祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」47

太宰治原作の「ヴィヨンの妻」という映画が話題になっているらしい。
どうしようもないだめ男の亭主を当たり前のように受け入れて明るく生きている女の話。
どうしようもなくだめだけどどこかに人間的な魅力があるとか、そんなことではない。人間とはどうしようもなくだめな生きものではないのか、人間であることに率直であればどうしようもなくだめな存在になるしかない、そして女にはそのことを率直に受け入れる心の動きがある、だからそういうどうしようもなくだめで弱い男に惹かれてしまうこともある、しかしそこにこそ人と人を結びつける根源のかたちがあるのではないか……太宰がいいたいのはおおよそそのようなことであろうし、この映画はそういうことにかなり忠実に描かれているらしい。
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で、内田樹先生がこの映画を意識したのかどうかは知らないが、数日前に「配偶者の条件」というタイトルのブログ記事をアップしておられた。
内田先生としては、つい最近再婚されたこともあって、このことには自信満々の一家言がおありらしい。
先生の主張は、太宰とは、どちらかというと逆向きの人間観である。
人と人を結び付けているものは、相手の「人間的価値」を認めることにある。ひとまずこれが、内田先生の人間観の基礎である。
人が恋をしたり配偶者を選んだりするのは、相手の「才能」「美貌」「情愛」等の「人間的価値」を相手の中に見出すからだ。ただ、世間の凡人は、その「人間的価値」を「誰もが認める」という基準で見出そうとする。しかし誰もが認める人間的価値であるのなら、相手は何もあなたである必要がないではないか。近ごろの男女は、そういう選び方をするから、なかなか結婚に踏み切れないし、結婚してもうまくいかなくなる。そうではない、「誰も認めていないが私だけはその人間的価値がわかっている」という信憑を持つから熱い恋になり、結婚生活がうまく運ぶのだ。自分だけが認めているからその人のために生きようとするし、そうやってみずからの「自己愛」や「自尊感情」が守られる……と内田先生はおっしゃる。
つまり、おまえの「人間的価値」なんか俺にしか通用しないんだぞ、と思うことが愛なんだってさ。あるいは、世の中の人間はみんなバカだから俺のように見ることはできない、という「自己愛」や「自尊感情」を持ちなさい、ということだろうか。
内田先生によれば、人は「自己愛」や「自尊感情」を守るために生きているのだとか。
そりゃあ、「自己愛」や「自尊感情」は誰の中にもある。しかし、「ヴィヨンの妻」がそういうだめ男を受け入れているのは、そこで「自己愛」や「自尊感情」に縛られることからの解放が体験されているからだ。
「自己愛」や「自尊感情」に執着していたら、そんなだめ男となんか一緒にいられない。自分がみじめになるばかりだろう。
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直立二足歩行は、胸・腹・性器等の急所をさらして、しかもきわめて不安定な姿勢である。そのとき原初の人類は、そういう「みじめな存在」になったのであり、「自己愛」や「自尊感情」を捨てて二本の足で立ち上がったのだ。
「人間になる」とは、「自己愛」や「自尊感情」を捨てることであり、そういう感情に縛られるわずらわしさから解放されることである。
「自己愛」や「自尊感情」に執着するなんて、猿の心の動きなのだ。
何はともあれ、相手に「人間的価値」を認めるから人と人の関係が生まれてくるというのは、人間社会の制度性であって、根源的にはそんなふうにして人と人がつながりあっているのではない。
人と人の関係がそんなわかりやすい価値意識の上に成り立っているのなら、文学なんかいらないだろう。というか、こんな薄っぺらなことしかイメージできない人に文学なんか語って欲しくない。
「憎しみ」や「軽蔑」だって「愛」のうちだろう。
なんてつまらない男だろう、と幻滅する悲しみもまた、人を愛することのひとつの味わいだろう。
相手に「人間的価値」を認めるから、関係が生まれるのではない。
出会ったことや一緒にいることにときめきがあれば、関係は生まれる。
「私だけがこの人の人間的価値認めている」という自己満足や自己愛のために他者と関係を結ぶなんて、何か考えることが不純だ。
そしてこんな薄っぺらなへりくつにしてやられる人いたちもどうかしている。みなさん、「自己愛」や「自尊感情」にしがみついていないと生きていけないらしい。「ヴィヨンの妻」とは対極にある人たちだ。
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じつは、これは、「人間と神の原風景」の問題でもあると同時に、直立二足歩行をはじめた原初の人類が何にどのようにときめいたかという問題でもある。
そのとき原初の人類は、二本の足で立ち上がったことによって目の前に現れた「新しい世界」にときめいた。
その「新しい世界」の存在そのものにときめいた。
世界が存在することそれ自体にときめいた。
新しく目の前に立ち現れた世界の、その圧倒的な存在感にときめいた。
「世界は存在する」のではない。
人間の心は世界を「存在」として認識しときめいている、というだけのこと。
人間は、世界を「存在」として認識しときめく意識のはたらきを持っている。
だから小林秀雄は、「花の美しさのようなものはない、美しい花がある」といった。
世界が存在するかどうかということは、証明不能の問題なのだ。ただ、「存在する」と認識してしまう心の動きをわれわれは先験的に持たされてしまっている、というだけのことだ。
すなわち、意識の根源においては、相手に「人間的価値」という意味を認めてときめくのではない、「存在感」の確かさにときめくのだ。
抱き合って触ったり触られたりすれば、相手の身体の「存在感」をより確かに感じてときめく。これが、基本だろう。
そうして、その人がどうしようもなくだめな弱い人間として、誰よりも深くこの世界に恐れおののいていることに気づけば、それがその人のよりたしかな「存在感」となる。
その人がこの世界に生きてあることの傷ましさを感じるということは、その人の「存在感」をよりたしかに感じているということであり、そうやって「ヴィヨンの妻」はときめいている。
人は、「存在感」にときめくのだ。「人間的価値」にではない。
相手がどうしようもなくくだらない人間であっても、「出会いのときめき」があれば、その出会いがひとつの「事件」であれば、恋も友情も生まれるのだ。
その人がどうしようもなくだめで弱い人間であることそれ自体にときめく女はいるのだ。
「人間的価値」なんか持たない人がそれでもこの世界に生きているということは、それ自体がとても感動的なことではないか。その「存在感」が。
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この世の中には、「人間的価値」などというものにとらわれないで人にときめくことのできる者と、できない者がいる。
自分の「人間的価値」を信じている者は、人を「人間的価値」のものさしで見る習性がしみついてしまっている。
それに対して、みずからを弱くだめな人間として自覚し、みずからの存在の不確かさに対する不安に浸されている者は、他者の存在の確かさに、思わずときめいてしまう。
人間が直立二足歩行するとは、そういう自覚と不安に浸されることである。そういう自覚と不安から、世界や他者にときめくという心の動きが生まれてくるのだ。
みずからの「人間的価値=存在感」を信じて疑わないものは、いまさら相手の「存在感」に驚いたりときめいたりはしない。「自己愛」や「自尊感情」があるのなら、どんな相手も、自分ほどには「存在感」を感じないだろう。
「自己愛」や「自尊感情」の強い人間は、人にときめくという心の動きが希薄である。その代替として、「自分を愛するように他者を愛する」という手続きを捏造してゆく。自分を愛するおこぼれで人を愛してやるんだってさ。そうやって自分の「人間的価値」や「存在感」を他者の中にも見つけようとする。彼らは、「人間的価値」を持たない人間を認めないし、自分よりも「人間的価値」や「存在感」」が豊かな、自分の「人間的価値」や「存在感」をおびやかす相手も認めない。
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何はともあれ、相手の「人間的価値」などという「意味」ばかりまさぐっているなんて、薄汚いスケベ根性だ。
そんな目で見つめられたら、僕は途方に暮れてしまう。
僕には「人間的価値」などというものはない。そんな自分を許されたいと切に願っているが、「人間的価値」などというものを忖度されたくない。そんなことされたら困るのだ。僕は、途方に暮れてしまう。
そして、あなたの「人間的価値」をむやみに尊敬もおそれもしない。
むやみに人をあがめることもさげすむこともしたくない。
あなたの「存在感」にときめいていられたらそれでいい、と思っている。
「私だけがあなたの人間的価値を知っている」……自分のことをそんなふうに思っている人と一緒に暮らすのは大変だ。絶望的な気分にさせられてしまう。内田先生の新しい奥さんは、そう思われてうれしいのだろうか。いや、きっと大変でもあるだろう。前の奥さんや娘は、そういうプレッシャーに耐えかねて逃げていったのかもしれない。今度もまた、逃げられないともかぎらない。
僕の生きてきたまわりには、女房にそう思われてうんざりしている男がたくさんいた。亭主にそう思われてばかりいて実家に逃げ帰った奥さんもいた。
たがいに「人間的価値」にこだわりながら、人と人の関係は壊れてゆくのだと思う。
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ヴィヨンの妻」は、そんなにもだめで弱い男が途方に暮れながら生きていることの、その「存在感」にときめいていた。
相手の中に「人間的価値」を見出したのではない。
あなたの中に「人間的価値」を見出すから「愛する」なんて、不純ではないか。
あなたがこの世に生きてあることそれ自体に、なぜときめくことができない。
直立二足歩行する人間の意識は、この世界や他者の存在そのものに深くときめくようにできている。そのようにして人間は、猿から分かたれたのだ。
「意味」に気づいたから「人間」になったのではない。「人間」になったから、「意味」に気づいていったのだ。
「意味」に気づいたから「ことば」が生まれてきたのではない。「ことば」が生まれたから、「意味」に気づいていったのだ。
この世界や他者の存在に深く気づいたから「人間」になり、「ことば」が生まれてきたのだ。
他者の存在に深く気づくことは、他者の「人間的価値」に気づくとか、そういう問題ではないし、自分の「人間的価値」を自覚している者が深く気づくことができるというものでもない。
人間は、自分にときめいて人間になったのではない。
みずからの存在の曖昧さと弱さを自覚する不安を深く体験したから、この世界や他者の存在に「ときめく」という心が起きてきたのだ。
人間とっては、みずからが「存在する」ということは、当たり前の前提ではないのである。そういう前提を失ったところから人間の歴史がはじまっているのであり、だからわれわれは「ときめく」という心の動きを獲得したのだ。
内田先生をはじめとする多くの現代人は、存在そのものにときめく、という「ヴィヨンの妻」のタッチを失ってしまっている。それは、みずからの存在を当然の前提のように考えているからだ。
現代人は、というか内田先生をはじめとする現代の多くの男たちは、みずからの存在のあいまいさという不安に耐えられない。だから存在そのものにときめくというタッチを失ったまま、「人間的価値」などというものをまさぐって、その埋め合わせをしている。
まあ、せいぜいがんばってそんな薄っぺらな「意味」をまさぐり続けていればいい。それは、大いにはた迷惑なことではあるが、そうしないと生きられないのなら、それをやめろという権利は誰にもない。
「女、三界に家なし」とはよくいったもので、女は、みずからの存在のあいまいさや不安に耐えることができる。そういう心が、「他者の存在そのものに深く気づいてときめいてゆく」というタッチになっている。