祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」15

人間は誰もがどこかしらに醜い部分を抱えている……などとしたり顔していわれると、うんざりさせられる。それが人間なのだから、それでいいのだよ……とかいうなよ。
いいわけないだろう。自分の中のそういう部分に気づいたら、情けないだろう、自分がいやになるだろう、いたたまれなくなるだろう。それが、普通の心の動きではないのか。
それが人間だ、といってすましていられるなんて、どうかしている。よっぽど人間が横着にできているのだろう。
そうやってすました顔をしているのが、「自我を確立している」というんだってさ。
いいわけないじゃないか。
だいたい僕なんかあほだから、何が美しくて醜いかということもよくわからないし、自分自身についてもよくわからない。だから、自分の醜さを思い知らされたときは、ほとほと自分がいやになる。
「己を知る」……自我を確立している人間は、自分のことをちゃんとわきまえているんだってさ。
そんなことをいわれても、われわれ日本列島の住民の「自分とは何か」と問う歴史など、明治以降のたかだか150年しかない。それまでは、人間とは何かとか、この生とは何かというような問いしかなかった。
「われわれはどこから来てどこに行こうとしているのか」という問いなど立てなかった。そういう問いを立ててしまうのが人間だと自覚しつつも、「答えはない」と思い定めて生きていこうとしてきた。「答えはない」ことを救いにして生きてきた。
「穢れ」の自覚とは、何が醜くて何が美しいか、というようなことではない。われわれにとって、生きてあることそれ自体がいたたまれないことであり、生きてゆくことは「穢れ」を負ってゆくことだ、少なくとも古代人はそう思い定めて生きていた。
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「穢れを負う」とは、「誰の中にも醜い部分がある」と認識することではない。そんなことはどうでもいい、生きていれば心も体も新鮮さを失って澱んでゆく、という自覚のことであり、それはもう、生きているかぎり避けられないことだ。彼らは、そういう嘆きを共有しながら生きていた。
そういう「穢れ」に見て見ぬ振りをして自分を正当化してゆくことが、そんなに立派なことなのか。
自我を確立している人間は、「誰の中にも醜い部分はある」といいながら、みずからの「穢れ」を自覚していない。そうやって「わかる」ことを免罪符にしてしまっている。
彼らは、ありのままの自分であることをやめて、自分をつくり上げてゆく。そうして、命は大切なものであり、人間は「神の子」「仏の子」である、という。
誰の中にも醜い部分があり、誰の中にも「仏性」があるんだってさ。仏になる誓願を立てるんだってさ。つまり、「仏という規範」を鋳型として、そこに自分をはめ込もうとしているのだ。
そんなもの、どちらも僕の知ったことではないし、僕にはわからない。
ただ、そうやって「規範」をものさしにしてわかったような物言いをされると、胡散臭いなあ、とうんざりしてしまう。
僕は原始人だから、「穢れている」という自覚からどうしても逃れられない。近代的自我などというものは、よくわからないのだ。
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自己と他者が異質であれば、どちらかが穢れていて、どちらかが穢れていないことになる。そこで、みずからが穢れていない立場に立とうとして、神との対称性の関係がイメージされる。
「穢れている」とは、世界から逸脱してしまっている、という意識であり、神との非対称性を自覚する意識である。おそらくこれが人間存在ほんらいの意識のかたちであろう。
そしてその逸脱してしまっていることのいたたまれなさや不安を消去する制度として、共同体が見出されていった。国家という大きな単位から家族という小単位まで、そのような共同体にこの身をフィットさせてゆくことによって、人は「穢れ」の意識を消してゆく。
人類の歴史は、人と人の関係がきつくなってきて、共同体という制度を生み出した。
共同体の制度は、それに従うものに「世界と調和している=穢れていない」という自覚を与える。
それに対して日本列島の縄文人は、「穢れの嘆き」を共有して暮らしていたから、その群れが制度性を持った「共同体」のレベルになってゆくことはなかった。
やまとことばは、そういう「嘆き」の共有の上に成り立っているから、「意味の伝達」という制度性は希薄である。それは、大陸のことばのように、他者を蹂躙し説得してゆくためのことばではない。
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「穢れ」の意識なんか持っていたら、「異質な他者」とは渡り合えない。そのとき「異質な他者」は=「神と私との関係が築かれているこの世界の調和から逸脱してしまっている存在」と認識されている。
人と人の関係がきつくなければ、その集団の制度は緩やかなものになり、人々は「穢れ」を自覚している。
共同体の制度性に頼らなくても成り立つことのできる集団は、世界と調和しているよろこびが共有されているのではなく、「逸脱している=穢れている」という「嘆き」が共有されているのだ。
現代はもはや、「穢れの自覚」を共有できるような社会ではない。人々は、たがいに、「世界と調和している」というアイデンティティを確立し、向き合っている。だからこそ、人間関係がハードになり、制度によって一人一人が縛られてしまう状況にもなっている。縛られながら、「世界と調和している」という自覚を得ている。そういうアイデンティティを確立してゆくことが、「大人になる」ということらしい。
しかし根源的な人と人の関係は、世界との調和から逸脱してしまっていることの「嘆き」を共有しながら微笑み合うところにある。われわれはそういう無意識で「おはよう」というあいさつを交わしているのであり、若い男女は、そういう「嘆き」を共有して恋に落ちたり友情をあたためあっている。何のかのといっても、心中する直前の男女が、いちばん一所懸命セックスしているのだ。
根源的な人と人の関係は、死に物狂いでセックスしているものたちのもとにあるのであって、おまえら大人たちのほざく「愛」とやらにあるのではない。おまえらのふにゃふにゃのちんちんのもとにあるのではない。
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「世界と調和している」というアイデンティティを持とうとすることが人間性の根源であるのではない。それは、他者に蹂躙され説得されるという体験(トラウマ)から生まれてくる後天的・制度的な衝動にすぎない。ユダヤ人や西洋人は、そのようなかたちで成長してゆく。彼らは、神に蹂躙され説得されながら成長してゆく。その、無意識に蓄積された「トラウマ」の上にアイデンティティを確立している。
たとえば、西洋の女はよく、子供のころ父親に暴行された、というありもしない妄想を「トラウマ」として抱いていたりする。じつはそれは、「神に蹂躙され説得された」という幼児期の心理体験なのだ。彼らの無意識を、「神」が支配している。そうやって彼らは、神との一対一の関係を結んでいる。
西洋人もユダヤ人も中国人もイスラム教徒も、一神教の人々はおおむね、他者を蹂躙し説得してゆくことばを持っている。彼らは、人々が神に蹂躙され説得されながら成長してゆく社会の中で生きている。
彼らは、「受難」を糧にアイデンティティを確立してゆく。そしてその、彼らを蹂躙している「受難」の相手は、じつは「神」なのだ。彼らは、神に蹂躙されている。そして、蹂躙されているもの、すなわちキリストと同じ殉教者として、他者を蹂躙し説得してゆく。
彼らにとって他者を蹂躙し説得することは、いわば「キリストの復活」なのだ。
たとえば、「シー・シェパード」とかいうこの国では悪名高いあの捕鯨反対団体は、自分たちが復活したキリストになったつもりでやっているんだぜ。
そして大きな顔をして沖縄に居座っているアメリカ軍も、自分たちが復活したキリストのつもりでいるのだ。
どこの国の住民であろうと、正義づらした人間というのは、ほんとに胡散臭い。
「受難」というトラウマ、それが、この世界をゆがんだものにしている。
大きな顔をして沖縄に居座るアメリカ軍も、えらそうに自慢ばかりしている内田樹先生も、死ぬまで「いじめ」の記憶から逃れられないでおびえ続ける人も、つまるところ「受難」というトラウマのなせるわざなのだ。
もちろん人間は「受難」を求めてしまう生き物であるが、なぜそれが「傷」になってしまうか、ということが問題であり、なぜそれが「傷」になって「神という規範」との契約を結んでしまうのか、ということが問題なのだ。
彼らは、他者との関係に失敗している。それが「傷(トラウマ)」になって、「神という規範」との一対一の契約を結んでゆく。人は、そうやって人格者になり大人になってゆく。
人格者や大人になれないものたちは、社会との関係に失敗している。しかし、他者との関係に失敗しているわけではない。彼らは、いじらしいほどけんめいに「嘆き」を共有できる他者を求めている。ときに他愛なく「神という規範」に引きずり込まれてしまうとしても、もうひとつの社会的に認知された「神という規範」に引きずり込まれている大人たちに責められるいわれはない。やつらが、そういうところに追いつめてしまっているのだ。