祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」48

人間の直立二足歩行の起源は、「立ったままでいる姿勢」を獲得したことにある。
「ものを手に持つため」とか「長い距離を歩くため」とか、そんなことはこの「姿勢」を獲得したことの「結果」であって、この「姿勢」を獲得したことの「契機=原因」ではない。
そういうところの思考において、僕は、世界中の人類学者は何を薄っぺらなことばかり考えているのだろう、と思っている。彼らのどんな説であろうと、すべてが、「結果」でしかないことを「原因」であるかのように思考している。
誰かが、僕のいうことは「学術的」ではない、といっておられた。「学術的」でなくてけっこう、そんなことはどうでもいいと思っている。妙な学術用語を駆使しながら「学術的」という衣装をまとうことで何かがわかったつもりになっているなんて、ただの思考停止ではないか。あなたたちは、そうやって「学術的」であるための手続きばかりに勤勉だから、考えることの展開が貧しいのだ。何が悲しくて僕が、そんな程度の低い衒学趣味にあこがれたりひれ伏したりしなければならないのか。
直立二足歩行の起源に関して、今まで何人の人が僕に対して「そうじゃないんだよ」と偉そうにうそぶきながら、既成の陳腐な学説を押しつけてきたことか。
学者だろうとブログのコメンターだろうと、彼らはみんな、直立二足歩行によって何か人間に「利益」があったと思っている。さらには、その「利益」を得ようとして立ちあがったと思っている。
近代合理主義や高度資本主義やらに頭の中を汚染されている者たちは、けっきょく「利益」という範疇でしかものを考えることができない。そうやって自分たちが汚染されてしまっているという自覚がまるでない。だから思考停止になるのだし、えらそうな口がきける。ただの思いつきで浮かんだだけのアイデアを持ち出して、「おまえに教えてやる」という態度をとってくる。それは、彼らの言い分が、既成の「学術的」な論説の上に立っている、という自信があるからであり、僕のいうことがそこからはずれているからだ。
もちろん僕の脳みそだって、近代や高度資本主義に汚染されている。しかし僕は、「汚染されている」と自覚している。彼らのようにいい気になっていない。彼らほど、汚染された学者どもを当てにしていない。彼らのように、自分の考えることが学者の説に符合すればそれが正しい答えだなんて思っていない。
どいつもこいつも、僕のいうことが学者先生の説と違うという理由で、僕をなめてかかってきやがる。
僕だけでなく、彼らは、問題そのものをなめてかかっているのだ。
だから僕は、そのたびに、それだけでは二本の足で立ち上がる理由にはならないではないかということの根拠を繰り返し指摘してきたつもりだが、それでも彼らは、学者先生とスタンスを同じにしているという自信からか、俺のほうが正しい、という態度をけっして崩そうとしない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は、ひとまず直立二足歩行の起源に「利益」なんか何もなかったのだし、「利益」を求めて立ち上がったのでもない、と思っている。
むしろ逆に、どうしようもなく「無力」な存在になってしまったのだ、と思っている。
それは、胸・腹・性器等の急所をさらすという危険を抱え、かんたんに倒れてしまうきわめて不安定な姿勢でもある。
四足歩行の動物が二本の足で立ちで立ち上がることは、いったん「無力」な存在になる、ということである。
だからほかの猿は「立ち上がったままでいる」ということなどしないし、それでも原初の人類は「立ち上がったままでいる」存在になってしまった。ほかの猿と同じ猿だったのに、それでも立ち上がって「無力」な生きものになった。
それは、「利益」を求めて移行できるような姿勢ではないのである。
ただもう、気がついたら「立ったままでいる」存在になってしまっていたのだ。
人間の歴史は、そうやってはじまったのだ。
人間の根源における「無力性」、そしてそれが結果的に自然に対するアドバンテージになっていったというパラドックス、そういうところを考えないと、直立二足歩行の起源には迫れない。
そしてそれは、おそらく「群れ」という問題がかかわってきている。直立二足歩行は、根源的には、「群れ」の状況の上に成り立っている姿勢である……とひとまず考えているのだが、それを語り出すときりがないから、ここでは省略しておく。
とにかく僕はもう、「直立二足歩行の起源」に関しては、学者なんか信じない。自分の頭で考える。「学術的」でなくても、おまえらよりずっと遠くまで考えている、という自信はある。
人間の直立二足歩行の起源は、あなたたちのその薄っぺらな思考で説明がつくほど簡単なことじゃない。その「かんたんじゃない」というところを自覚できないところに、あなたたちの思考力と想像力の貧困がある。
僕は、あなたたちよりはこの問題を考えることの困難さを自覚している。そして、この問題を考えることの醍醐味も、あなたたちよりは知っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
直立二足歩行の起源において、そのとき人類は、それによって遠くまで歩いていったのでも、いつも手に何かを持っていたのでもない。手にものを持って立ち上がるということくらい、今の猿でもしているし、そんなことは必要なときだけ立ち上がればいいだけのことだ。
起きてから寝るまで手に何かを持っているなんて、そんな緊張状態で生きていけるわけもなかろう。そんなことをしていたら、いずれ発狂してしまう。
ただ、立ったまま群れの中でうろうろしていただけであり、しかしそれによって「立ったままでいる」ことのできる「姿勢」と「骨格」を獲得していったのであり、そのあとにようやく遠くまで歩いてゆけるようになったのだ。すなわち、手にものを持ったまま歩き続けることのできる生きものになっていったのだ。
そういう「姿勢」を獲得したことが、直立二足歩行の起源にほかならない。
この「立ったままでいる」ことのできる姿勢は、どんな猿も持っていない。ものを手に持って歩いてゆくことなんか、猿でもできるかんたんなことだが、「立ったままでいる」ことのできる姿勢は、どんな猿も持っていない。
立ち上がることくらい犬でも熊でもできるが、「立ったままでいる」ことは彼らにはできない。
逆にいえば、「立ったままでいる」姿勢さえ獲得すれば、日光猿軍団の猿でも1キロや2キロは平気で歩けるようになる。猿を歩き続けさせるための訓練は、「立ったままでいる」姿勢を獲得させる訓練なのである。歩かせようとしたら、歩き続けられるようにはならない。歩かないで立ったままでいさせることによって、歩き続けられるようになる。
原初の人類は、「立ったままでいる」ことができるようになったことによって、歩き続けることのできる「骨格」に変わってきた。
歩き続けることは、「背骨」の使い方が上手になることだ。
足なんか、猿でも勝手に動いてくれる。そんなことは学ばなくてもできる。しかし、背骨によって体の「軸」を保つことは、「立ったままでいる」ことが出来るようにならなければ覚えられない。
歩き続けることは、体の軸を保つことであり、猿にはそれができない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
直立二足歩行する人間の運動神経は、体の軸のつくり方のセンスの問題であり、運動神経の豊かなスポーツ選手ほど腰の背骨を痛めやすい。素人は足や手だけで運動しているが、彼らは、腰の背骨を上手に使いこなしつつ酷使している。
それは、直立二足歩行が、「立ったままでいる」ことのできる「姿勢=体の軸」をつくることの上に成り立っているからだ。
直立二足歩行の姿勢をつくるためには、まず手や足に対する意識を捨てなければならない。それによってはじめて、直立二足歩行を保つ「姿勢=体の軸」が生まれてくる。
ただそれは、「体の軸=背骨」に意識を集中したことを意味するのではない。あくまで、手や足に対する意識を捨てたのであり、すなわち体そのものに対する意識を捨てたのであり、そうして世界に対してときめいていったからだ。
そうやって「無力」な存在になって、世界にときめいていったのだ。
スポーツ選手がどんな体勢になっても「体の軸」をつくることができるのは、「体の軸=背骨」を意識しているからではなく、体のことなんか忘れて体を取り巻く「空間」を感じときめいているからだ。
背骨のことなんか忘れてしまっているから、限度を超えて背骨に負荷をかけてしまって腰を痛めたりするのだ。
世界にときめくことは、「自分=身体」のことを忘れて、「無力」になってしまうことである。
原初の人類は、「自分=身体」のことを忘れて世界にときめいていたから、胸・腹・性器等をさらす危険な姿勢であることも、すぐこけてしまう不安定な姿勢であることもいとわなかった。
そのとき、そういう不安や嘆きが「ときめき」へと昇華してゆくカタルシスを体験していたのだ。
「利益」がないことが「利益」だったのだ。
すなわち原初の人類が二本の足で「立ったままでいる」ことは、四足歩行の「利益」を失って生きものとしてのアイデンティティを喪失する行為だった。しかし彼らは、そこから歩いてゆくことによって、世界にときめくというカタルシスを得た。
そのとき人類にとって、歩くとは、歩いていることを忘れることだった。そうして、ただもう世界にときめいていた。