祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」49

人間が二本の足で立って歩くということは、「無力」な存在になることである。
それが、直立二足歩行の起源である。
それは、攻撃することが困難な不安定な姿勢であると同時に、胸・腹・性器等の急所をさらして、防御においてもきわめて不利な姿勢である。
猿がふらふらしながら手に棒を持って振り回しても、たかが知れている。それよりも四足歩行の姿勢で俊敏に動くほうがずっと有利である。原初の人類だって、そういう猿だったのである。「手に棒を持って外敵と戦うため」などという学説は、人間が最初から剣の達人だったといっているのと同じなのである。
また、「食料を手に持って恋人のもとに運ぶためだった」といっている研究者もけっこう多いが、原初の人類だってほかの猿と同じように、最初は長い時間長い距離を歩けるような能力などなかったのだ。それに、みんな一緒に行動していたのだから、長い距離を「運ぶ」などという必要はなかった。
そのとき男たちは、鞄を抱えて毎日通勤して家に帰ってきていたのではないのである。何をくだらないこと、考えてやがる。チンパンジーは、群れで行動しながら、行った先々で寝床を作って寝る。原初の人類も、「帰るべき家」も、「待っている恋人」も持たなかったのだ。
だいいちそんなことをいったら、男だけが立ち上がって、女子供はいつまでたっても四足歩行をしていたことになる。
それは、みんなでいっせいに立ち上がったのだ。
そうして、ただもう群れの中で立ったままうろうろしていただけである。
原初の直立二足歩行は「森」の中で生まれたのであって、サバンナに出てきて覚えたのではない。これはもう。現在の考古学の常識である。森の中は長く歩けるような場所ではない。
障害物だらけの森の中は、四足歩行の動物がいきなり二本の足で立って歩き続けることなど不可能な場所である。だから、立ったままうろうろしていただけなのだが、それによって立ったままでいることのできる「姿勢」を獲得し、それによって遠くまで歩いてゆけることができるようになったのだ。
人間が遠くまで歩いてゆけるようになったのは、恋人に食料を運んでいこうとする「意志」を持ったからではない。猿は、そんな「意志」を持ったくらいでは、遠くまで歩いてゆくことなどできないのである。それは、「立ったままでいることのできる姿勢」を獲得することによって、はじめて可能になるのだ。
遠くまで行くこともできず、俊敏に動く能力も戦う能力も喪失し、そういう「無力」な存在になって、群れの中で立ったままうろうろしていただけなのだ。
その「無力性」が、直立二足歩行からはじまる文化や文明という栄光?をもたらしたのだ。
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人間ほど高度なチームプレー(連携)ができる生きものもいない。
ライオンがチームプレーで狩をするといっても、そのときだけのことである。
しかし人間は、あらゆる局面でチームプレーをしてゆく。チームプレーをすることが人間であることのゆえんであるともいえる。人間という概念は、チームプレーをすることの上に成り立っている。
それは、人間が根源的に「無力」な存在だからだ。
「無力」で、自分ひとりではこの生を成り立たせることができないからだ。
その姿勢は、攻撃することが困難で、攻撃されたらひとたまりもない姿勢である。だからそれは、二人とも(あるいはみんなが)立ち上がっていることによってはじめて成り立つ姿勢である。
一人だけで立ち上がっていたら、一人だけが攻撃されて、誰にも勝てない。一人だけ四足歩行のままでいれば、一人だけみんなをやっつけることができる。
だからそれは、みんなでいっせいに立ち上がった姿勢なのだ。
そのとき、二本の足で立ち上がるということ自体が、「チームプレー」だった。
人間のチームプレーの能力は、人間であることの「無力性」の上に成り立っている。
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森の中の狭いスペースで四足歩行の姿勢のまま群れとしてひしめき合っていれば、体がぶつかり合ってばかりいたりして、ヒステリーを起こしそうになる。そんな状況に押されるようにして、自然に立ち上がっていったのかもしれない。そんなつもりなどなかったのに、気がついたら立ち上がっていたのかもしれない。
二本の足で立ち上がれば、四本足のときよりも、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくることができる。それで、ぶつかり合っていらいらしないですむ。
しかしそれによって、戦って攻撃する能力を喪失し、攻撃されたらひとたまりもなくやられてしまうことを引き受けるしかなかった。
そのとき原初の人類は、それでも、いったん立ち上がってしまえば立ち上がったままでいるしかなかった。
「無力」になったが、解放感があった。その解放感は、他者の体とのあいだにできた「空間=すきま」にときめいていた。
その「空間=すきま」は、ひとりではつくれない。みんなで立ち上がることによって確保された。
そのとき彼らは、「みんなで立ち上がる」というチームプレーを体験していた。
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チームプレーは、一人では何もできないという「無力性」を自覚することの上に成り立っている。
自分が相手のために何かしてやる、ということではない。それは、チームプレーではない。二人で(あるいはみんなで)協力し合うことによってはじめて成り立つ行為を、チームプレーという。一人一人はあくまで「無力」で、二人(あるいはみんなで)なされた成果にアイデンティティがある。
「自己愛」とか「自尊感情」などという。内田樹氏は、こうした感情を確保することが人間であることの証しであるという。
相手のために何かしてやれば、相手の「自己愛」や「自尊感情」は守られるし、みずからの「自己愛」や「自尊感情」も満足する。人間の社会は、そうやって成り立っているのだとか。
そうだろうか。
チームプレーは、「自己愛」や「自尊感情」を喪失しているところで成り立っている。そんなものにこだわっていたら、チームプレーは成り立たない。
チームプレーをすることは、人間が人間であることの証しであろうと、われわれは考える。猿は、拾ったバナナを独り占めする。人間だけが、半分ずつにする。「自己愛」や「自尊感情」の強い猿のボスは、群れの女を独り占めしようとするが、人間は、一夫一婦制というみんなに分配されるかたちを見つけていった。もとはといえば同じ猿だったのに、である。
「自己愛」とか「自尊感情」などというものは、猿の感情なのである。われわれは、猿であったことの痕跡としてそうした感情も持っているが、それが、人間になったことの証しではない。
原初の人類は、「自己愛」や「自尊感情」を喪失することによって直立二足歩行をはじめたのである。
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他人を非難したり他人を支配しようとする衝動は、「自己愛」や「自尊感情」から起きてくる。
彼は、そうやって「自己愛」や「自尊感情」を確保しようとしている。
友人と二人で一緒に食堂に入って飯を食い、出るときに相手がお金を持っていなかったらそのぶんも払ってやる。
それは、相手のためにしてやる行為だろうか。
二人で食ったのだから、二人ぶんの料金を払う。そんなことは当たり前だろう。問題は、それだけだ。相手のために払ってやったのではない。二人ぶんの料金を払うしかないから払っただけのこと。自分ひとりで飯を食ったのではないのである。
相手のために払ってやったと満足するなんて、ずいぶん奇妙な感情だと思う。
恋人や家族と一緒に食事をして、自分だけが金を払っても、誰も相手のためにしてやったとは思わないだろう。二人で(あるいはみんなで)食事をしたのだから、われわれはそのぶんの料金を払うしかない、と思っただけだろう。
それが、チームワークというものだ。チームとしてのアイデンティティを成立させるために、まとめて払ったのだ。誰のためでもない。チームが成り立たないことには自分も成り立たないからだ。というか、チームが成り立てばそれでいいからだ。自分のことを忘れてチームを成り立たせようとしてゆくことの醍醐味がある。自分のことを忘れてしまえる醍醐味がある。
「自分」にこだわるのは、しんどいことである。「無力」な自分を否定して「有能」な自分を自覚してゆこうとすることの無理が、人の心をゆがませる。
人間は、「無力」な存在である。われわれが直立二足歩行する生きものであるかぎり、その与件からはけっして逃れられない。
どんなにまわりから「有能」だと認められても、「自己愛」や「自尊感情」にしがみついて生きることには、人間としての無理がある。だから、自慢たらたらの言動を繰り返さねばならない。それは、無理して生きている、ということである。
近代合理主義というのか、「自己愛」や「自尊感情」を称揚する社会だから、いろんなややこしいことが起きてくる。そうやって「所有」という概念が化け物のように肥大化してしまっている社会だから、むやみな競争や奪い合いが起きてくる。
「所有」という概念は、「自己愛」や「自尊感情」によって肥大化してゆく。
そうして、せっかく人間として生まれてきたのに、チームプレーの醍醐味を少しも味わうことなく死んでゆかねばならない。
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直立二足歩行は、限度を超えた群れの密集状態から追いつめられたところから生まれてきた。
人間は、根源的に追いつめられて存在している。
誰もが、追いつめられて存在しているのだ。
追いつめられて存在しているから、解放感というカタルシスを得ることができる。
追いつめられて存在しているくせに、すでに解放されている気になって「自己愛」や「自尊感情」にしがみついてゆく。そんなことをしたら、「解放される」というカタルシスなどどこにもない。そんなところに潜り込んでゆくのなら、解放される「空間」がもたらされることもない。
けっきょく、「解放される」ことを恐れているのだ。愛に飢えていて、愛されることのうっとうしさを知らないのだ。それが、現代社会であるらしい。
限度を超えて密集した群れ、すなわち愛されることのうっとうしさ、すなわちその閉塞感から人間の歴史がはじまっているはずなのに、いつまにかそのかたちが転倒してしまっている。
愛されたいとなんか望むな。われわれはすでに愛し合っているのであり、その閉塞感から解放されてゆくことに人間のかたちがあるのだ。
自分が愛していないから、愛されたいと望むのだ。自分が愛していないから、愛されることの不可能性におびえてしまうのだ。
人間は、すでに愛し合ってその閉塞感に閉じ込められてあるのだ。
しかし現代の地球は、限度を超えて人間がひしめき合い、環境汚染も進んだりして、われわれは今、ようやく人間であることの閉塞感に気づきつつある。
人間は、閉塞感を引き受けてしまう生きものである。それは、そこから解放されてゆく醍醐味を知っているからであり、そういう手続きを根源的に持っているからだ。直立二足歩行、というかたちで。
だから、いまさら愛することなんかしない。相手のためでも自分のためでもない。そうやってくっついてしまうことからの解放として、「チームプレー」がある。人間は、チームプレーによって解放される。
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そして、起源としての神話は、ひとつのチームプレーとして生まれてきた。
一人の才能が生み出したのではない。
みんなで語り合い、みんなで盛り上がっていった話なのだ。その話の所有権は、誰か一人にあるのではない。みんなで所有している話なのだ。
ペガサスという羽の生えた馬が空を飛んでいるところなんか誰も見たことがない。そのイメージは、誰も見たことがないというひとつの「無力性」の上に成り立っているのだが、しかし誰も見たことがないからみんなで共有できるイメージになる。
俺だけが見た、俺だけが知っている……という自慢話は、「神話」にはならない。そうやって自慢すれば「自己愛」や「自尊感情」は満足するだろうけど。
「誰も知らない」という「無力性」の上に、「みんなが知っている」という「解放感」に導かれてゆく……そういうチ−ムプレーが、「神話」を語り合う醍醐味だったのだ。