祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源(カムイ)」46

やまとことばの「熊(くま)」ということばは、「怖い」という感慨の表出が語源であろう。
アイヌ語では、「カムイ」という。
「カムイ」とは、その出現における圧倒的な存在感に対する畏怖を表出していることばである。
したがって、やまとことばの「くま」もアイヌ語の「カムイ」も、ことばのニュアンスにそう違いはない。両方とも「神」という意味もある。
ツキノワグマとヒグマくらいの違いだろうか。ツキノワグマは人を襲っても、食ってしまうことはあまりしない。しかしヒグマは、そういうことも平気でする。
「カムイ」というほうが、畏怖の感慨が深くあざやかである。
本州のやまとびとよりアイヌのほうが、いろんな意味で、ずっと熊との密接な関係を持って暮らしていた。
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中沢新一氏は、「古代のアイヌは熊と一体化して生きていた」という。つまり、人間と熊との「対称性(同一性)」を深く認識していた、といいたいらしい。
しかし、「カムイ」ということばは、そんなのんきなことばではない。
中沢氏によれば、アイヌにとっての熊は、食料にも防寒具にもなる「自然の豊かな恵み」であったのだそうだ。だからその恵みに感謝して、熊を神とあがめ、熊と一体化してゆくのが「イオマンテ」の熊祭りである、という。
そうだろうか。鉄砲も刀もなかった古代においてのヒグマ狩りは命がけであったろうし、熊に食われてしまった仲間もたくさんいたはずである。
彼らは、熊とテリトリーを共有して暮らしていた。しかしそれは、熊が「仲間」だったことを意味しているのではなく、熊狩りをしなければ生きてゆけない状況に置かれていたということだ。
彼らが死に物狂いで熊狩りをしていたのは、仲間が熊に食われたという心の傷を負っていたからではないのか。その傷はもう、熊を倒して食ってしまうことによってしか癒されなかった。
熊は、恐ろしい。しかし、自分たちの仲間を食ってしまったのなら、仲間の魂がそこに宿っている。熊を神だと思わなければ、彼らの心は癒されなかったし、その熊を生かしていたら、仲間の魂は天に行くことができない。
古代のアイヌの人々の熊に対する「畏怖」の感情は、われわれがうかがい知れないほどの深いものがあったはずだ。そういうところから「カムイ」ということばが生まれてきたのであり、また「イオマンテ」も、「自然の豊かな恵みに感謝しつつ熊と一体化してゆく」とか、そんなお気楽な祭りではなかったはずである。
熊という自然との真剣勝負の祈りがそこにあったはずだ。
人間は人間、熊は熊だ。人々はその圧倒的な存在感に深く畏怖していたのであり、熊は、自分たちの魂をあずける場所であると同時に、絶対的な「人間の外部」でもあったのだ。
熊祭りの夜、熊とともに熊に食われた仲間の魂もまた天に昇ってゆく。彼らがどんな思いで「イオマンテ」の祈り歌を捧げていたか、のうてんきな学者の説く「人間と熊は仲間である」というような論理でかたづけられる心の動きではなかったはずだ。
彼らは、人間は熊になる、と思っても、人間と熊は同じである、とは思っていなかった。
「熊と一体化する」のではなく、自分を捨てて熊になっていった(憑依していった)のだ。
彼らにとって熊は、絶対的な「外部」であり「他者」であり「神」であった。
彼らだって、熊との関係を持たないで生きてゆければ、それがいちばん平和で幸せだったにちがいない。熊の肉なんか食わなくても生きてゆくくらいなんとかなる。何も好きこのんで、そんな危ない狩などしたくない。しかし、それではすまないのっぴきならない状況を抱えてしまったのだ。だから、そのようなかたちで熊との関係を持っていったのである。
「自然のありがたい恵み(中沢氏の言)」だなんて、何をのうてんきで薄っぺらなことをいってやがる。
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人間ほどみずからの限界を深く思い知っている生きものはいない。
不安定で危険極まりない直立二足歩行という姿勢は、みずからの限界を深く思い知る姿勢である。
そういう心の動きから、自然という絶対的な「外部」が意識されてゆき、そこから「神」ということばが生まれてきた。
「神=自然=熊」との「一体感」だの「対称性」などといってすましていられれては困るのである。
彼らの熊との関係はそんなお気楽なものではなかったし、そういうお気楽ではない切羽詰った真剣勝負の関係から「カムイ」ということばが生まれてきたのだ。
日本語(やまとことば)もアイヌ語も、基本的な構造にそう変わりはない。べつに「外国語」ではない。沖縄のことばとの違いていどのことだ。われわれは、同じ民族なのだ。
関東の一部では「谷」のことを「やつ」という。アイヌでは「ヤチ」といった。たとえべつべつに暮らす歴史を生きてきても、同じ民族の同じ構造を持ったことばなのだから、そういう似た語彙はとうぜん生まれてくる。
「カムイ」と「かみ」、「くま」と「カムイ」も、似ているといえば似ている。いや、そっくりではないか。
「カムイ」とは、世界に対する根源的な「違和感」を表出していることばである。
あなたたたちは、このことばから、人間の自然に対する根源的な「畏怖」の気配を感じないのか。
中沢氏のように、お気楽な「親密感」の表出だと思うのか。
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意識とは、違和感である。
「ときめき」とは、ひとつの違和感である。
人と出会ったとき、われわれはどのようにときめくのか。
われわれは、自分の姿を知らない。ブスのくせに、自分はけっこういけてる、と思っている女はあんがい多い。年寄りは、自分がどんなにみすぼらしい姿をさらしているかということをよくわかっていない。しかし、それでいいのだし、それでこそ人は生きていけるのだ。自分の「姿」がよくわかっていない、ということこそ、意識の根源的なかたち(無意識)であり、「生きられる意識」なのだ。
われわれが相手の姿を見てときめくのは、自分の姿との「対称性(同一性)」を見出すからではなく、自分の姿のことなどすっかり忘れて、まるごと相手の存在だけを感じているからだ。
ブスが美人と一緒に街を歩けるのは、自分の姿との対称性(=同一性)を誤解して納得しているからではなく、自分の姿のことなどよくわかっていないからであり、意識のはたらきはもともとそのようにできているからだ。
相手との「対称性」に気づくのではなく、自分のことなど忘れてまるごと相手の存在だけを感じてしまう体験を「ときめく」という。
まるごと相手の存在だけを感じてしまうことを、「カムイ」という。
「カムイ」の「イ」は、「イの一番」の「イ」。「固有性」の語義。
「カム」は、「噛む」。「噛む」とは、「気づく」こと「感じる」こと。
そのとき彼らは、「畏怖」というかたちで、ことさら深い「出会いのときめき」を体験した。それが、「神話の発生」である。
熊と人間の「対称性(同一性)」見出したのではない。
熊は熊、人間は人間なのだ。熊は、絶対的な人間の「外部」だったのであり、だから熊のことを「カムイ=神」と呼んだのだ。
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生きものは、自分の姿のことがよくわかっていない。われわれの無意識は、自分の身体を、存在感を持たないたんなる「輪郭=空間」として自覚しているだけである。したがって、自分の身体と相手の身体の存在感(=姿)との「対称性」を見出すことは論理的に不可能なのである。
「原始人(古代人)は自然との一体感で暮らしていた」なんて、たんなる制度的でステレオタイプな思考による迷妄でしかない。
われわれの無意識は、「一体感」をかんじることができるような「存在の自覚」を持っていないのであり、まるごと自然それ自体を感じておののきときめいているだけなのだ。
そういう自分が空っぽになってしまう心の動きを、「ときめき」といい、そういう「ない」との出会いを体験したことによって、「神」が見出されていったのだ。
「自分=ない」と「自然=ある」の非対称性、そこにときめき、「神」が見出されていったのだ。
「ときめく」とは、われを忘れることだ。
古代における神話の時代は、人類の歴史において、人々の心に、もっとも深くあざやかに「ときめく」という体験が生まれていた時代でもあった。
現代社会に暮らすわれわれはもう、自分と他者との「対称性」などということばかりいって、自分が空っぽになることをうまくできなくなっている。それは、世界や他者に対する「ときめき」を喪失してしまっていることでもある。
「対称性」の認識は、「生きられる意識」ではないし、われわれの意識の根源的なかたち(無意識)でもない。
「対称性」の認識なんて、さいころの裏の目読むのと同じで、たんなるパズルゲームなのだ。そういう「観念のお遊び」じゃないか。そういうお遊びを解体して生きもののレベルに遡行していった先に「無意識」があり、「生きられる意識」がある。