祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」44

人間と猿の思考は、どこで分かたれるのか。
猿は目の前にあるものを認識しているだけだが、人間はその向こうの見えないものを類推してゆくことができる。
まあ、大雑把にいえばそういうことになるのだそうな。
つまりそれが、「神話的思考」あるいは「呪術的思考」になっているのだとか。
それはそうかもしれない。しかし、それがわかったからといって、われわれの問題が解決するわけではない。
問題は、その違いがどのようにして起きているかということだ。
われわれは、さいころの裏側の目を類推することができるが、猿にはできない。
それは、われわれが、猿よりもたくさんの記憶を蓄積することができるからだろう。われわれは、さいころの一の目の向こうが六になっていることを確かめた記憶を維持しているが、猿はもうすっかり忘れてしまっている。
それは、「ない」ものを類推したのではなく、「ない」ものを「ない」と認識する観念行為である。そしてその「ない」という事態と出会っていることの不安を埋めようとして、そこに過去の記憶が流れ込んでくる。そこに「六」の目が隠れていると類推しても、それは「見えない」のである。「ない」ものは「ない」のだ。類推することなんか、たいしたことではない。「見えない」という不安を抱くところに、人間が人間であることのゆえんがある。
猿には「今ここ」だけしかないが、人間は「未来」を類推することができる……という。しかしこの場合の「さいころの裏側の目」は、「未来」ではなく、「過去の記憶」である。
猿は病気になっても現状を受け入れてわりと淡々としているが、人間は「未来」を悲観して悶々としてしまう。そうに違いない。しかしその「未来」は、過去のさまざまなイメージ体験の記憶から生み出されたものである。
そのときわれわれは、「未来に向かって追憶している(キルケゴール)」。
それは、未来を類推しているように見えて、じつは過去を反芻しているにすぎない。
過去に拾い集めてきたたくさんの「悲惨」というカードをあれこれ並べ立てて悶々としているだけであって、未来のことなど誰にもわからない。
未来はつねに、「新しい体験」としてもたらされる。
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人間の思考には、たくさんの「記憶」が集積している。
「たくさんの記憶が集積している」とは、記憶してしまうくらい一瞬一瞬にときめいて生きている、ということだ。
一瞬一瞬にときめいているから、その一瞬一瞬が記憶として残ってゆく。
二本の足で立っていることは、その新しい世界との出会いに一瞬一瞬にときめいている、ということだ。それは、われわれにとって、幸せなことであるかどうかはわからない。ともかくわれわれは、そういうかたちで存在している生きものなのだ。
つまり人間の「思考」は、そのようにすでに一瞬一瞬にときめいてしまっている、ということだ。われわれの脳細胞は、すでにもうそのようなかたちでスイッチが入ってしまっている。もうこのかたちで生きてゆくしかない。
人間と猿とでは、世界の見え方が違っている。それは、直立二足歩行と四足歩行との違いである。
しかしその見え方は、人間は「ない」ものを類推してゆくが猿には目の前の「今ここ」しかない、というようなことではない。根源的には、「今ここ」の鮮やかさが違うのだ。
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われわれの脳細胞は、たくさんのものを記憶してしまう。
それが、この生を豊かにもすれば、生きにくいものにもしている。
そして、人間の「思考としての言語」と猿の「思考としての言語」はどこか違うのか。
人間には「今ここ」という意識があるが、猿にはない。猿の頭には、人間ほどあざやかに「今ここ」は現出していない。「今ここ」しか見えていないが、「今ここ」という意識はない。
人間がそのように「記憶」に残るほど鮮やかな「今ここ」を体験するのは、直立二足歩行という不安定で危険極まりない姿勢を維持していることや、生きものとしての限度を超えて密集した群れの中に置かれているという、猿にはない「嘆き」を抱えて存在しているからであり、そういう「嘆き」を支払って「今ここ」に深くときめいているのだ。
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猿だって、寄り集まって「うなり声」を交し合っているときはある。しかし、なぜそれが「ことば」として昇華してこなかったのか。
それは、人間のような「嘆き」という「ことば」に昇華してゆく契機を持たないからだろう。猿は、そのうなり声が「ことば」として機能しなくてもべつだん困りはしない。それでじゅうぶんなのだ。
人間と人間の関係には、うなり声が「ことば」に昇華してゆくような状況があった。
「あなた」と「私」が今ここで出会っている、という状況に対するときめきが人間は猿よりもっとあざやかだし、同時に不快さももっときつく体験してしまうし、不快でも追い出せないくらい密集した状態の中に置かれているから、なんとかその関係をやりくりしてゆかねばならない。
猿は、不快な相手は追い払う。彼らは他者に対して、人間ほどときめきもしないし不快にもならない。
しかし人間のように二本の足で立って向き合えば、あざやかにときめきもすれば、うんざりするくらい不快にもなってしまう。
そういう関係から、「ことば」が生まれてきた。
ことばをイメージする抽象的な思考を持ったからではない。ことばを持つ前の段階で、ことばをイメージすることはできない。それは、論理矛盾だ。
ことばを持ったから、ことばをイメージする抽象的な思考ができるようになってきただけのことだ。
そういう抽象的な(「ない」ものを類推してゆく)思考を持ったから「ことば」を生み出したのではない。それは、「ことば」を持ったことの「結果」にすぎない。
原初の人類は、限度を超えて密集した群れの中で、「あなた」と向き合っている「今ここ」に深くときめき、深く傷ついていった。そういう体験を重ねながら、たがいのうなり声が「ことば」へと昇華していった。
人間と猿を分かつものの根源は、「今ここ」の目の前にあるものにしか反応しないことと、「今ここ」の向こうの「ない」ものを類推してゆく能力があることにあるのではない。そんな能力によって「ことば」が生まれてきたのではない。
「今ここ」に対する意識の鮮やかさが違ったのだ。
人間だって、根源的には、「今ここ」の目の前にあるものにしか反応しない生きものなのである。
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目の前には「ない」ものを類推してゆくためには、まず、目の前の「ない」を認識できなければならない。
そういう「ない」という認識ができるくらい人間は、「今ここ」とあざやかに向き合っている生きものなのだ。
それほどに「あなた」と出会って深くときめき、深く傷つく生きものなのだ。
「あなた」に気づいて「あ」という。たがいに「あ」という。
それは、「あなた」に何か意味を伝達したのではない。自分の感慨から思わずこぼれ出たただの音声にすぎない。
しかし、二人ともその音声をたしかに聞いた。そして、微笑み合う。
そのとき二人は、その「あ」という音声を共有した。伝え合ったのではない。たがいのあいだの「空間」で共有したのだ。
猿だって、たがいに音声を発し合う楽しさはあるに違いない。しかしその音声は、自分の口から発せられ、自分の耳に聞こえてきているだけである。その「音声」をたがいに共有している、という意識はない。楽しさを共有しているという意識はあっても、「<音声>を共有している」という意識はない。
「<音声>を共有している」と気づいたとき、それが、ことばの発生だ。
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古語としてのやまとことばの「あ」や「わ」は、「吾=私」という意味である。
「あ」とは、「私はあなたに気づいた」という表現だった。
「あなた」のことは、「な(汝)」といった。「なあ」と呼びかける音声。
出会ってときめけば、自然にそういう音声がこぼれ出る。やまとことばの「あ(わ)」や「な」は、百万年前の人類の「原始言語」そのままのかたちを残しているのかもしれない。
人類の「ことば」は、目の前の「今ここ」に対する深いときめきから生まれてきたのであって、「目の前にないものを類推してゆく能力」から生まれてきたのではない。
そうやってたがいのあいだの「空間」で音声を共有してゆけば、ひしめき合った群れの中でくっつき合っているといううっとうしさから逃れられる。うっとうしさから逃れて「あなた」にときめいていられる。「ことば」は、そういう機能として生まれてきたのだ。
原初の「ことば」は、「自己を表現する」ためのものでも「意味を伝達する」ためのものでもなかった。人と人がたがいにときめきあって生きてゆくための道具として生まれてきた。
人間は、それほどに「今ここ」の他者や世界との出会いにときめいている存在だから「ことば」を生み出したのだ。
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「人間の思考は、目の前にないものを類推してゆく能力を持っている」などということを、かんたんに人間であることのアイデンティティであるかのようにいってもらっては困るのである。
人間が猿から分かたれたメルクマールは、「ないものを類推した」ことにあるのではない。猿よりも深く「今ここ」にときめいたから、人間になったのだ。それだけのこと。
深くときめいたから「かみ」ということばが生まれてきたのであって、「ないものを類推した」からではない。
原始人は、深くときめいた体験のことを「かみ」といったのであって、見えない何かをあたかも存在するものであるかのように類推して「かみ」といったのではない。
見えない何かを「ない」と認識して「かみ」といったのだ。
雷の中には見えない「かみ」がやどっている、というとき、その「ない」ということに対する想像力は、「<ない>ものを<ある>かのように類推してゆく」能力ではなく、「ない」ということそれ自体に対するときめきとしてはたらいている。
そういう「ときめき」から、起源としての神話が生まれてきた。
人間は、猿よりももっと鮮やかに一瞬一瞬にときめいて生きている。それはある意味でわれわれの不幸であり、そこから「未来」を類推してしまうような観念のはたらきも生まれてくるのだが、われわれはもう、この「不幸」と「ときめき」を生きてゆくしかない。