現として、即興的な歌が口からこぼれ出る。
「未来」という時間など存在しない。過去も、すでに存在しない。過ぎ去った時間は、なかったも同じなのだ。「今ここ」の記憶として存在しているだけだ。
われわれには、「今ここ」しかない。われわれは、「今ここ」に幽閉されて生きてある。
意識にとっての「ときめき」は、未来にも過去にもなく、「今ここ」の「超越性」に対する反応として起きている。
この生は、この世界は、「いまここ」において完結しているという感慨。それが、「ときめく」という意識のはたらきだ。
われわれの「今ここ」は、ときめくことができるほどに超越的であり得ているか。
原初のことばは、「今ここ」に対する「ときめき」として生まれてきた。
「オモロ=ウムイ」が即興的なことばの応酬としてなされていたということは、そういうことを意味する。
この世界は、「今ここ」の超越性として存在する。未来も過去もない。「今ここ」において完結している。
どんなに生きにくい世の中であっても、「今ここ」において完結しているのだ。それはもう、そうなのであるから、われわれはそれを受け入れて生きてゆくしかない。
「明るい未来」なんか、われわれの生きるよりどころにはならない。「今ここ」にときめくことができるかどうか、それがすべてだ。「オモロ=ウムイ」の即興性は、古代人のそういう生きざまをあらわしている。
沖縄の人々は、みんなで寄り集まることが好きで、即興性を楽しむ心を豊かに持っている。沖縄には、そういう伝統がある。
本土の歴史のルーツが沖縄にあるのではない。沖縄は、沖縄なのだ。
「おもろそうし」は、「少々稚拙な万葉集」というような性格のものではない。沖縄にしかない「神の歌」なのだ。
岡本太郎は、沖縄には沖縄独自のものが何もない、といった。それは、そういう沖縄の固有性を見ることができなかったからだ。