視覚画像の起源・「漂泊論B」25



毎朝庭にやってくる鳥がいる。
家のものはそれを死者の生まれ変わりかと思い、水や餌を与えて、ときには話しかけたりする。
死んだ妻、死んだ夫、死んだ子供、死んだ祖父や祖母……。
こういうことを、その人の心やさしさとか、人間と自然のかかわりの原点とかのようにいわれているが、はたしてそうだろうか。
死者の魂がその鳥に宿っていると思う。原始人もそのように思って自然とかかわっていたのだろうか。人間の歴史はそうやってはじまったのだろうか。
現在のアマゾンやボルネオ奥地の未開人の社会にも、森や木や花や鳥や魚の「精霊」の話がある。
彼らを原始人と思うべきではない。彼らもまた、現在の地球に暮らしている人々である。
彼らもまた、ホモ・サピエンスなのである。
人間の観念や遺伝子は、風のようにいつの間にか地球全体に伝播してしまう。
利己的な遺伝子』を書いたリチャード・ドーキンスの調査によれば、アフリカの孤島でいまだに旧石器時代のような暮らしをしている人々の社会にも、「遠い昔に白い肌をした救世主がどこかからやってきて、いつかまた戻ってくると約束して去っていった」というような伝説があったりするそうである。
それは、ほんとにその島に白人がやってきたことを意味しているとはかぎらない。そういう風の噂がその島にも伝わっていったというだけのことかもしれない。そういう伝説は、アフリカのほかの場所にもいくらでもあるわけで。
現在の地球上の人類は、すべての地域でホモ・サピエンスの遺伝子と「霊魂」という概念を共有している。遺伝子と観念は、風のようにいつの間にかたちまち地球全体に伝播してしまう。これが、人間という生き物の生態である。
しかし原始時代の人類が「霊魂」という概念を共有していたという証拠はない。
ネアンデルタール人が埋葬という葬送儀礼を持っていたからといっても、それが死者との対話としてなされていたとはかぎらない。
昔も今も、人が葬送儀礼をする根源的な心の動きは、他者の死に対する「かなしみ」にある。
「死者との対話」などという観念的な手続きは、ついでにやっているだけのことにすぎない。
他者の死に対する「かなしみ」から、人類の葬送儀礼が生まれてきたのだ。
ネアンデルタール人は、ひたすら他者の死をかなしみながら埋葬という葬送儀礼をはじめていった。
人間と猿を分ける境界は、他者の死にたいする「かなしみ」の深さにある。
そして、「霊魂」という概念を持っているか否かは現代人と原始人の境界であり、その分水嶺は、氷河期明けの共同体(国家)の発生にある。それによって人類は「霊魂」という概念を発見し、その概念はたちまち地球全体に伝播していった、風のように。



では、人間はなぜ霊魂という概念を持ってしまったかといえば、直接的なきっかけは共同体の制度性が発展していったことにあるわけだが、人間はそういう観念を持ってしまうような心の動きを根源において抱えているということでもある。そのことに必然性がないわけではない。なにしろ、旧石器時代のような暮らしをしている未開人のところまで伝播してしまうのだから。
このことを僕は、ある人から教えてもらった。本に書いてあったのではない。
世の中の歴史家なんて、みな、原始人も霊魂という概念を持っていたという前提で考えているのであり、霊魂という概念を持っているのが原始的な心性だと思っている連中なのだもの、本の中に書いてあるはずがない。
人間が霊魂という概念を持ってしまったもとになる普遍的な心性はどこにあるのか?
どうやらそれは、われわれの意識は「過去のデータ」をもとにこの世界の現実を解釈している、ということから起きてきているらしい。
人が緑内障の発病に気づくのは、いつも遅れてしまう。それは、「過去のデータ」で視覚の不調を補っているからである。それによって、見えないものまで見えているような視覚=意識になっているからだ。見えていないと生活できないから、意識が「過去のデータ」を引っ張り出してきて無理やり見えないものまで見えているような「視覚」をつくってしまう。
たとえば、横断歩道で青になったら、車道の車は止まっているはずだから、止まっている「視覚」をつくってしまう。しかし、ほんとうに止まっているかどうかは、じつは見えていない。たまに止まらないまま行き過ぎようとする車だってある。で、その車にひかれそうになる。そうなってはじめて、自分は目がおかしいのかもしれないと気づく。
われわれの意識は、そうやって実際には見えていないのに、見えているような錯覚を起こしてしまう。
幽霊やUFOだって、きっと当人はほんとうに見ているのだ。見えていなくても、見えているような「視覚」を意識はつくってしまう。
極端にいえば、人間の意識は、見たいものだけを見て見たいくないものは見ないということが可能なのだ。
そういう見たくないものは見ないという作為的な意識=観念が発達して、人殺しをするようになったのだし、見たくない第三者を排除する制度性がつくられてゆき、戦争をするようにもなっていった。
また、見たいものを見るという意識で共同体内の結束を強め、農業を発達させたり、支配と被支配の関係を強化していったりした。
そうやって人間の意識が、どんどん作為的になっていった。
われわれは、自分が自分を支配し、自分が自分に支配されている。「自分という意識」が身体から離れて身体=自分を支配している。そういう身体から離れた「自分という意識」が「霊魂」という概念になっていった。



意識は、「過去のデータ」を組み合わせてこの世界の現実の視覚画像をつくりだす。しかしそれは、この世界の現実に追いつこうとしているのであって、つくりたいようにつくっているわけではない。それが、原始人の視覚画像だ。したがって、彼らは、幽霊もUFOも見なかった。なぜなら、そういう「過去のデータ」を持っていなかったからだ。
まあ、そんな噂話も雑誌やテレビもなかった。
たしかにUFOも幽霊も見る人は見ているのだが、それは意識が「過去のデータ」から勝手につくってしまった画像なのだ。
原始人はあくまでこの世界の現実を追いかけながらできるだけ正確に解釈しようとしているだけだったが、現代人はこの世界の現実を自分の都合のいいようにつくり変えてしまう。だから、この世界の現実をつくっている「神(ゴッド)」が存在するというような想念も持つようになった。
もとはといえば意識が「過去のデータ」をもとにこの世界の現実の視覚画像をつくっているという意識の普遍的なはたらきにあり、それは原始人の意識だってそうなのだが、共同体の制度とともに観念の思考がどんどん作為的になってきて、「神(ゴッド)」だの「霊魂」だのという概念が生まれてきた。
この身体の中に身体を支配し身体を生かしている「霊魂」がある、という思考。人間の思考がどんどん作為的になってきて、そんな概念が生まれてきた。
人間の自然としての普遍的な意識においては、「過去のデータ」を総動員してこの世界の現実を解釈しているだけで、つくりたいようにつくっているわけではない。ただもう、この世界の現実に追いつきたいとけんめいになっているだけなのだ。
緑内障の人が視覚画像をつくってしまうのも、世界の現実に追いつきたいという一心のはずである。
たぶん人類は、共同体の発生を境にして、この世界の現実に追いつこうとする思考から、この世界の現実をつくろうとする思考に変わっていったのだ。
そういう作為性の象徴として「神(ゴッド)」や「霊魂」という概念が生まれてきた。



われわれの命は、根源において生きられるようにはできていない。そのままでは死んでしまうようにできている。
だから意識は、なんとかこの世界の現実に追いつこうとして、過去のデータを取り出して不足分の視覚画像を補おうとする。
たぶん、緑内障ではない普通の健常者だって、そのようにして視覚画像を結んでいるのだろう。
人間のもともとの視覚なんて、あんがいいい加減であるのかもしれない。それを意識のはたらきで補っている。補わないと生きていられないくらいいい加減なのだ。
かんたんに近視になってしまうし、もろいものだ。意識で補う癖がついているからもろいのだし、もろいから意識で補おうとする。
われわれ文明人は、未開人ほどの視力を持っていない。それは、意識のはたらきで視覚画像をつくってしまう習性が強すぎるからかもしれない。つまり、作為的にこの世界を解釈してしまう観念のはたらきが勝ちすぎている。
人間の視覚は、単純に眼球や網膜だけの問題ではない。意識がこの世界の現実をどのように解釈するかという問題と大きくかかわっている。
原始人と現代人とでは世界の解釈の仕方が大きく違う。それは、視覚画像そのものが違うということかもしれない。



あたりまえに考えて、鳥の中に人間の霊魂が宿っているはずなんかない。人間が勝手にそう思いたいから、そう思っているだけの話だ。
なのに人は、鳥の中に人間の霊魂が宿っているから自分がそう思わせられた、と思考してゆく。
そうやって、つじつまを合わせてゆく。
べつにUFOを見たかったわけじゃない、実際にUFOがいたから見えただけだ、と彼らはいう。
それは、意識は根源において世界の現実の追いつこうとするはたらきだからだ。だから、どんなに勝手につくっていても、追いつこうとしただけだ、と言い張る。いや実際には、追いつこうとしただけなのだ。
追いつこうとしているだけなのに、われわれはすでにつくってしまうような「過去のデータ」を持たされてしまっている。
われわれはすでに、そういう噂話の空間の投げ込まれてしまっている。
鳥の中に人間の霊魂が宿っているという東京の噂話は、アマゾン奥地の未開の部落まで届いてしまう。
噂話は、人間がこの世界を解釈するための大切な「過去のデータ」になっているらしい。
なぜならわれわれの身体はこの世界に孤立して存在しているのであり、自分の視覚画像が正確である確証を持っていないからだ。
人間のそういう「孤立性」が、噂話(=共同幻想)の広がりを助長し、噂話(=共同幻想)によって世界を解釈する習性をつくっている。
噂話(=共同幻想)こそが、この世界の視覚画像に確証を与えてくれる。
そしてこの社会の共同幻想=制度性は、集団内で結束しながら第三者を排除してゆくこと、すなわち見たいものを見て見たくないものは見ないと排除するかたちではたらいている。そのようにして現代人は人と人の関係をつくり、視覚画像をつくっている。
たとえば、事故とか事件とかで死んだ子供の部屋をそのままにしている、というような話をよく聞く。
あまりよい習慣とは思えないが、その人が死んだということを認めたくない(=見たくないものは見ない)気持ちがそうさせるのだろう。
そうして、見たいものを見るという習性から逃れられなくなって、死んだ子供の部屋をそのままにしている。
そういう人の視覚画像はきっと、見たいものに焦点を合わせると、まわりの景色がほとんど消えたようになっているのだろう。それは、第三者を排除しようとする三角関係の心の動きでもある。
まあ現代人は、そういう視覚画像と心の動きで、商品を衝動買いしてしまう。
さらには、そうやって死が受け入れられない観念になってしまっている。
われわれの思考や視覚画像は、原始人のような、この世界の現実に追いつこうとするというかたちになっていない。
見たいものを見る、見たくないものは見ない……観念としての視覚画像がそのような傾向になってきて、人間や身体を支配している「神(ゴッド)」や「霊魂」という概念が生まれてきた。
もとはといえば、意識は視覚画像をつくることができる、ということにある。
そして現代人は、見たいものを見て見たくないものは見ないという作為的な観念で生きている。
とはいえ意識の根源のはたらきにおいては、それでもこの世界の現実に追いつこうとしているだけなのだ。
つまりわれわれの心や体は、根源的には「神」や「霊魂」に支配されているわけではなく、この世界から置き去りにされた孤立した存在として、この世界の現実に追いつこうとしてはたらいている。



われわれの心や体は、この世界の現実を先験的に他者と共有しているのではない。
この心や体が根源において向き合っているこの世界の現実は、他者と共有できるような完全なものではなく、ひとりひとりきわめて不完全なかたちであらわれている。その不完全さを補おうと、けんめいに「過去のデータ」を駆使している。
人間は、他者と現実を「共有している」のではなく「共有してゆく」のだ。ひとりひとりの現実が不完全で補う余地を残しているために、「共有してゆく」というかたちでその余地を埋めてゆくのだ。
共有していないから共有してゆくのだ。そこに、人間社会の味わい深さややっかいなところがある。そうやってときめき合うこともあれば、支配したりされたりする関係にもなる。
われわれにとってこの世界の現実は、あやふやで不安定だ。人間は、そういう不完全な存在の仕方をしているから、他者やこの世界に深くときめいてゆくことができる。
しかしそれは同時に、かんたんに支配したりされたりする関係にもなってしまいやすい、ということでもある。人類史において、そのようにして共同体(国家)が生まれてきたことはもうしょうがないことなのだが、それでもわれわれは、プライベートな生活圏においてときめき合うという関係をけっして手放してはいない。手放しては生きられない。



人間の記憶力が発達しているのは、この世界の現実を不完全なかたちでしかとらえられない存在の仕方をしているからだろう。われわれの五感は、ほかの動物に比べるとずいぶん脆弱だ。しかしそのぶんだけ、「過去のデータ」を駆使してこの世界の現実を解釈してゆく能力は発達している。
人間の記憶力は、この世界の現実をより確かにとらえるための「過去のデータ」として発達してきた。
人間は、もうすぐこの木に美味しい木の実がなることを知っている。しかし猿は、美味しい木の実がなっている「いまここ」の世界の現実を察知する能力は、人間よりもはるかにすぐれている。
人間は、遠くに見える木に美味しい木の実がなっていることをうまく察知できない。でも、きっともう美味しい木の実がなっているにちがいないと類推する能力は、猿よりもずっとすぐれている。そうやって猿よりも弱い猿だったからこそ猿よりも強くなっていった、というパラドックスがある。
人間のとらえるこの世界の現実は、基本的にはとても不完全なもので、「過去のデータ」による「類推(アナロジー)」によって補完されている。それは、たんなる観念的な思考だけの問題ではない。この身体のはたらきそのものがそういう機能になっている。身体がとらえる視覚画像そのものが、そういうかたちであらわれているのだ。
だから、緑内障になっても、しばらくはそれと気付かずに生活ができる。
人間における「類推(アナロジー」の能力は、原初的な自然としての命のはたらきであると同時に、もっとも高度な観念の思考でもある。
「霊魂」という概念だって、おそらくはそうした「類推(アナロジー)」の上に成り立っている。氷河期明けの共同体(国家)が発生とともに、そういう心の動きが起きてくる社会の構造になっていったのだ。
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