祝福論(やまとことばの語源)「神話の起源」50

六本木の東京国際映画祭で、ブルガリアの映画を見てきました。
イースタン・プレイ(東方の祈り)」というタイトルで、人間や時代についてのいろんなことを考えさせてくれる映画でした。
そういう普遍的な問題を扱いながら、若い感性でとても誠実につくられていた。
この映画を見ながら僕は、ふとカミユの「異邦人」という小説を思い出した。そういう魅力と内容を持った映画だった。
主人公は、若い画家。彼は、木工所で働く労働者でもある。ブルガリアは、この国と違って、才能があってもかんたんにアートだけで食っていけるような国ではない。それにこの主人公は、才能や学歴があっても、適当なデザイン会社とかに入ってこぎれいな仕事をするというようなことができない。不器用で自堕落で、おまけに精神を病んでいて、毎週病院通いをしている。
彼は、何かに追いつめられている。
たとえば彼は、食い物をうまいと思って食ったことがない。社員食堂でビール瓶を片手にいかにもまずそうに昼食のパンをほおばっているシーンは、何かおかしくて悲しくてちょっとセクシーでもあった。
恋人の扱い方も、不器用だ。泣きながらすがり付いてくる彼女を抱きしめながら、俺みたいなくだらない男と付き合うのはやめとけ、とつい言ってしまう。
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現代のブルガリアは、停滞し荒廃している。首都のソフィアでは、若者にドラッグが蔓延し、ネオナチズムの暴力が顕在化してきている。まるで70年代から80年代にかけてのヨーロッパ先進国のような状況を、いま体験している。
ソフィアの街の風景も、なんだか40年前の東京のようだ。近代的な高層ビルなどほとんどなく、街外れには、いたるところに何もない原っぱが広がっている。
それでも彼らもまた、まぎれもなく「現代」を生きている。そこがしんどいところだ。こんな状況でユーロに参加しても、置き去りにされてしまうだけだろう。
イギリス・フランス・ドイツ・イタリア等の先進諸国だって、いまはブルガリアに手を差し伸べている余裕はない。
同じ東欧でも、もっと北よりのポーランドチェコなどはそれなりに活気を持ってがんばっているが、ブルガリアをはじめとする地中海に近いバルカン諸国は、民族紛争の火種を抱えたまま、いつまでたっても荒廃から抜け出せないでいる。
ベルリンの壁が崩壊して、ソヴィエト共産主義の支配から解放されたからといって、どうやって国づくりをしていけばいいのかよくわからない。ブルガリアにとってそれは、いきなり荒野に放り出されたようなものだった。
ポーランドチェコは、ベルリンの壁崩壊以前から、ソヴィエトから自立していこうとする動きをしていた。そのためにソヴィエト軍のひどい侵攻を受けたりもしたのだが、それ自体が自立の能力が生まれてきていることの証拠でもあった。
それに対してブルガリアは、つねにソヴィエトの庇護を頼りにしていた。なぜなら彼らは、それ以前に数百年にわたるオスマントルコの支配にあえいでいたからだ。そのトラウマがあり、目の前のトルコという国に対する警戒心を、強迫観念としてつねに抱えていた。
それに、バルカン諸国どうしも、昔からいつも戦争ばかりしていた。それは、彼らがイスラム教とキリスト教のはざまに置かれて、人々の心のよりどころがつねに変化して定まらなかったからだ。この国のように、いつも「天皇」を共有してまとまっていられるような条件ではなかった。イスラム教徒とキリスト教徒に踏み荒らされるたびに、人々の心のよりどころとしてのまとまり方も変化し、けっきょくそれとともに国境を変更せざるを得ないような状況になっていった。
ブルガリアは、古くは東ローマ帝国の植民地にされ、そこからやっと独立したと思ったら、遠いアジアからやってきたモンゴル軍に国土をめちゃくちゃにされたあげくに、あっさりとイスラム教徒であるオスマントルコの属領にされてしまった。つねにまわりの地域からもみくちゃにされてしまう歴史を歩んできた彼らは、ソヴィエトの庇護の中に入って、はじめて落ち着くことができたのかもしれない。
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彼らほど「追いつめられる」という心の動きを深く体験している民族もない。
まさに東と西の通り道であるブルガリアは、バルカン諸国の中でももっとも残酷に東と西から踏み荒らされてきた地域であると同時に、だからこそもっともがんばって自立しようとする闘争心にあふれた国でもある。
ブルガリアがようやくオスマントルコからの独立を果たしてソビエトの同盟国になった第一次世界大戦直前のころ、彼らは、まわりのすべての国と戦争をしているような状況に置かれていた。そのために地中海沿岸の地域を失うことになったのだが、ともあれ、そうやって必死にがんばってしまう国民なのだ。
ブルガリアの国民性を考えるとき、ストイチコフという世界的に有名なサッカー選手の名が浮かんでくる。彼はまさに、ブルガリアそのものだったのではないだろうか。
ものすごく我が強くて、それでいてなんとも人恋しいさびしがり屋で、それが彼のプレースタイルにちゃんとあらわれていた。
ワールドカップで得点王になり、名門バルセロナで活躍し、選手生活の晩年には日本の柏レイソルでもプレーした。
彼は、めちゃくちゃわがままなフォワードであると同時に、ちゃんと味方が受けやすいところにボールを蹴ってパスすることができなければサッカー選手の資格はない、などともいっていた。たしかに、彼のパスは、ほんとに正確だった。味方を生かすこともうまかったが、フォワードである自分の動きにちゃんと反応できない味方選手も、容赦なく叱った。「ここにボールをよこせよ」とか「もっとまともなパスが出せないのか」と。
そして、審判とけんかになることもしばしばで、よくレッドカードを出されていた。
ストイチコフの激情、それはたぶん、ブルガリアそのものだった。だから彼は、ブルガリア人に熱烈に愛され、現役を引退するとすぐにブルガリアナショナルチームの監督になったのだが、残念なことにあまりいい成績を残せなかった。
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ブルガリア人の激情は、それほどに彼らが深く「追いつめられている」からだ。彼らは、つねにまわりから追いつめられ、踏みつけにされながら歴史を歩んできた。
激情家で、深く追いつめられているから、精神を病んだりもする。
映画の中で、主人公と仲良くなったトルコ娘が、「いま、世界中の人々が追いつめられて行き場をなくしている」ということをいっていた。そうして、「でも、希望はある。それは神がいるからだ」という話になってゆくのだが、そうなると主人公はもう、苦笑いしてうなずいているしかない。
この会話は、心理カウンセラーの宗教家とのあいだでも反復される。宗教家は言う。「神がいるかぎり、人は成長するし、世界はゆっくりゆっくりよくなってゆく。だから希望を捨ててはいけない」と。
そう諭された主人公は、やっぱりあいまいな表情を浮かべながら「「でも俺には、希望はない。この息苦しさから逃れる方法は、ビールを飲んで酔っ払うだけしかない。そして、飲んでも飲んでも飲み足りない」というばかりである。
「異邦人」の主人公は、「神なんかいない」、と宗教家に食ってかかった。しかしこの映画の主人公は、そういう態度もとれない。そこに、ブルガリアの歴史の悲惨と人々の心の重苦しさがある。
一方的にキリスト教徒にされたりイスラム教徒にされたりしながら歴史を歩んできた彼らは、「神」を肯定することも否定することもできない重苦しさをかかえてしまっている。
そういう重苦しさは、われわれにはわからないし、そういう重苦しさ抱えているがゆえの思考の深さも、われわれにはない。
この国では、これほど誠実で深みのある映画はつくれない。
ブルガリアの国民は、われわれよりずっと深いところで追いつめられ嘆いている。
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人間は、根源的に追いつめられて存在している。追いつめられて存在していることが、人間であることの与件であり、追いつめられて二本の足で立ち上がっていったのだ。
したがって、「追いつめられていない」という自覚を持てば問題が解決されるというものでもない。
むしろ、「追いつめられている」という自覚(=嘆き)を持つことこそ大切なのだ。そこから、チームワークが生まれてくる。われわれは、「すでに解放されている」のではなく、チームワークによって解放される生きものなのだ。
「追いつめられている」存在だからこそ、解放されるカタルシス(ときめき)を体験できる。
「すでに解放されている」と思っているから、チームワーク(連係プレー)がへたくそなのだ。そうやって「自己愛」や「自尊感情」にしがみついているから、チームワークすなわち愛が薄いのだ。そうやって自分にこだわってばかりいて「チームワークという愛」が薄いから、「自分を愛するように他者を愛せ」などという倒錯したへりくつが捏造されるのだ。
内田樹先生、あなたが女房や娘に逃げられたということは、あなたはそれほどにチームワークが下手だ、ということを意味するのですよ。下手でもかまわないが、下手だと自覚しないで、逆に俺ほどチームワークの上手な人間もいないと居直ってくるから目障りなのですよ。
われわれ現代人には、起源としての「神話」を生み出した古代人ほど上手でダイナミックなチームワークをつくる能力はない。
それは、「自己愛」や「自尊感情」という砦に居座って、「追いつめられている」という自覚(=嘆き)が希薄だからだ。
われわれには、原始的な石器だけでマンモスに挑んでいたいたネアンデルタールや、ヒグマ狩りをしていた古代のアイヌや、鯨取りをしていた縄文・弥生人のようなチームワークはない。彼らは、つねに「もうここで死んでもいいい」という覚悟で狩に挑んでいた。それは、「自己愛」や「自尊感情」を捨てていた、ということだ。彼らにとってそのような無謀な狩をすることは、そういう感情を捨てるほかないところに「追いつめられる」ことだったのであり、そこからチームワークが生まれ、仲間への愛が生まれてきた。
起源としての神話だって、自分を捨てて誰も見たことのない神の話をチームワークで共有していったのであり、それは、マンモスやヒグマや鯨の狩をするのと同じ行為だったのだ。
「自分を捨てる」というタッチを持っているのが、人間の人間たる証しなのだ。
そしてそれは、「追いつめられている」という自覚(=嘆き)から生まれてくる。
イースタン・プレイ」という映画は、そういう自覚(=嘆き)の深さを描いている。