人間と猿を分けるもの・「漂泊論B」27

<はじめに>

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どちらかというと世間に背を向けたようなブログだからそんな場に参加する柄でもないのだけれど、だからこそたとえ少数でも「あなた」にこの言葉を届けたいという思いもそれなりに切実です。
このブログは直立二足歩行の起源やネアンデルタール人のことについて考える場としてはじめたのですが、それはつまり「人間とは何か」と問うてゆくことで、いつの間にか世の中の常識に対して「それは違う」と反論することが多くなってきました。
このままではみんなから愛想を尽かされる、と心配しながら書いています。
心配だけど、書かずにいられないことがある。
どこかで拾ってきた言葉をコピペして書いているのではないし、仲間がいるわけでもなく、ぜんぶ、ひとりで考えています。
自分でもどうしてこんなにもむきになるのかよくわからないのだけれど、とにかくここで考えたことをなんとしても「あなた」に届けたい。
俺が負けたら人間の真実が滅びる、という思いがないわけではありません。
というわけで、もしも読んで気に入ってもらえたら、どうか、1日1回の下のマークのクリックをよろしくお願いします。それでランキングが上下します。こんなことは「あなた」にとってはどうでもいいことなのだけれど、なんとか人に見捨てられないブログにしたいと願ってがんばっています。
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<本文>

人間と猿を分けるもの・「漂泊論B」27



承前
現代人の多くは「よりよく充実して生きたい」と願っている。
しかしいざとなれば、それどころではなくなってしまったりする。
この「それどころではない」ということにはいろんな要素があって、人間の心はもうそんなふうになってしまうようにできている、とも思う。
いくら未来の幸せや充実を思っていても、いざとなれば「いまここ」の問題に決着をつけることが優先してしまう。人間は「いまここ」の世界の現実を解釈し認識することをそれほどにやっかいな問題として背負わされている、ということがまずある。
たとえ未来に不幸がやってくるとわかっていても、「いまここ」の問題にこだわってしまうことがある。それは、その問題がそれほどによくわからないからであり、なんとしても知りたいと思ってしまうのだ。
子供が宿題を放り出して遊び呆けてしまうのだって、まあそのようなことだろう。そしてそのようなことは、大人の生活の場面にもいくらでもある。
仕事や勉強を放り出して遊び呆けてばかりいたら、幸せになれない。
恋人どうしが、それが別れ話に発展する可能性があってもけんかをしてしまうことがある。
相手の気持ちを害するとわかっていながら、すねたりふくれたりもする。
それらは、「いまここ」の問題にとらわれてしまっているからだ。
「いまここ」の問題にとらわれてしまうのが人間なのだ。
人間は、「いまここ」のこの世界の現実をどう解釈すればいいのかと途方に暮れている存在なのだ。



未来の幸せのことだけを思って不眠不休で働くことなんかできない。人間の心は、そんなわけにはいかない。目の前のおもしろさに憑依しているときにこそ働き続けることができる。
「空が晴れている」と認識することは、その晴れている「いまここ」に憑依してゆくことである。それは雨が降っているのでも曇っているのでもない、と思うことによって、より鮮やかに晴れていることが胸にしみる。空が晴れているという認識は、曇りや雨の記憶の上に成り立っている。
人間の「いまここ」の認識(知覚)は、「過去の記憶」の上に成り立っている。その「過去の記憶」とはつまり、生きられない生を生きてきた赤ん坊のころの記憶であり、原始人が生きられない生を生きていた歴史の記憶である。そういう「過去の記憶」の上に、われわれのこの世界の現実に対する認識(知覚)が成り立っている。
人間は「生きられない生を生きてきた記憶」の上にこの世界の現実を認識(知覚)している。すなわち、人間は根源において「生きられない生を生きている存在」なのだ。
だから、この世界の現実を認識(知覚)するのにも「過去のデータ」を必要とする。過去のデータの補完なしにこの世界の現実を認識(知覚)することができない。
人間の身体の「無力性」と「受苦性」、そういう問題もある。



茂木健一郎とかいう脳科学者が「脳のふくよかさ」などといっているが、そういうことよりも、われわれの脳のはたらきがいかにいいかげんで不完全かということをもっと考えてもいいのではないだろうか。いかに無力で受苦に満ちたものであるかということを。
「脳のふくよかさ」などといっているかぎり、この科学者によって脳のはたらきについての新しくめざましい知見が提出されることはないだろう。
人間の生きてあるかたちも脳のはたらきも、いい加減で不完全なのだ。われわれはその与件の上に立ってこの生を紡いでいる。
まったく、「人間賛歌」とか「生命賛歌」とか、やめてくれよという話である。
人間の脳のつくりはいいかげんで不完全だからこそ、やけくそでイノベーションというブレイクスルーが生まれてくる。そうやって人間的な文化や文明が生まれ育ってきたのだ。
それはじつにもろくあいまいなもので、人間は「未来の幸せ」だの「よりよく充実して生きる」だのといっていられる存在ではないのだ。
そして僕は生きてあるのがしんどくて、それどころじゃないのだ。
「脳のふくよかさ」だなんて、アホじゃないのかと思う。低俗な小市民根性だと思う。
人間の脳のはたらきは、この世界の現実をきちんと認識(知覚)しているのではなく、けんめいにそこに追いつこうとしているはたらきなのだ。
人間は、根源において生きられない生を生きている。
人間は、人間の自然においては、「いまここ」の問題にとらわれて存在している。
よりよく充実して生きたいと願っていても、いざとなったらそれを放り出して「いまここ」に憑依してしまう。
では憑依するほど「いまここ」をはっきり認識しているかといえばそうではなく、「いまここ」をうまく認識できないからこだわり憑依してしまうのだ。
われわれのこの身体は、この世界をうまく認識することができない。ここが肝心なのだ。だから人は、いざとなると「それどころではない」と未来の幸せや充実を放り出すような心の動きや行動をとってしまう。



「私」という意識は、この世界の現実から一瞬遅れてはたらきはじめる。「私」にとってこの世界の現実は別次元のいわば「他界」であり、うまく認識できない。
人間の基本的な五感は、ひどくあいまいなものである。だから意識は、記憶としての「過去のデータ」を駆使してそのあいまいさを補い、あらためて五感をつくり上げてゆく。
われわれの五感がとらえる「いまここ」の世界の現実は、記憶としての「過去のデータ」が書き加えられてある。
そうやってわれわれの意識は、この世界の現実にけんめいに追いつこうとしている。
おそらくこれが、人間の基本的な存在の仕方である。
だからわれわれは、「それどころではない」という心地になってつまらない生き方をしてしまう。
人間にとっては、「未来」の「よりよく充実して生きる」ことよりも、「いまここ」の「世界を解釈する」ことの方がずっと差し迫った問題なのだ。
人間にとってこの世界の現実は、そうかんたんに納得できるような対象ではない。
この世界は、不思議に満ちている。
われわれは、秋になって木の葉が枝から落ちることに対してだって、たくさんの疑問やさまざまな感慨を抱いてしまう。
その感慨がなければ、「もののあはれ」や「わび・さび」やの文化も「枯葉」というシャンソンも生まれてこなかった。
また、枝を離れた木の葉が何秒で地上に到達するか、その法則の計算式を必死に考えているなんてまったくばかげた話だが、「それどころじゃない」とそんなことにこだわってしまうのも人間なのだし、そこから文明のイノベーションが起きてきたりもする。
その不思議におどろきときめいて科学や芸術が生まれてくる。
人間の脳は、この世界の現実にけんめいに追いつこうとしている「プア(=弱く傷ましい)」なはたらきなのだ。
「ふくよか(=リッチ)」なんかであるものか。



人間が「この世界の現実を解釈する」という問題をすでに解決していると思っているものは、「未来の幸せ」や「よりよく充実して生きる」ことを目指すことができる。
わからないことは本を読んでコピペしてくればよい。「すでに解決している」という前提で生きているのなら、それですむ。
しかしそれでも人は、「何・なぜ?」と問うて「いまここ」に立ち止まってしまう。人間の脳のはたらきはそれほど「ふくよか」ではない。コピペするだけではすまなくて、どうしても自分で考えてしまう。それが、科学であり学問であり芸術であり、人と人の関係であり、自然としての人間の命のはたらきであり、われわれ人間存在の普遍的な生きてあるかたちではないだろうか。
人間なんか、猿よりもへまなミスをする。そして、猿よりもずっと五感が劣っている。
猿の生き方はちゃんと決まっていて、ほとんどそこを踏み外さない。
しかし人間は、かんたんに踏み外してしまう。「人間の生き方」というかたちなんかあってないようなものだ。それほどに人間にとっての生は、しんどくてあやふやなのだ。
人間は、この世界の現実をうまく解釈できない。そういう生きられない生を生きている。人間にとってこの世界は、謎と不思議に満ちている。秋になって木の葉が枝から落ちること自体が、謎と不思議なのだ。しかしそこから、人間的な命のはたらきのダイナミズムが生まれてくる。
この世界の現実をたしかなものとしてとらえている、という自覚を持っていれば生きるのに都合がいい。
猿だって、猿なりにこの世界の現実を疑いようのないものという前提で生きている。だから猿は、木の葉が枝から落ちることを不思議とも謎とも思わない。
猿がなぜこの世界の現実を疑わないでその生き方を確立しているかというと、猿の社会のシステムが確立されているからだろう。
人間だって、この社会のシステム(制度)を信じ踊らされて生きてくれば、自分が生きてあることもこの世界の現実もたしかなものだという前提の観念になってゆく。



団塊世代の多くは、この社会のシステムが世界だ、という観念が強い。この社会のシステムがわかれば世界の現実がわかったことになる、と思っている。だから、この社会のシステムを変えようとして全共闘運動に走った。この社会のシステムに飼い馴らされ踊らされて生きてきた子供たちなのだ。
まあいまだって、そんな人種が多い。団塊世代以降の多くの日本人がそういう観念の思考になっていった。いや、戦後の日本人がそういう観念の思考になっていった、ということだろうか。
この社会のシステムに対する信憑が、人間はこの世界の現実をたしかにとらえているという前提の観念思考になる。
団塊世代は、幼児体験として、幸か不幸か、この社会のシステムに心が囲い込まれてしまった。さらには母子関係・家族関係に囲い込まれてしまった、ということもある。なにしろ、この国が戦争に負けて「家族」や「子供」という存在が歴史上もっとも価値を持った時代に生まれてきた子供たちなのだ。母子関係・家族関係に囲い込まれることは、そのまま社会のシステムに囲い込まれることでもあった。
団塊世代は、この世界に対する信憑を強く持っていて、信憑できる世界しか世界として認めない。それほどに社会のシステムに囲い込まれ踊らされて生きてきた。そうして彼らは、「この世界の現実を解釈する」という人間にとってのもっとも差し迫った問題ははすでに解決しているつもりになって、「未来の幸せ」や「よりよく充実して生きる」ことに邁進していった。
いや、日本人全体がそのようにして高度経済長を実現していったのかもしれない。



心がこの社会のシステムに取り込まれているから、「未来の幸せ」や「よりよく充実した生」を欲しがるだけのこと。それはべつに、人間の普遍的な心の動きでもなんでもない。人間は、もうそんなことはどうでもいい、それどころではない、という気分で二本の足で立ち上がり、猿から分かたれていったのだ。
木の葉が枝から落ちるというこの世界の現実におどろきときめいている人は、社会のシステムどころではない。おそらく原始人はそういう人種だった。
「未来の幸せ」や「よりよく充実して生きる」なんて、猿の生き方なのだ。人間は、「それどころではない」と途方に暮れて生きている。
人間は「未来の幸せ」や「よりよく充実して生きる」ことを求めて二本の足で立ち上がったのではないし、そうやって地球の隅々まで拡散していったのでもないし、「言葉」や「埋葬」や「祭り」といった生態が生まれてきたのではないし、そうやってより深く豊かに考え感じる存在になってきたのでもない。
そういうことと決別し、「それどころじゃない」と焦りながら人間になっていったのだ。
なのに、共同体の発生とともに猿の時代に先祖がえりして、「未来の幸せ」や「よりよく充実して生きる」ことを求めるようになってきた。
それは、猿と同じように、自分たちの「群れ=共同体」を絶対的に確かなものとする意識になっていったからであり、「群れ=共同体」の確かさがこの世界の現実の確かさでもあるような意識になってきたからだ。
そうやって人は、「この世界の現実を解釈する」という問題をすでに解決しているつもりになっていった。
そうしてそこから、その問題をすでに解決していることの根拠としての「神(ゴッド)」や「霊魂」という概念が生まれてきた。
人間にとってこの世界を支配する「神(ゴッド)」やこの身体を支配する「霊魂」は、この世界やこの身体が確かに存在することの根拠になっている。
われわれ現代人は、「神(ゴッド)」や「霊魂」という言葉を意識しなくても、すでに「神(ゴッド)」や「霊魂」という概念にもたれてものを思ったり考えたりしている。それは、この世界やこの身体の存在を確かにとらえているという意識だ。「確かにとらえることができるかどうか」という問題をすでに解決している、という意識だ。
人生相談は、制度的な霊魂の対話だ。霊魂の対話は、制度的だ。
彼らにとっては確かにとらえられる世界だけが世界で、確かにとらえられない世界は世界とは認めない。
「未来の幸せのために」とか「よりよく充実して生きるために」といっても、この世にはそれどころじゃない人がたくさんいる。
よりよく生きるために、などといわれても、われわれはその前の「生きるとは何か?」という問題につまずいている。
つまずいたらいけないのか?
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