それどころじゃない・「漂泊論B」26



意識は絶対的に身体の危機を回避しようとする。
だから、苦痛という意識のはたらきが起きてくる。苦痛がなければ、そのまますんなり死んでしまえる。
では人間は生きようとしているのかといえば、それとこれとはまた別の問題だろう。
人間なんか何か嫌なことがあるとすぐ「死んでしまいたい」と思ってしまう生き物だし、この上ないよろこびを体験すれば、「もう死んでもいい」と思う。
自分を忘れて何かに熱中している状態とは身体が消えている状態であり、すなわちそれは「死んでゆく」状態にほかならない。だから「もう死んでもいい」と思う。
死んでゆくことが、生きてあることの醍醐味なのだ。
身体はつねに「危機」として知らされる。身体のことを忘れていなければ、思考も運動もスムーズに起きてこない。
いいかえれば、ものを思ったり体を動かしたりすることは、身体を消してゆくいとなみである。
そのとき身体(の物性)は空間に溶けて消えてゆく。
身体の苦痛は、身体を消すことによってしか回避できない。
人は、身体の苦痛を回避しようとして、身体を消す作法を覚えてゆく。
身体を消そうとすることは、死のうとすることだ。
われわれは、心の奥に「死にたい」という願いを持っていないと生きられない。「死にたい」という願いによって生きている。
人は心の奥にそういう願いを疼かせている存在だから、怖がらずに死んでゆける。
この世の中には、怖がらずに死んでゆける人はいくらでもいるし、たいていの人が最後の最後はあんがい怖がっていない。
人は、最後の最後に、「死にたい」という人間の本性に身をまかせてゆく。
意識は、「死にたい」という願いによって身体の苦痛を消してゆく。だから、病気を苦にして自殺してしまう人も多い。
「死にたい」という願いが、身体の苦痛を消してくれる。
身体の危機=苦痛を回避しようとする衝動とは、「死にたい」という願いのことだ。
われわれのこの生は、どうやらそんな仕組みになっているらしい。
われわれは、生きようとする衝動によって生きているのではない。そんな衝動=本能などというものはない。
現在の歴史家は、生きようとする衝動=本能を前提にして歴史を語っている。だから、つじつまが合わないことがいっぱい出てくる。
原初の人類が住みにくい北の果てまで拡散していったことは、生きようとする衝動=本能では説明がつかない。
原始人は、「もう死んでもいい」というカタルシスを汲み上げながら、氷河期の極北の地に住み着いていった。
「死にたい」という願いが人類の歴史をつくってきた。「死にたい」という願いで歴史を歩んだから、もともと猿よりも弱い猿であったはずの人類は滅びなかった。



たった一度の人生だからよりよく充実して生きたい、という。
まあ、ひとまず誰もがそう思っているのかもしれない。
そういう世の中だ。
しかしそれが人間の普遍的な生きてあるかたちかといわれると困る。
そういう生き方を指南することを書けば人気ブログになれるし、そういうたぐいの本もたくさん出回っているのだが、僕には書けない。
そんなことはよくわからないし、そんなふうに生きようとする意欲をちゃんと持っていれば、もう少しましな人生になったのかもしれない。
人間はほんとにそんなことを思って生きている存在だろうか。
胸の奥のどこかしらに、そんなことはどうでもいい、という思いはないだろうか。
われわれは、生きようとする前に、すでに生きてしまっている。生きることは体が勝手にしてくれている。
そうして心は、いったいこれはなんなのかと問う。
われわれは、望みもしないのにこの世に生まれてきてしまった。いったいこれはなんなのか、と問うたところからこの世の生がはじまっている。
心はつねに、この生やこの身体から一瞬遅れて動きはじめる。
意識としての「自分」は、身体であると同時に身体ではない。身体から一瞬遅れて存在している。
自分にとって他者の存在も同じだ。自分は、他者の存在から一瞬遅れてこの世にあらわれ出ている。絶望的に他者に追いつけない存在だ。
自分という存在のあいまいさと他者の存在の確かさ、いったいこれはなんなのか。
自分は、この世界から置き去りにされている。
誰の心の中にも、そういう思いがあるわけじゃないですか。
よりよく充実して生きたいと思う前に、どうしてもこのことが気になる。この、生きてあることのもどかしさは、いったいなんなのか。
誰もが心の底からよりよく充実して生きたいと思っているのなら、この世の生きることに失敗する人はもっと少なくなっていることだろう。そう思っているのなら、何もえらい先生に教えてもらわなくても、ちゃんと自分で見つける。
でも、生きていれば、それどころじゃない、と思ってしまう瞬間は、どうしてもあるわけじゃないですか。
人間の身体感覚としての五感はとてもあいまいだ、ということもある。そのあいまいさを、意識における「類推(アナロジー)」の能力によって補いながら五感として成り立たせている。
われわれの意識は、そうやってけんめいにこの世界の現実に追いつこうとしている。
われわれの生のいとなみは、この社会でよりよく充実して生きてゆきたいということ以前に、身体感覚として、この生やこの世界に追いつきたいというか、追いつけないという絶望をどうやりくりしてゆくかという課題(=問い)を抱えてしまっている。
よりよく充実して生きようとすることよりも、身体感覚としての五感を成り立たせること、すなわちこの生やこの世界の現実をどう解釈するかということの方が、ずっと差し迫った問題なのだ。
われわれの生を成り立たせているのは、身体感覚としてこの生やこの世界の現実にどう追いついて解釈してゆくかといういとなみにあるのであって、そのいとなみなしに人は生きられないのだ。
つまり、本気で生きれば生きるほど、よりよく充実して生きるどころではなく、生きてしまっていることをどう処理するかに追われてしまう。
よりよく充実して生きることよりも、目の前のりんごがりんごとしてちゃんと見えていているかということの方がずっと大きな問題なのだ。
この生は、見たり聞いたり触ったり匂ったり味わったりすることの上に成り立っているのであって、よりよく充実して生きることよりその方がずっと生きる上での大問題なのだ。われわれの心や体がそういう「この世界の解釈」をかんたんにできると思っているなんて、鈍感だからだ。よりよく充実して生きることが第一義のテーマにできるなんて、鈍感だからだ。
人間は、「それどころではない」存在なのだ。われわれはそれこそ全身全霊でこの世界の現実に追いつこうとしている存在であって、自分が生きてあることにかかわっているどころではないのだ。ここでいう人間の「死にたいという願い」とは、そういう衝動でもあるのだ。
根源的には「よりよく充実して生きる」などという問題は存在しない。まあ現代社会は避けがたくそういう欲望を持たされてしまう構造になっているのだが、それでも人間は、人間の自然(=身体性)において「それどころではない」存在として生きている。



結婚している男が、妻以外の女が気になってついふらふらっと不倫の関係を結んでしまう。よくある話だ。相手が妻よりもつまらない女だと思っていても、ついふらふらっとそういう関係になってしまう。それは、「よりよく充実して生きる」よりも「いまここのこの世界の現実に追いつきたい」という衝動のはずである。
人が人にときめくとは、いまここのこの世界の現実に追いつこうとしている心の動きであって、よりよく充実して生きようとする心の動きではない。よりよく充実して生きようととする欲望が強い人間ほど、そういう心の動きが鈍い。
人間は、よりよく充実して生きること以前に、いまここのこの世界の現実に追いつきたいという願いを持たされている。そうやって人は人にときめいている。
いや、不倫をすることがかならずしも人にときめくことかどうかはわからないのだが、「よりよく充実して生きる」ことが人間の根源的な願いであるともいえない。
そういう「人生」の問題はよくわからない。
「人生」なんて、よくわからない言葉だ。
どう生きるか、ということどころではない。
人間は、生きてあるという事態を背負ってしまっていることにおそれおののいている。その事態にどう始末をつけるかという問題をつねに突きつけられている。
人はなぜ悩むのか。
悩まなければいいのか。
悩まなければいいのなら、最初から悩むことなんかしないし、脳の進化は悩まない心になってきたはずである。
なぜ悩むのかといえば、人間の心は解決のない問いの中に入ってゆくような習性を持っているからだろう。
人間は、解決のない問いの中で生きている。解決のない問いが人間を生かしている。
今や人生相談は大はやりで、人間は昔よりもあれこれ思い悩むようになってきているらしい。そしてそのほとんどは、よりよく充実して生きないと生きたことにならないという社会通念に追いつめられていることからくる。人間はそんな問題を第一義にして生きる存在ではないのに、そのように生きなければ生きたことにならないと思いつめて悩んでしまう。
「たった一度の人生だからよりよく充実して生きよう」という、その現代社会のスローガンにわれわれは追いつめられている。解決のない問いの中に入ってゆきながら、解決しないと生きたことにならないと追いつめられている。
解決しないことこそ、人間の生きてあるかたちなのだ。
それはもう、死ぬことによってしか解決しない。
すべては、死ぬことが解決してくれる。人は、「死にたい」という願いとともに解決のない問いの中に入ってゆく。
死なないと解決しない問題を持ちたがるのが人間だ。
「死ぬ」という生きるいとなみ。すなわち解決を放棄すること。生きることは、それどころじゃないのだ。
生きることは、見たり聞いたり触ったり匂ったり味わったりすることであって、悩みを解決することじゃない。
「人生」などというものはない。
五感という身体感覚とともに「いまここ」の世界をどう解釈するかという問題があるだけだ。
意識は、世界と向き合っていないと、身体(=生きてあること)を忘れていられない。
人間は、よりよく充実して生きようとしているのではなく、生きてあることを忘れようとしている存在なのだ。生きてあること忘れることこそ、生きてあるいとなみなのだ。
人間は、根源的には「死にたい」という願いを生きているのであって、「一度だけの人生なのだからよりよく充実して生きたい」と願っているのではない。生きてあることは、それどころじゃないのだ。「人生」どころじゃないのだ。
つまり、僕に悩みの解決策を聞かれても、そんなことはぜんぜんわかりません、と答えるしかないということだ。
僕には、人生論や人生相談は書けない。そりゃあ、つまらない生き方をしてしまえば残念だが、それはもう取り返しがつかないし、この先どう生きるかという問題があるとも思えない。
僕は、つまらない生き方をしてしまっている人に対する、この先どう生きればいいのかというメッセージなど持ち合わせていない。「あなた」をほめもしないし、けなしもしない。ただもう、人間はつまらない生き方をしてしまう生き物であり、僕もそのひとりです、といいたいだけだ。
人間の歴史なんか、つまらない生き方をしてしまった結果なのだ。よりよく充実して生きようとあくせくしてきた結果ではない。
人間がよりよく充実して生きようとする存在であるという前提で歴史や人生論を語られても困る。
われわれが「いまここ」に生きて存在してしまっていることはもう取り返しのつかない事態であり、人間はそのことにおそれおののいている。取り返そうとしている暇なんかない。
取り返そうとする暇なんかないと「いまここ」に立ちつくしているのが、自然としての人間の生きてあるかたちだとも思える。そうやって「いまここに消えてゆく」のが、人間の生きてあるいとなみであり、死んでゆくときの心の動きなのではないだろうか。
「悩みを解決する」という問題など存在しない。まあ、問題など存在しないということも、解決のひとつかもしれないのだが。
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