答えのない問い・「漂泊論B」28



三つ子のたましい百まで、というが、たしかに人の考え方や行動様式はそうかんたんには変わらない。
それは、そういうことが「過去の記憶(データ)」の上につくられているからだろう。
過去はもう変更できないのと同じくらいその人の性根も変わらない。
過去を捏造している場合もあるが、その捏造された過去によってすらもその人の精神構造がつくられてしまう。
たとえば、子供のときに父親に強姦されたという記憶を勝手につくってしまって、その記憶(トラウマ)に悩み続ける人もいる。父親は穏やかな普通の人だった。むしろ娘をとてもかわいがった。しかしその「かわいがった」ということが娘の傷になっていることもある。そうやって心が父親に囲い込まれて外の世界に旅立ってゆく機会を奪われた、という傷(ルサンチマン)が、父親に強姦されたという記憶を捏造し、対人恐怖というようなかたちで精神を病むという場合もある。
それほどに意識は、「過去のデータ」にたよってこの生やこの世界を解釈している。
人の五感は極めてあいまいで、「過去のデータ」に補完されて成り立っている。
りんごがちゃんとりんごとして見えることだって、たんなる目の網膜だけの機能ではない。そのように見えるように意識が補っている。
矢印の意味がなぜわかるかといえば、遠くのものは小さく見えるという「記憶のデータ」があるからである。たとえばまっすぐの道は遠くになればなるほど狭くなっていってやがて消えてしまう、そういう記憶のデータの上に矢印の意味が成り立っている。
人間の五感は、「過去のデータ」によって補完されている。だから心の動きも当然そうなってゆくに決まっているのだが、それにとらわれ過ぎると、精神を病んでしまったり思考が固定化されたりするということにもなる。
過去のデータを駆使すればするほど、この世界の現実は確かなものとして立ち現れる。
しかし「確かなもの」であればいいのか。「確かなもの」になってしまっているから、精神を病んだり柔軟性のない思考になったりする。
生まれたばかりの子供のような心でこの世界を見れば「確かなもの」など何ひとつなく、謎と不思議に満ちたものになる。
感動とは、「過去のデータ」を失ってしまう体験である。
人間が他者や世界にときめきながら生きている存在だとすれば、それは、「忘れる」という機能も持っているからだ。観念の問題としては、むやみに「過去のデータ」を引っ張り出してこの世界や他者を確かなものとして見てしまう習性になっているのではない。
人間にとってこの世界は不確かなものだから、人間は感動するのだ。
この世界や他者の存在が確かなものとして見えるということは、病的なことなのだ。



人生相談をする人は、この世界や他者のことに関してすべて解答を用意している。彼らはもはや、世界や他者に驚きときめくことがない。それは分裂病者と同じなのだ。対人恐怖とは、それほどに他者の存在が確かなものとして現れ迫ってくることだろう。
人生相談をする人も分裂病者も、「過去のデータ」にとらわれて世界も他者もすでにわかっている確かなものとして決めつけ過ぎている。
人生相談を自信満々でできるなんて、世界も他者もなめているのだ。
人を舐めていることと人を怖がることは同じなのだ。
人間にとってこの世界も他者も、そしてこの生も、それほどわかりやすい対象ではない。
べつに頭がいいから「解答」を持っているのではない、この世界も他者もこの生もなめているのだ。
すべての人生相談が、というつもりもないが、頭悪くて傲慢だからそんなことを自信満々にできるということは多い。
僕は、人生相談が得意な内田樹上野千鶴子や多くの宗教者なんて、頭悪くて感受性も鈍い人間だから、そうやって自信満々に人やこの生やこの世界をなめたようなことがいえるのだろうと思っている。
ひとまず本人の人生体験だろうと読書体験だろうと、「過去のデータ」を濫用する癖が骨の髄までしみついてしまっているのだ。
意識は、「過去のデータ」で補完しながら五感をつくり、この世界の現実を解釈している。それは、この世界の現実を「確認」しているのではなく、「類推」しているだけである。
人間の本性として、「解答=確信」を持つという心の動きはない。
「確信」を持って「解答」を差し出す、ということがどれほど不自然なことかということを、彼らはわかっていない。
そういうことは、「それどころじゃない」と四苦八苦して生きているわれわれの方がずっとよく知っている。



人間の脳は、「記憶する」と同時に「忘れる」ということもする。
記憶するからこそ、忘れるということも起きる。記憶しなかったら、忘れるもくそもない。
なぜ「忘れる」ということが起きるのか。
忘れなければ生きられない。
意識は、身体を苦痛として自覚する。痛いとか苦しいとか暑い寒いとか空腹だとか、そういう苦痛ともにわれわれは身体を自覚させられている。
したがって意識は、本能的に身体を忘れようとする。
身体の苦痛が消えれば、意識は身体のことを忘れている。そうやって身体を忘れてゆくときに、われわれは生きた心地というカタルシスを覚える。
忘れることがカタルシス=快楽なのだ。
われわれの脳のはたらきには、忘れる機能がそなわっている。
意識は、身体のことを忘れているとき、身体の外の世界に向いている。身体の外の世界に向いているからこそ、身体のことを忘れていられる。
意識がはたらいているかぎり、意識はつねに何かに向いている。だから、身体のことを忘れようとする意識は、つねに世界に向こうとしている。
そして意識が身体に向いているとき、世界のことを忘れている。
両方を同時に意識することはできない。
意識は、点いたり消えたりするはたらきである。
身体の苦痛を感じながらまわりの景色も見えている、といっても、それはたぶん、ものすごい速さで身体に向いたり世界に向いたりということを繰り返しているのだ。そうしてたとえばまわりの景色に対する意識が消えているときでも、意識の残像が残っているから、映画のフィルムのようにつながった意識に感じられている。
われわれの五感は、とても曖昧である。だから意識が追いかけて、けんめいに「過去のデータ」で補完しようとする。視覚としてはまわりの景色が消えているときでも、意識が一瞬前の「過去のデータ」という「残像」で補完して見えているようにしてしまう。
残像という現象が起きるということは、意識が点いたり消えたりしていることの証拠である。
まあそのようにして、脳のはたらきにおいて、つねに「忘れる」という現象が起きている。
忘れるからこそ、記憶としてよみがえるということが起きる。
「忘れる」という機能を持っているから意識は、ときに生まれたばかりの子供のような心で世界や他者と向き合っておどろきときめくという感動体験をすることができる。
しかし、つねに記憶のデータを駆使して世界を解釈しようとする癖がついていれば、そういう感動体験はなくなる。
人の心は、「過去のデータ」を駆使して世界に追いつき解釈しようとするが、その過去のデータを放棄して忘れてしまうという体験もする。
「それどころじゃない」と忘れてしまう。そういう体験をするのが、プリミティブな人間のかたちのはずである。
身体的な五感のレベルにおいてはけんめいに「過去のデータ」を駆使しようとする。しかし観念的な心の動きにおいては、「それどこじゃない」という体験をしてしまう。それは、人間にとって「忘れる」ことがひとつのカタルシスだからだ。「忘れる」ことが人間を生かしている。
先入観なしに人と向き合うとか、むやみに自分の物差しで人を見透かしたり裁いたりしないということも、人間としてのたしなみというか、その人の品性の問題でもある。
この社会の制度性は、「この世界この生の問題はすでに解き明かされている」という前提の上に成り立っている。
そういう前提に立てるなんて、共同体の制度性に飼い馴らされた人間のすれっからしの視線である。
少なくとも原始人は「それどころじゃない」と忘れてしまう心の動きをもっと豊かに持っていた。人間が感動する生き物であるのなら、それが人間の普遍性なのではないだろうか。



世界のことが解き明かされてしまえば、その時点で世界に対する関心を失う。そうして意識は、身体に向いてしまう。
もともと意識は身体から離れたがっているのであり、意識が身体に張り付いてしまうことは、ひとつの「けがれ」である。
世界は解き明かされていないことにおいて、世界として人の関心の対象であり得る。
社会の制度性が整備されて順調に機能してくると、人々の意識が外の世界に対する関心を失ってきて、身体に向いてくる。そうやって、社会に「けがれ」が充満してきて、社会の解体の危機が訪れる。
原初の人類の社会集団は、けっして安定していなかった。離合集散がかんたんに起きていた。そこに、猿の群れとの決定的な性格の違いがあった。猿の群れの方が、はるかに恒常的な安定があった。
人類は直立二足歩行をはじめたことによって集団の恒常的な安定を獲得したのではない。失ったのだ。人類の集団が猿の時代に先祖がえりして恒常的な安定を持つようになってきたのは、氷河期明けの共同体(国家)の発生以降のことである。そうして、集団の恒常的な安定のために戦争をするようになっていった。
四足歩行の猿であった原初の人類が二本の足で立ち上がることは、視覚的に世界の存在の確かさを失うことだった。ただ視野が広がってアドバンテージになったというようなことではない。それがアドバンテージになるなら、ほかの猿だってしている。そのときから人類は、世界の不確かさを生きる存在になった。
つまり、群れが「恒常的な安定(=世界の確かさ)」を持ってくると解体してしまうのが原始人の集団の性格だった。
人間は、世界の不確かさの中で、その謎と不思議に驚きときめきながら生きている。
不確かだからこそ意識はつねに世界に向いており、身体のことを忘れていられる。
原初の人類が二本の足で立って歩くことは身体=足のことを忘れてゆく行為だったのであり、だからその不安定で居心地の悪い姿勢を常態化することができた。
そうやって彼らは、身体のことを忘れて、意識を世界に向けていった。そしてそれは、世界の存在を確かにとらえていったのではない。世界はさらに不確かなものになり、その謎と不思議に驚きときめいていったのだ。
その謎と不思議に驚きときめきながら二本の足で歩いていったのだ。
世界が不確かで謎と不思議に満ちたものでなければ、身体のことを忘れて歩き続けることはできなかった。
直立二足歩行は、とても不安定でとても足に負担がかかる歩き方なのである。それでもそれを常態化していったのは、身体=足のことを忘れて歩くことのできる姿勢を獲得していったからだ。それが、直立すなわち「まっすぐに立つ」ということである。猿は、立ち上がることはできても、「まっすぐに立つ」ということはできない。
人類の直立二足歩行はとても疲れる歩き方であるが、疲れてもなお身体=足のことを忘れて歩き続けられる姿勢である。
身体のことを忘れて意識が世界に向いていること、これが、人間が生きてあることの基本的なかたちである。
そして意識が世界に向いているためには、世界は不確かで謎と不思議に満ちたものであった方がよい。
だから、原初の人類の集団は、不確かでかんたんに解体してしまうものであった。そうしてすぐまたときめき合いながら新しい集団が生まれていった。そのようにして、やがて地球の隅々まで拡散してゆくことになった。
人間は、身体のことを忘れて意識が世界に向いていないと生きられない。だから集団もまた、集団という身体のことを忘れて外の世界に意識が向いている。そうやって地球の隅々まで拡散していったのであり、集団は疲れ果てた旅人を歓迎して受け入れていった。
人間は、この生やこの世界の謎と不思議を前にしておどろきふるえている。



現代社会では、この生やこの世界の謎と不思議をすでに解決しているつもりになって人生相談をしている人たちがいる。
解決しているつもりになっているから、「どのように生きるか」という問題が生まれてくる。そして彼らにとっては、解決してあることが前提だから、その問題も解決しているつもりでいる。
まあ、「どのように生きるか?」という問題の方が解決しやすいのだろう。人間がそのような問題で生きてあるのなら、生きてあることなんかかんたんなことだ。そのような問題に引きずり込むことが人生相談をするものの戦略であるのかもしれない。
「この生とは何か?」という問題の前に立たされたら、人は途方に暮れてしまうしかない。そういう人を「どのように生きるか?」という問題に引きずり込んでやるのが人生相談というものだろうか。
そして「神(ゴッド)」とか「霊魂」という概念に依拠しているものは、「この生とは何か?」という問題を解決しているつもりになっている。解決している存在を「神(ゴッド)」といい、「霊魂」という。だから宗教者はそういう問題を解決しているつもりになれるのであり、宗教者でなくともそういう問題を解決しているつもりのものが人生相談をする。
彼らはいう、「この生とは何か?」という問題など存在しない、「どのように生きるか?」という問題があるだけだ、と。
いまどきは、禅の坊主だってそのように説法している。
それはここでの「それどころじゃない」という思考とは、逆向きの思考である。まあこれが、世間の合意なんだろうね。
そんなものだろうか。人間にとってこの生は、「どのように生きるか?」と問う対象ではなく、「この生とは何か?」と問う対象ではないだろうか。
人間とは「この生とは何か?」ということを解決できない問題として問い続けている存在なのではないだろうか。少なくとも原始人は、そのように問いながら地球の隅々まで拡散していった。彼らがそんな問題を持たないか解決するかしていれば、そんなことは起きなかった。解決できないで「それどころじゃない」と焦りながら、住みにくいところ住みにくいところへと拡散していったのだ。
住みにくいところに住んでいれば「どのように生きるか?」どころではなく、つねに「この生とは何か?」という問題と向き合わされる。そのようにしてネアンデルタールは「埋葬」という葬送儀礼をはじめた。
どうやら人間は、根源的には「この生とは何か?」と問う存在であるらしい。それが「人間の自然」であるらしい。



人間は、「この生とは何か?」という問題を解決していない存在である。猿は、そんなことは問わない、というかたちですでに解決している。
人間は、りんごをりんごとして見ることすら満足にできない存在なのだ。言い換えれば、りんごをりんごとして見ること自体が、「この生とは何か?」と問ういとなみである。問わないと、りんごをりんごとして見ることができない。「この生とは何か?」と問いながら「過去のデータ」を取り出してきて、やっと「りんご」という「視覚画像」を結ぶことができる。
人間の生きるいとなみは、「この生とは何か?」と問ういとなみである。人間は、「この生とは何か?」というといを失ったら、生きていられなくなり、さっさと死んでゆこうと思ってしまう存在である。
それでも人間は、「この生とは何か?」と問うてしまう。
答えなんかない。それでも問うてしまう。答えのない問題を問うことが生きるいとなみだ。
人間は「過去のデータ」で補完しながら五感を成り立たせている存在であり、「過去のデータ」が人間を生かしているのであって、未来に向かう「どのように生きるか」というテーマを持っているのではない。
したがって、「死にたい」と願っても、「死ねない」と絶望するほかない存在である。
人間は、根源において未来に向かう衝動を持っていない。だから、「死ねない」と絶望するほかない。
意識は、「過去のデータ」をもとに「いまここ」の「この生とは何か?」と問うてゆくかたちではたらいている。これが、われわれの生きてあることの与件である。だから、「死ねない」と絶望するしかない。
「死にたい」と願うことは人間の自然であるが、自殺できるのは自然ではない。
意識はあくまで「いまここ」の「この生とは何か?」と問うてゆくかたちではたらいている。だから、死にたいのなら、「いまここ」で消えてゆくしかない。
そして「この生とは何か?」という問いに、答えはない。なぜなら、われわれの五感のはたらきという「世界認識」は、「答え」によってではなく、「問う」という行為によってもたらされているからだ。
「過去のデータ」は、もちろん「いまここの世界の現実」ではない。
われわれは「いまここの世界の現実」を「過去のデータ」をもとに「類推」しているだけで、「確認」しているわけではない。したがって「答え」は永遠に得られない。
われわれは、永遠にこの世界の現実がどのようになっているかを確かめることができない。
ひたすら問い続け、「いまここ」に追いつこうとしているのが生きるいとなみなのだ。永遠に追いつけないというのに。
「答え」は、あなたがどのように生きるかということにあるのではない。
どのように生きてもいい、あなたが生きることそれ自体が「答え」なのだ。
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