祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」45

このブログのコンセプトは、そのへんのバカギャルと同じレベルのことばと同じレベルの思考で、高級な学術用語をひけらかして何かがわかったつもりになっているインテリ連中に対して、おまえらの考えることはそのていどか、われわれのほうがずっと遠くまで考えている、と主張してゆくことにあります。
しかしそんなふうにがんばっても、けっきょくは僕もまたインテリという人種の一番隅っこの席に吸収されてしまうのが落ちなのかもしれないけれど、とりあえずがんばれるだけがんばって書いてゆこうと思っています。
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猿の思考は目の前にあるものに反応しているだけだが、人間は「ない」ものを類推してゆく能力がある……こんな底の浅い結論で人間と猿との違いがわかったつもりになっていい気になっている人たちがいる。
よく聞く人間観である。こんな結論など、西洋の近代合理主義の迷妄にすぎない。
こんなことは「結論」ではなく、われわれの思考の前提にすぎない。われわれの思考は、ここから、このことを疑ってゆくことから始まる。
なぜなら、こんな愚にもつかない結論を振りかざすことによって、われわれの中にある「今ここ」に対する深いときめきを見失ってしまうからだ。
われわれだって、目の前の「あなた」がこの世界のすべてだ、と思ってしまう瞬間はあるではないか。そういう瞬間を体験できなくて何が人生だ、という感慨はあるではないか。
「何がわれわれを生かしているのか」ということにおいて、人間も猿もたいした違いはない。人間もカブトムシもたいした違いはない。同じ生きものなんだもの。
われわれにとって「生きられる意識」とは何か。それは「見えないものを類推する」意識ではない。そういう意識を持ってしまったことは、われわれが引き受けるほかない人間であることの与件であるとしても、それが「生きられる意識」になっているのではない。
われわれだって、「人間」である前に「生きもの」なのだ。「生きられる意識」は、「生きもの」であるという与件の上にしか成り立たない。「人間」というレベルから「生きもの」というレベルに遡行してゆく……それが、「遠くまで考える」ということであり、「歴史を考える」ということだ。
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僕は、あるブログで「人間は猿の仲間である」という趣旨の哲学的な記事を読み、この管理人氏は信用できる、と思った。
しかしそのあと「人間と猿を分かつものは見えないものを類推してゆく能力にある」という内容の記事を書いてこられて、ちょっと違和感を持った。
「人間とは何か」という問題をそんなふうに裁断されたら困る、と思った。
まあ、いまどきたいていの知識人がそんなふうに考えているのだから、多少は仕方ないともいえるのだが、僕は、そういう陳腐な思考が席巻している流れを押し返してしまいたいのだ。
われわれの生きることは、「見えないものを類推してゆく能力」によって成り立っているのか。それが、人間であることの証しであるのか。
そんなことあるものか。われわれだってそうした能力を解体して「目の前のものがすべてだ」という「ときめき」を体験をしなければ生きられない。それは、目の前にないものは類推できないという猿の思考のレベルに遡行することであり、そういう「感動」とか「ときめき」という心の動きがともなった人生でなければ、われわれだって生きられない。
われわれの「生きられる意識」は、「ない」を類推してゆくことにあるのではない。「ない」ということそれ自体にときめいてゆく心の動きにこそある。「ない」ものを類推してゆく能力を持った人間でさえも、そういう「猿のレベル」に遡行してゆくことができなければ生きられない。そういうレベルの心の動きを残し持っている人こそ、この生や他者に深くときめいて生きている。
猿は、ないものあるかのように類推することはしない。人間はそのレベルから遠く離れてないもの類推してゆくが、そこから一周して「ない」ということそれ自体にときめく境地に着地してゆく。それは、猿と同じようにないものを類推しない思考である。それは、猿と同じ思考であって、同じ思考ではない。
「遠くまで考える」とは、そのように「遡行する」ことであって、「行ったっきり」になることではない。
「人間は<ない>ものを類推してゆく能力がある」ということをあれこれ分析してゆくだけで、「人間とは何か」という問題が解決するわけではない。
仏教では、この「遡行してゆく」ことを、「往相」に対する「還相」といっている。
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猿の研究をしている学者先生の話です。
猿に、まずいろんなカードを見せる。
それから、「赤」というカードを見せて、それと「赤い色」のカードが同じであることを教え込んでゆく。
「赤」という字のカードを見せて「赤い色」のカードを持ってくれば、ご褒美のえさをやる。そうやって、青も黄色も緑も教えてゆく。
そこで今度は逆に、「赤い色」のカード見せて「赤」という字のカードを持ってくることができるかと試してみると、これが猿にはさっぱりできない。人間ならそうむずかしいことでもないのに、猿にはさっぱりできない。
猿には、「赤という文字」と「赤い色」が同じであるということが、どうしてもわからないらしい。彼らは、「赤」という字のカードを見せられて「赤い色」のカードの持ってきてえさをもらうという一連の流れをひとつの全体として記憶していただけらしい、ということがわかった。
猿には、「意味」という概念がない。
このことを逆にいえば、生きものは意味などわからなくても世界は正しく見えている、ということだ。赤いものは、ちゃんと赤く見えている。
「意味」をとらえることが「意識」のはたらきではない、ということだ。
彼らがそのカードをちゃんと記憶していたということは、そのカードにときめいていたということであり、「意味」などわからなくても、猿だってちゃんと世界理解し、世界にときめいている、ということだ。
「意識」は、「意味」をとらえてときめくのではない。「意味」をとらえるから記憶されるのではなく、ときめくから記憶されるのだ。
その瞬間にときめけば、その瞬間が記憶として残る。
だから小林秀雄は、「花の美しさのようなものがあるのではない、美しい花がある」といった。それは、「意味」をまさぐるということをしない生きものとしての根源に遡行しようとする思考である。
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「赤」という文字と「赤い色」を「意味」としてとらえ、その二つを「同じである」と認識してゆくことを、意識のはたらきの「対称性」というらしい。
この「対称性」を認識してゆくことが人間の人間であることの証しであり、人間の「無意識」である、と中沢新一氏はいっておられる。
「対称性の人類学」、これが、中沢人類学の集大成なんだってさ。
彼は、口先では「無意識に遡行する」というキャッチフレーズを掲げておきながら、そのじつ、「意味」がよくわからなくて「花の美しさのようなもの」をうまく分析できない無意識的なわれわれ庶民を置き去りにしてくれている。腹の底ではきっと、われわれ庶民をバカにしている。人間をなめている。
気取って妙なはったりをかますことだけはじつにお上手で、それによってみずからの思考の浅さをカモフラージュしてゆく、これがこの学者の常套手段だ。
こうした問題の立て方そのものが、彼の人間理解の底の浅さを露呈している。
こんなパラダイムなど、無意識に遡行することでもなんでもなく、行ったっきりになって、現代社会における「意味」をまさぐるという観念制度にあっけなく飲み込まれてしまっているだけである。
たとえば、店先のりんごを見て、どこの店にも売っているりんごと同じだと思えば、感激なんか何もないだろう。
こんなりんご見たことない、世界でたった一つのりんごだ、と思えば、きっと感激がやってくる。ときめくとは、そのように他のものとの「対称性」を見出してゆくことではなく、それ自体との固有の関係を切り結んでゆくことである。
だから小林秀雄は、「美しい花がある」といった。
「ときめく=感激する」とは、「対称性」の認識が解体されて、心が「混沌」の中に投げ込まれることである。対象との固有の関係を切り結ぶことである。
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「蛇と縄の違いはどこにあるか」という仏教哲学の命題がある。
ある仏教フリークのブロガーは、これに対して「蛇は人間に恐怖心を与えるが、縄にはそれがない」という解答を提出していた。
どうしてこういうバカな解答が出てくるのかといえば、「蛇と縄は同じかたちをしている」という「対称性」に思考が呑み込まれてしまっているからだ。
仏教には「この世に対する執着を断て」という教えがあるが、あっさりとこの世に仮相にとりこまれ、執着してしまっている。
同じかたちをしていようといまいと、蛇と縄は別のものではないか。
人間は、蛇と縄を区別するために蛇と縄ということばを生み出したのではない。蛇と出会って「蛇」といい、縄と出会って「縄」といったまでだ。それぞれとの固有の出会いがあったから、「蛇」ということばが生まれ、「縄」ということばが生まれてきた。
だから、「山川草木悉皆仏性(すべての存在に仏性がやどっている)」という。
「対称性」になんかとらわれていたら、永久に仏性にも無意識にも届かない。
すべてのものとの出会いの一瞬一瞬が、固有の唯一無二の体験である。
だから、縄を「縄」といい、蛇を「蛇」という。だから、縄を見て「蛇だ」と思うこともあれば、蛇を見て「縄だ」と思うこともある。
それが、われわれの生きているかたちであり、意識の根源的なかたちなのだ。
人間の意識は、一瞬一瞬にときめいている。
まあ仏教のことなんかどうでもいいが、われわれが生きてあることはそういう風になっており、「対称性」といっているだけではすまないのだ。生きることはそんなかんたんなことではないし、そんな味気ないことでもない。
人類の歴史において、「対称性」の意識が「ことば」を生み出したのではない。「ことば」は、対象との固有の関係を切り結ぶときめきから生まれてきた。
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われわれの「無意識」は、一瞬一瞬のその固有性にときめいている。
前の瞬間との「対称性」をまさぐっているのではない。
物が動いていなければ、前の瞬間と次の瞬間は同じ画像として見えている。しかし動き出せば、一瞬一瞬違う画像になってゆく。それが「動いている」と認識することは、前の画像との「対称性」を一瞬一瞬解体してゆくことによって成り立っている。
意識は、「対称性」を解体して、この世界にときめいてゆく。
われわれが生きてある一瞬一瞬は、それぞれが唯一無二の固有の瞬間である。われわれの無意識は、そのようにして一瞬一瞬を体験していっている。
われわれの無意識は、「対称性」を見つけ、そして解体してゆく。
人間と神との「対称性」、などといってしまったら、おしまいである。そんなものは、神でもなんでもない。この世界の森羅万象に対して、人間の外部の、絶対的な「非対称性」を感じたとき、「神」ということばが生まれてきたのだ。