祝福論「やまとことばの語源」・「神話の起源(ときめき)」43

起源としての神話は、共同体においても個人においても、「自己(アイデンティティ)」を確認し確立するための装置として生まれてきたのではない。
現代人は、そうした自己確認の装置として「神話」をイメージし、商品や芸術を生み出しているが、「起源としての神話」はそのような装置であったのではない。
それは、世界や他者との「出会いのときめき」を表現する装置として生まれてきた。
「かみ」ということばの語源は、「噛(か)みしめる」の「かみ」である。この世界に気づいてときめく体験を「かみ」といったのであり、そんな心の動きから「起源としての神話」が生まれてきた。
「ときめきを噛みしめる」から「かみ」なのだ。
はじめから「神」という絶対者がイメージされたのではない。
この世界が絶対的な「自己(=人間)の外部」として立ちあらわれてくる体験を「かみ」といったのだ。
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数百万年前の原初の人類は、二本の足で立ち上がったときの「新しい世界との出会い」にときめいた。ときめいたから、「立ち上がったままでいる」存在になっていったのであり、人間の歴史はそのようにしてはじまった。
「遠くまで歩いていった」ことが直立二足歩行の起源であるのではない。それは、原初の狭い森で生まれた事件だったのであって、広いサバンナに出てゆくことによってはじまったのではない。これはもう、現在の考古学の常識である。サバンナに出て遠くまで歩いて行こうとしたから直立二足歩行がはじまったのではなく、遠くまで歩いて行く能力を持ったからサバンナに出て行ったのだ。
自然界の生き物が、サバンナに出て行くことによって遠くまで歩いて行ける能力を獲得していった、などという悠長なことが許されるはずもなかろう。そこは、ライオンや豹などの大型肉食獣がうじゃうじゃいる世界なのである。
最初はたぶん、森で暮らしながら、ときどき肉食獣の食い残しを拾いに行っていただけなのだ。
森の中の木の上からサバンナを見渡し、あそこに「食い物がある」とときめいた。
とすれば、その食い物を拾いに行くことは、「ときめいた」という過去に遡行することである。
それは、「未来」に向かう行為ではない。
人間は、「今ここ」にときめくという体験を持ったから、「記憶」するという能力を得ていった。記憶とは、過去の「ときめき」に遡行する観念行為である。
そのように「ときめく」というかたちで「今ここ」に点を打つ体験したから記憶として残るのだ。
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どこかの村で大きな雷が落ちたんだってさ……その話にときめけば、それはやがて「神話」になってゆく。
人間は、「ときめく」という体験をしてしまうから「神話」を生み出したのだ。
アイデンティティ」なんか、関係ない。「アイデンティティの確認」が人間を生かしているのではない。
「出会いのときめき」が人間を生かしている。
起源としての神話は、古代人による率直な「出会いのときめき」の表現だった。
「今ここ」の世界や他者にときめいてしまったら、「未来」のことなどどうでもよくなってしまう。
人間は、「今ここ」にときめいて「未来」のことなどどうでもよくなってしまう存在だから「記憶」という能力を獲得していったのであり、そんな心の動きから起源としての神話が生まれてきた。
そしてそれはまた、生きものとしての生命システムそのものがそのようなかたちになっているからであり、生きものが「動く」とは、世界に対して「ときめく」ことだ。
すなわち、生きものは、「もう死んでもいい」というカタルシスとともに動きはじめる、ということだ。
一般にいわれているような「生きてゆこうとする本能」がはたらいているからではない。そんな衝動が、「本能」という生命システムであるのではない。
生きものが動くことは、エネルギーを消費することである。エネルギーを消費してしまったら、死んでしまう。エネルギーを消費することは、「もう死んでもいい」と思わなければできないことである。
生きてゆこうとするのなら、エネルギーは消費してはいけない。
生きものは、「もう死んでもいい」と思うから動き始めるのだ。そう思わなければ、動き始めることなんかできない。
それは、この生を消去してゆく行為なのだ。
生きものは、この生を消去しようとする衝動によって生きているのであって、「生きよう」として生きているのではない。
「もう死んでもいい」というほどの「ときめき」の表現として、起源としての神話が生まれてきたのだ。
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われわれ現代人は、未来のスケジュールに急(せ)かされてばかりいて、「今ここ」に対する実感が希薄になっている。だから「生きてゆこうとする本能」などというスケベったらしい概念を当然のように信じて疑わない。
「未来」などという時間は果たしてあるのか。人間以外のいったいどんな生きものが「未来」という時間を意識しているというのか。
「生きてある」とは、次の瞬間に死んでしまうかもしれない、ということである。
「生きてある」とは、「死んでいない」ということである。この生がなくなれば、必ず死ぬ。なのに生きものは、この生を消費してゆく。
どうやら生きものは、「未来」という時間をうまくイメージできないらしい。
人間だって、うまくイメージできないのだ。
未来に百万円入る約束あればうれしいに決まっているが、それよりも「今ここ」で十万円手に入ったときのたしかな手ごたえは、もっと大きな「ときめき」をもたらす。
そんなものだ。だからわれわれは、安月給に甘んじることができる。
人間だって、心の底では「未来」など信じていないのだ。
生きものに、未来に向かって生きてゆこうとする生命システム(本能)などはたらいていない。あなたたちが、「はたらいている」と思いたいだけである。この社会には、人々がたやすくそう思い込んでしまうような「制度性」が存在しいる。
それでもわれわれは、心の底では「未来」など信じていない。
だから、目の前の十万円にときめくことができる。
だから人は、目の前の「あなた」を女(男)のすべてだと思って恋をすることができる。
だから、明日もまた会えるとわかっていても、今ここの別れがどうしようもなく切なくて、つい終電車をやり過ごしてしまったりする。
われわれは、スケジュールに終われる生活だけでは胃潰瘍になってしまう。誰もが、スケジュールから解き放たれるプライベートな時間を必要としているし、生きてあることの「ときめき」は、そこで体験されている。
「今ここ」に心を奪われてしまう心の動きを持っている人でなければ恋なんかできない。
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「ときめく」の「とき」は、「時間」という意味だろうか。
では、古代人にとっての「とき=時間」とは、どのようなイメージだったのだろうか。
スケジュールに追い立てられている現代人のように「過去から未来に向かって飴のように延びた時間」としてイメージしていたのではないはずだ。
「めく」とは、「出現」の語義。
「春めく」とは、春が現れてくること。「きらめく」といえば、きらきらする光が現れてくること。
「めくる」も「めぐる」も、新しい事態が現れてくることをあらわしている。
とすれば、新しい「とき」が現れ出ることを「ときめく」というのだろう。
「とき」の「と」は、「止まる」の「と」。「完結」の語義。
「き」は、「気」および「木」の「き」、「世界」をあらわす。「木」の繁みは、それ自体でひとつの「世界」を構成している。
「とき」とは、「世界はここで完結している」という感慨の表出。
「ときのとき」、などといったりする。「とき」とは、あくまで「今ここ」の唯一無二の瞬間のことをいう。
戦闘開始のときに「ときの声を上げる」という。
いつもとは違う特別なときのことを「とき」といった。
「斎(とき)」とは、いつもとは違って神や僧侶に差し出す食事のこと。「斎日(ときのひ)」とは、祭りの日のこと。
新しい事態の出現を祝福してゆく感慨から、「ときめく」ということばが表出される。
古代においては、現代人のように自分の心の動きのことを「ときめき」といったのではない。「今をときめく何々」というように、自分の心のことではなく、この世界の現象、すなわち新しい事態との出会いを「ときめき」といったのだ。
彼らにとって心がときめいていることは当然の前提だったのであり、そういう前提から「ときめく」ということばが生まれてきた。
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「生きる」とは、新しい事態と出会うことであって、「生きてゆこう」とすることではない。われわれは、「生きてゆこう」とする前に、すでに新しい事態と出会ってときめいてしまっている。生きものは、すでにそういう事態の中に中に投げ入れられてある。
したがって、根源的には、「生きてゆこう」とする衝動が生まれてくる根拠などないのである。
われわれは、新しい事態と出会う「ときめき」にうながされて生きているだけであり、ときめいたという「記憶」を紡いでいるだけである。
人間が記憶する生きものであるということは、この生が「生きてゆこう」とする衝動の上に成り立っているわけではないことを意味している。
いや、すべての生きものが、「記憶」するシステムの上に成り立っている存在であって、「未来意識」によって生きているのではない。
生きものを生かしているのは、「いまここ」の新しい事態と出会うときめきであり、「過去」のときめいたという記憶である。
すべての新しい事態は、「過去」として流れ去り、この生に堆積してゆく。そしてそれは、自分ひとりだけの生にとどまらない。すべての生きものの生には、「歴史」という長い時間の「記憶」が堆積している。