祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」22

「もの」と「こと」は、二項対立として生まれてきたことばではない。
人間の意識におけるデジタルな二項対立の根源のひとつとして、「自己」と「他者」、という意識がある。
それは、「異質な他者=異民族」との出会いから生まれてきた。
しかし日本列島にはそうした出会いがなかったから、「自己」という意識も「他者」という意識も希薄である。
「端(はし)」と「橋(はし)」と「箸(はし)」と「嘴(はし)」、やまとことばは、アナログな連続性の上に成り立っている。これらのことばは、その語原において「危うさ」の感慨を共有している。
だから現代人でも、「危なっかしい」ほどに目端が利くことを「はしっこい」といったりする。
古代の日本列島では、「共有」という感慨の、アナログな連続性が大切にされていた。
ことばという文化は、デジタルな二項対立の意識から生まれてきたのか、それともアナログな連続性から生まれてきたのか。
大陸のことばは、デジタルな二項対立の上に成り立っている。それによって「意味」が鮮明になり、「伝達する」という自己と他者の関係を際立たせる。
しかしことばは、そういう関係から生まれてきたのではない。やまとことばが原初的なことばであるゆえんは、アナログな連続性の上に成り立っているからだ。
原初のことばは、「共有」というアナログな連続性から生まれてきた。つまり原始人の群れはそうした「共有」の意識によって維持されていた、ということだ。
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「意味」は、伝えるまでもなく、はじめから共有されていた。したがって、その発せられた音声としてのことばによって、「意味」を共有したのではない。その「意味」に対する「感慨」を共有していったのだ。
つまり、そのことば=音声によって「意味」を理解したのではなく、そのことば=音声そのものにときめいた(憑依した)のだ。ことばとは根源的にそういう機能のものだから、われわれは、他者のなにげないひとことにも、そのことばが心にまとわりついて深く傷ついてしまったりするのだ。
ことばは、人の心に「感慨」を起こさせる力を持っている。それを古代人は、「ことだま」といった。彼らは、そういう「ことだま」ということばの力を信じあい、語りあっていた。意味を伝え合っていたのではない。だから、「端(はし)」も「橋(はし)」も「箸(はし)」も一緒で、「はしっこい」ともいったのだ。
彼らにとって「はし」という音声を発することは、「意味」を伝えることではなかった。ただもう、そのときその場において、「はし」という音声が共有される気配を感じたから、そのままたがいの身体のあいだの空間(すきま)に吐き出したまでだ。
原初、ことばという音声は、たがいの身体のあいだの空間(すきま)で共有されていった。
それは、「共有する」というアナログな連続性の体験に向けて、吐き出された。
赤ん坊と話すときは、自然に赤ん坊ことばが口を突いて出てしまうだろう。まあ、そんなようなことだ。そのとき人は、赤ん坊と何かを「共有」しようとしているのであって、「意味」を伝えようとしているのではない。「意味」なんか伝わらないことをを承知で、けんめいに何かを「共有」しようとしている。
何かを「共有している」という体験によってわれわれは、この限度を超えて密集した群れ社会を維持し、人と人の関係を成り立たせている。
ことばは、他者に「意味を伝える」とか「説得する」という目的で生まれてきたのではない。原始人に、そんな「目的」などなかったのだ。言い換えれば、根源的には、そのような機能が人間集団を成り立たせているのではない。「共有する」というアナログな連続性の上に人間集団が成り立っているのだ。
小津安二郎の映画のあまりにも有名なこの会話のシーン。
「いい天気だなあ」
「ほんと、いいお天気」
このとき彼らは、「いい天気」そのものに対する感慨と、「いい天気」ということばを「共有」している。こういう機能を持ってことばは生まれてきたのであって、「伝達する」ためなんかではない。
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「伝達する」ことは、「二項対立」のはたらきである。「これは猫ではなく犬である」というように、猫と犬を別々のものにしているから、猫は猫になり、犬は犬という名前が付けられる。そのようにしてことばが生まれてきたのか。
そうではないだろう。猫と犬の違いなんかすでにみんなが認識していたから、猫ということばが生まれ犬ということばが生まれしてきただけだろう。そういうことばによってはじめて猫と犬の違いが認識された、というわけではない。
「二項対立」からことばが生まれてきたなんて、論理的にありえないのだ。
人間の文化の根源は、「共有する」ことにある。ことばは、そういうところから生まれてきたのだ。
人と人の関係が「共有する」というかたちになることによって、群れが維持されてきた。
だから群れの中に置かれた人間は、アナログな連続性を見つけてゆこうとする衝動を持っている。他者と何かを共有してゆこうとする衝動、そこから、ことばが生まれてきた。
ある音声を発したとき、他者とのあいだの空間(すきま)にこぼれ出たその音声に対する感触を他者と共有していることに気づきときめいた。それが、その音声が「ことば」という機能を持った瞬間である。
「共有する」ことのときめき、それが、人間の群れを成り立たせている。
猫と犬の違いを伝達したくてことばが生まれてきたのではない。「はし」という音声に対する感触を共有していることに気づいてゆく心の動きから、ことばが生まれてきたのだ。
古代の日本列島の住民は、「はし」という音声に対する感触を共有していた。そして「はし」の「意味」は、「二項対立」の上に成り立っていたのではない。それ自体に、アナログな連続性を持っていた。「中心」に対する「端(はし)」、というのなら、「橋(はし)」ということばも「箸(はし)」という言葉も成り立たない。
その「はし」は、「中心に対する端(はし)」として生まれてきたことばではなかった。起源においては、「危なっかしい」の「はし」だったのだ。
「危なっかしい」という感慨が湧いてきたとき、「はし」という「ことば=音声」がこぼれ出る。その体験を共有してゆくことが、起源としてのことばの機能だった。
限度を超えて密集した群れをいとなんでいる人間は、「共有する」生きものである。
「共有する」生きものであるということは、人間のことばや文化は「アナログな連続性」として生まれてきた、ということだ。
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「もの」ではないから「こと」で、「こと」ではないから「もの」、というわけではない。
「もの」は「もの」であり、「こと」は「こと」として、それぞれ独立した姿を持っている。
しかもこれらのことばの、なんとあいまいなことか。「意味」なんかあってないようなものである。ないようで、しかしちゃんとある。
われわれがこれらのことばを当たり前のように使い分けることができているのは、これらのことばの「意味」をちゃんと把握しているからではなく、これらのことばの奥に潜むある感慨を共有しているからである。
それが、「けがれ」の自覚であり、そんな自分などさっぱり忘れて世界や他者にときめいてゆく体験である。そういう自覚や体験をみんなして心の奥のどこかで共有しているから、「もの」と「こと」というなんともあいまいなことばがこの社会で当然のように、なんだかそれがないと困るかのようなかたちで流通しているのだ。
おそらく、自我意識を大切にしている民族にはなじまないことばだ。
「けがれ」の自覚がどこかにあるから、自然に「もの」ということばが口を突いて出てくる。
自分などさっぱり忘れて他愛なく世界や他者にときめいてしまうところのある民族だから、「こと」ということばがこの社会に定着している。
そういう歴史的な無意識とともにこれらのことばが、現代まで引き継がれてきた。
「もの」と「こと」の、微妙な境界線は、これらが「二項対立」的に使われているのではなく、どこかしらにアナログな連続性を持っていることを意味する。
「もの」と「こと」は、あってもなくてもどちらでもいいような言葉である。しかし、それがないと、やまとことばの会話は成り立たなかった。われわれは、それによって、生きてあることのある根源的な感慨をどこかしらで共有している。
この国では、「共有する」というアナログな連続性で群れが成り立っている。原初の人類がみんなして二本の足で立ち上がっていったように、たとえば太平洋戦争は誰が決断し扇動していったかということなどわからない。「共有する」民族だから、なんとなくみんなしてそんな気分になっていた、としかいいようがない。
まあ、こんな例をあれこれ持ち出して突付いてゆくときりがないのだが、これは、この民族の「共有性」の問題であって、「辺境性」ということではない。
われわれは、他人と自分を比べながら自分を確認してゆくというのではなく、しらずしらず他人と何かを共有しながらいつのまにか自分を忘れてしまううかつなところがある民族なのだ。
そういうあいまいな部分を、「もの」と「こと」ということばで埋めながらひとつの文節にしてゆくのが、やまとことば(日本語)を扱う作法であるらしい。