祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」16

「あなたはキリストの復活を信じるか?」、と試すように聞かれたことがある。
そんなことわかりません、と答えた。
僕にとって、そんなことはどうでもいい。信じるといっても、信じないといっても、同じ穴のムジナだと思う。
問題は、ヨーロッパの歴史にどうしてそのようなイメージが定着しているのか、ということにある。
それは、彼らの「蹂躙し説得する」という態度の基礎になっている観念のかたちであろう。
キリストの復活は、彼らの「正義」のよりどころになっている。
正義とは、他者を蹂躙し説得するひとつの暴力装置である。したがってそれを正当化するためには、みずからも蹂躙され説得されたというアリバイがなければならない。
十字架にかけられたキリストは、「神よ、どうして私を見捨てたまうのか?」といって死んでゆき、そこから復活してきた。
そのときキリストは、いったん神に蹂躙された。だからこそ、復活してきたキリストのことばの説得力はより深く確かなものになる。
他者を蹂躙し説得するものは、神によって蹂躙され説得された、というアリバイ(免罪符)を持っていなければならない。それは、「神が蹂躙し説得している」という保証がなければ、「正義」にはならない。言い換えれば、欧米人は、そうやって正義を振りかざしている。
シー・シェパード」にしろ「アメリカ軍」にしろ、彼らがなぜあんなにもえげつなく正義を振りかざせるかというと、「神に蹂躙され説得された」というアリバイ(免罪符)を持っているからだ。
そういう「トラウマ」を持っていない日本列島の住民は、そこまであつかましくはなれない。
キリストの受難と復活の軌跡をなぞってゆくこと、それが欧米人の生きる流儀らしい。そうやって彼らは、他者を蹂躙し説得しにかかる。
いや、どこの国においても、正義を振りかざす人間は、「受難」というアリバイ(免罪符)を盾にしている。
この国でも、共同体や宗教の制度に強姦されている人間は、じつに無節操に正義を振りかざしてくる。
しかし古代のやまとことばは、神にも共同体の制度にも強姦されていないから、「説得する」ことばになっていない。すなわち、「伝達する」という「意味作用」は希薄である。
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ことばが共同体ごとに違うからといって、共同体がことばを生み出したのではない。ことばが共同体を生み出したのだ。
そしてやまとことばは、共同体を生み出す力が希薄だった。日本列島においては、共同体(国家)の発生が、大陸から千年以上遅れた。漢語と漢字を輸入して、初めて共同体(国家)のかたちができてきた。漢文の素養がなければ、権力社会の一員にはなれなかった。それは、やまとことばが、共同体(国家)の運営にそぐわないことばだったからだ。そうしてやまとことばの名手は、どんどん権力社会から脱落してゆき、和歌などの文学の世界で生きるしかなかった。
たとえば、「はし」を作れ、といわれても、やまとことばにおいては、「橋を作れ」か「箸を作れ」かわからない。また「端をつくれ」と解釈するなら、「境界線線を引け」とか「終わりにしろ」とか、そういう意味にも取れれる。さらには「はし」には「危うい」というような意味もあって、「はしをつくれ=危うい関係になれ」と解釈されたりもしかねない。
やまとことばは、ことほどさように意味の伝達には不向きなことばであり、それは、このことばが「説得する」という関係が希薄な社会で流通していたことを意味する。つまり、意味はすでに共有しているという前提の上に、その音声の抑揚などからさまざまなニュアンスが汲み上げられていた、ということだ。
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ことばを「伝達する」とか「説得する」ということは、他者を蹂躙することだ。欧米人にしろ、この国の大人たちにしろ、そういうことの暴力性に対する意識がなさすぎる。そういうことは、ことばほんらいの機能ではないし、人と人の関係の根源的なかたちではない。
人は、根源において、他者を説得しようとする衝動など持っていない。すでに説得する必要がない、というかたちで群れ集まっているのが、人間存在のほんらいのかたちである。
人間はもともとそういう根源のかたちを持っているからこそ、説得するためには、「キリストの受難と復活」という手続き(=物語)があらためて必要になってきたのであり、それは、「異民族」を蹂躙し説得しようとする集団において生まれてきたきわめて制度的な物語にすぎない。
つまりそこでは、一人一人が神との一対一の関係を結びながら誰もが孤独な存在になってゆき、誰もが他者をを蹂躙し説得しようとする衝動ばかり募らせている社会になっていった、ということだ。
シー・シェパードアメリカ軍のあの傍若無人な振舞いにも、彼らの二千年の歴史が刻まれている。
言い換えれば、たかだか二千年の歴史しかない、ということだ。ことばの起源も、人と人の関係の根源のかたちも、そういうところにあるのではない。
ことばは、意味を伝達し説得するために生まれてきたのではなく、たがいにことばそれ自体に憑依し共有してゆくカタルシスとして生まれてきたのだ。
意味はすでに共有している、という前提からことばが生まれてきたのだ。
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たとえば、ネアンデルタールの井戸端会議において、みんなの前にりんごがあったとする。
誰かが「あ、りんごだ」といった。
そしてみんなも「そうだ、りんごだ」といった。
これが、「りんご」ということばの発生の現場である。
りんごの意味なんか、すでにみんなが知っている。そのときみんなは、「りんご」という「ことば=音声」に憑依し共有していったのであり、「りんご」の「意味」を共有したのではなく、「りんご」に対する「感慨」を共有していったのだ。
ことばは、意味を伝達し他者を説得しようとする衝動のないところから生まれてきたのだ。
あらかじめことばをイメージしてことばを発したのではない。思わず発せられたその「音声」を、みんなして「ことば」にしていったのだ。そしてその「音声」を発することをさせたのは、ことばをイメージする「知能」ではなく、思わず「音声」がこぼれ出る「感慨」である。
「ことば」なんか、猿の声帯でもオウムの声帯でも、発することができる。
人間は、ことばを発することのできる声帯を持ったからことばを生み出したのではなく、ことばがこぼれ出るような「感慨」を持ったからことばを生み出したのだ。
猿が「きゃあ」といってもただのうなり声だが、人間が「きゃあ」といえば「ことば」になる。人間は、その「きゃあ」という音声にみんなして憑依し、みんなして憑依していることに気づき、そこからカタルシスを汲み上げてゆく。意味は、そのあとから生まれてきたにすぎない。
人間は、そういう音声を発してしまうような「嘆き」を持っていて、そういう音声に憑依してしまうような「嘆き」をもっている。そうして、みんなして憑依していることに気づいてカタルシスを覚えるような「嘆き」を持っている。
人間は、「神」に蹂躙されなくても、すでに生きてあることそれ自体が「受難」になってしまっている。
「受難」というトラウマを事後的につくり出す制度性、そういう恨みがましさこそが、一神教の正体であり、正義の名のもとに他者を蹂躙し説得しようとするユダヤ的ヨーロッパ的知性の正体である。
しかし、
そんなものつくり出さなくても、人間にとって、生きてあることそれ自体がすでに「受難」なのだ。
人間は、他者から蹂躙されているのでもなければ、他者を蹂躙し説得しようとする存在であるのでもない。
ひとまず自戒の覚書きとしてここに記す……蹂躙(説得)されてある存在になろうとするな。蹂躙(説得)する存在になろうとするな。猫になれ、なんちゃってギャルになれ、この世でいちばん最後に悟る人になれ……。