生命の起源・「漂泊論B」24



人間は避けがたく「死にたい」という願いを持ってしまう存在であり、命なんか尊くもなんともない。人々が尊いと思いたがっているだけの話であり、ひとまずそういうことにして共同体の結束をつくっている。だからそう思えない人は、その結束から排除され置きざれにされてゆくしかない。
「死にたい」と思っている人はますます死にたくなってしまう社会の構造になっている。
「死にたい」と願っているのが、人間の自然なのだ。
自殺したい人に命の尊さとかかけがえのなさなどということを説いても、ききめがあったためしがない。
命なんか尊いものでもなんでもなく、消してしまいたいものだからこそ、その「身体が消えてゆく」心地のカタルシスがうまれ、それが生きるはたらきになっている。
そりゃあまあ、金も地位も健康にも恵まれて楽ちんな暮らしをしていれば、命の尊さとやらを実感できるだろう。
しかし、それらのことを何ひとつ持てないで存在しているものに、命の尊さを実感せよと迫るのは傲慢というものだろう。
いろんな意味で今にも死んでしまいそうな存在の仕方をしているものにとっては生きてあることなんかうんざりで、さっさと死んでしまいたいにちがいない。根源的には、人間はそういう存在の仕方をしている。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、そういう存在になることだった。人間の歴史は、ここからはじまっている。
そのとき人類にとって二本の足で立ち上がることは、身体の危機の状況に飛び込ん出ゆくことだった。
われわれの命は、身体の危機において豊かにはたらく。それはつまり、生きることなんか体が勝手にやってくれている、ということでもある。身体の危機において、身体が勝手にやってくれている。
意識は、身体の危機(=苦痛)を察知するかたちで発生する。それが意識のはたらきの本質的な機能であるのなら、そこから身体の危機(=苦痛)を消したいという願いが生まれてくる。すなわちそれは、「身体を消したい=死にたい」という願いであるはずだ。
人間は、身体という自然と和解していない。
生きることなど体が勝手にしてくれているのだが、意識はそれをありがたいと思っているのではない。意識はもともと「死にたい」と願っているのであれば、そのとき「死ねない」と絶望しているだけである。
生まれたばかりの赤ん坊は、生きる能力などまったくなく、苦しいばかりで、さっさと死んでしまった方がずっと楽な存在である。それでも体が勝手に息をしたりして生きることをしてしまう。それは、「死ねない」と絶望する体験である。
赤ん坊にとっては、体が勝手に生きているだけで、自分は繰り返しやってくる苦痛を味わい続けているだけである。したがって、そんな状態で生かされてある赤ん坊に生きようとする衝動が生まれてくることは原理的にあり得ない。
生き物は、根源において生きようとする衝動(本能)など持っていない。生きることなんか、体が勝手にやってくれているだけである。
ただ、息をしたりおっぱいを飲んだりすれば、苦痛が消えて体のことは忘れてしまう。そうやって身体が消えている心地だけが、赤ん坊の生を救っている。
身体を消したいということ、すなわち「死にたい」と願うこと、その衝動がなければ、息をしたいともおっぱいが欲しいとも思わない。言い換えれば、そのとき赤ん坊は息をしたいとかおっぱいが欲しいと思っているのではない。苦痛に耐えかねて消えてしまいたいと願って泣いているだけなのだ。
赤ん坊にとって息をしたりおっぱいを吸ったりすることは、赤ん坊の「自我」によってではなく、赤ん坊の体が勝手にしていることだ。



人間は、命の尊厳などというスローガンを信じられるようなかたちで生まれてくるのではない。
そんなスローガンなど、この社会の大人たちが勝手にねつ造して振りかざしているだけのものだ。強いものに都合がいいだけのスローガンだ。
「命の尊厳」なんて、すべての人間に当てはまる普遍的な真実ではない。
そんなことを言っても、誰れの心の奥にも、「死にたい」という願いは疼いている。
「死にたい」という願いから、豊かな命のはたらきが生まれてくる。
身体が消えてゆくこと、すなわち人間は「死にたい」という願いを持たなければ生きていられない存在なのだ。
「死にたい」という願いとともに生きてしまう人間存在は、「死ねない」と絶望している。
「死にたい」と願っても、体が勝手に生きてしまっている。「死にたい」と願わなければ、命は豊かにはたらかない。
人間から「死にたい」という願いを奪うことはできない。
「命の尊厳」という言葉が自殺を抑止するためのなんの役にも立たないことを、そろそろもう思い知ってもいいのではないだろうか。
「死にたい」と願うからこそ、死なないですむのだ。
「生き延びる」とか「命の尊厳」ということは社会の制度性から生まれてくるスローガンであり、社会の制度性から外れてしまえば、そのスローガンそのものに追いつめられることになる。
そのスローガンこそが、多くの人を自殺や鬱病に追い込んでいる。
生きられるものに、生きるためのスローガンは必要か。
生きられないものが生きるのに必要なことは強いものが助けてやることだ、という。それはつまり、生きられないものは生きられないままでいるしかない、といっているのと同じだ。つまり、社会の制度から外れてしまえばもう、生きられないとあきらめよ、と彼らはいっているのだ。
「生き延びる」とか「命の尊厳」という言葉がスローガンになっているかぎり、「死にたい」という願いに浸されたものはもう、自殺してしまうしかない。
人間は、いつまでそういう社会構造を続けるつもりだろうか。
「死にたい」という願いの上に生きるいとなみが起きているのが人間の自然なのだ。そういう人間の自然が成り立つ世の中にならなければ、自殺者の数も減らないにちがいない。
「死にたい」という願いの上に生きるいとなみが起きている社会。
僕は何も、荒唐無稽なことを言っているのではない。
「死にたい」とは、いまここで消えてゆこうとする衝動であって、未来に向かう自殺の計画ではない。
自殺したいのではない。人間は「神様どうかわたしを死なせて下さい」と祈りながら生きているのり、その祈りこそが生きることの豊かさになっている。
今ここで消えてゆこうとする衝動が生きるいとなみを豊かにしている。
未来を思わないこと。そこから、「無常」というこの国の伝統の世界観や生命観が生まれてきた。
未来を思うことをやめればもう、自殺することはできない。
「死にたい」と願うこと、すなわち人間は、いまここで消えてゆこうとする衝動をけっして手放さない生き物なのだ。
命のはたらきとは、身体の苦痛を消そうとするはたらきである。そしてそれは、身体を消そうとするはたらきであり、「死にたい」という願いにほかならない。
われわれの命は、「生きよう」とするかたちでははたらいていない。「死にたい」という願いこそ、命のはたらきの根源的なかたちなのだ。それはたぶん生命の起源の問題としてそうなのであり、したがって「命の尊厳」などということは、生命倫理の問題としても自然科学の問題としてもあり得ない。
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