閑話休題・日本列島は「辺境」か?

どうせ不愉快になるだけだから読むまいと思っていたのだが、とうとう内田樹先生の「日本辺境論」を読んでしまった。
日本列島は辺境である……といわれれば、ひとまず誰もがうなずくほかない。しかしこの「辺境」という言葉の意味をどう解釈するか。
内田先生はこういう。「<辺境>の対概念は<中華>」であり、日本人はつねに中国大陸に対するコンプレックスと憧れを抱きながら歴史を歩んできた、と。
そうだろうか。
たとえば、日本列島の「地方」は、東京から見れば「辺境」である。だから、「地方=辺境」の人は、東京に対するコンプレックスと憧れがある。それは、物理的に東京に行こうと思えばいつでも行けるし、行って住むことも不可能ではないから、どうしても東京を意識してしまう。誰もが修学旅行などで一度は東京に行ったことがある。もしくは行ったことがある人が、まわりにいくらでもいる。そして東京からの情報がテレビなどで毎日入ってくる。
しかし、古代には、その「地方=辺境」から一歩も外に出ることなく生涯を過ごす人がいくらでもいた。その人たちは「都」のことなんかほとんど知らないまま、「ここが世界のすべてだ」と自足して暮らしていた。たとえ人づてに聞いて知っていても、その一方で「ここが世界のすべてだ」という実感を深いところで抱いていたから、とくに都に行きたいとも思わなかったし、行けなくともかまわない、と思って暮らしていた。
同じように、古代の日本列島の住民の中で、中国大陸に対するコンプレックスや憧れを抱いて生きていた人が、どれほどいるだろうか。
もう、圧倒的多数の人がそんな意識などなかったに違いない。都に対する憧れどころの話ではない。
そんな意識を抱いていたのは、ほんの一部の、権力者や僧侶などの知識人だけだった。
日本列島の住民は、少なくとも江戸時代までは、圧倒的多数の人が中国大陸など意識しないで生きていた。だから、「鎖国」という太平楽をむさぼることができたのだ。
彼らにとってこの世界は、日本列島だけで完結していた。たとえ知識として海の向こうに中国大陸があることを知っていても、無意識のところでは、「ここが世界のすべてだ」と実感して暮らしていた。自分たちの国が中国大陸より劣っているとかいないとか、そんなことはまるで頭になかった。
そんなことを考えて、この国のアイデンティティがどうのこうのとあれこれ自意識過剰になっていたのは、上のほうのほんの一部の人間だけだった。
仏教伝来から明治維新まで、圧倒的多数の庶民は、そんなことはなーんも考えていなかった。
この国が「辺境」であるゆえんは、内田先生がいうように、いつも中国大陸を意識してコンプレックスと憧れを抱きながら歴史を歩んできたことにあるのではない。そんな自意識は、一部の支配者や知識人にしかなかったのだ。
もしも日本列島が「辺境」であるのなら、大陸のことなど意識しないで「ここが世界のすべてだ」という前提で生きてきたことにある。
日本列島は、内田先生のいうような意味で「辺境」であるのではない。そんな辺境意識などないことにおいて「辺境」であったのだ。
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日本列島の住民の多くが、日本列島の外の世界を意識しはじめたのは、明治以降のことである。
そしてその傾向が実質的に隅々まで定着していったのは、太平洋戦争の敗戦が契機になっている。
それ以来われわれはもう、内田先生のいうように、つねにきょろきょろよそ見して外国のことばかり気にしている国民になってしまった。
われわれは、敗戦の落とし子である。
とくに僕や内田先生のような団塊世代は、その反動の騒ぎの影響をもろにこうむって生まれ育ってきた。
だから内田先生がつねに他人や外国(異民族)ことばかり気にして自意識過剰な人間になってしまったのも、それははもうしょうがないことかもしれない。
ただ、だからといって、内田先生のその自意識過剰が日本人の歴史的な姿そのものだといわれたら困る。そんなふうに自分の自意識や自己愛を正当化するために日本人論をこじつけられたら、たまったものではない。
この「日本辺境論」が多くの現代人にうけて日本人論のスタンダードにされてしまったら、僕は大いに困るのだ。
困るし、そんなもの嘘っぱちじゃないかとしか思えないのだ。
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僕も内田先生と同じ団塊世代だから、先生と同じような自意識過剰がないとはいわない。
まあ、明治以降の日本列島の住民は、避けがたくよけいな「自意識」を抱え込まされてしまったのだ。そういうところから「私小説」という形式も生まれてきた。
欧米人は、先験的に自我をそなえているから、そこから公共性という大きな物語に向かう。しかし明治以降の日本人は、そこではじめて自我を持たされたから、自我とはなんだろうと追求しようとする態度が生まれてきた。
そうして、太平洋戦争の敗戦でとどめを刺された。
しかしそれは、決定的に西洋風な自意識過剰の人間になってしまうことを余儀なくされたと同時に、明治以来のそうした自我拡張の傾向を失って(奪われて)しまう体験でもあったのだ。
そのとき日本列島住民は、「一億総懺悔」して、それまでの自我の拡張を恥じた。
われわれは、海の水平線を眺めながら、その向こうに大陸を想像するだろうか。きわめてクリアーにそうしたよその世界に対する憧れを抱くことが出来る人もいれば、その水平線が世界の果てだ、と感じる人もいる。言い換えれば、観念的にはよその世界に対する憧れを抱くが、無意識のところでは、その向こうはもう何もないという絶望(断念)がはたらいている。
つまり、太平洋戦争の敗戦によって、われわれはこの二つの意識に引き裂かれた。
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僕は、子供のころから、「水平線」の向こうに対するイマジネーションの貧しいところがあった。水平線を眺めていると、「ここが世界のすべてだ」と思ってしまう。
小学校二年のときに両親と離れて別の町に住む祖母と一緒に暮らすことになったのだが、とくにさびしいという気持ちがなかった。当たり前のように新しい事態を受け入れ、両親と一緒に暮らしている友達をうらやましいとも思わなかった。
わりとまわりの大人たちにかわいがられたのは、それだけ不憫に思われていたからかもしれない。
しかしほんとに、不思議なくらいさびしいとも思わなかった。
それは、僕が特異な性格の子供だったからではない。ごく普通の平凡な子供だった。ただ、「水平線」の向こうに対するイマジネーションが貧困だっただけなのだ。
そのとき僕にとって、「今ここ」が世界のすべてだった。
僕もまた、そういうかたちで「敗戦の落とし子」だった。
僕の中では、遠い世界に対する憧れの観念と、遠い世界をイメージしない無意識が逆転していた。前者がむしろ無意識で、日常の表面的な気分は後者だった。
両親と一緒に暮らしていた小学校一年のころ、大人になったら何になりたいというような夢もあったが、祖母と暮らしはじめてそんな夢もすっかり忘れてしまった。友達が大人になったらという夢を語っても、「ふうん……」と上の空で聞いていた。
野球少年だったから野球選手になりたかったのだろうかと思い出そうとしても、どうもそんな思いもなかったような気がする。「大人になる」ということそれ自体がイメージできなかったのだ。「大人になる」=「水平線の向こう」、が。
そのころ内田先生はすでに大学教授になる夢を抱いていたそうだが、まったく天地の差である。
僕は、大人になったら、という夢を語り合ったことがない。高校生になっても、そんなことを自分から語ったという記憶がない。
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重ねていうが、僕はとくべつ変わった子供でもなんでもなかった。今にして思えば、太平洋戦争の敗戦が、そういうかたちで僕の中に影を落としていたのだろう。
それは、僕の中で自我をはぐくむことを阻み、日本列島の無意識の古層に引き戻す作用を果たしていたのかもしれない。
あの敗戦によって、多くの日本人が、自我の確立をスローガンにしつつ、そうした「古層」にも引き戻されていったのだ。
水平線を眺めていると、その向こうにはもう何もないという断念の心がわいてくる。そうやって、失恋したものたちは、海を眺めながら「断念」の心を引き寄せ、慰められている。
さーよなら、あなた、連絡船に乗るう〜……。
日本列島の失恋したものたちは、海を眺めに行く。それは、氷河期が明けて大陸から切り離されこの絶海の孤島に取り残された縄文人の心に遡行する体験なのだ。
日本列島の歴史は、そこからはじまっている。
そこは、辺境であって辺境ではなかった。ここが世界のすべてだった。
戦後の一時期の七十年代から八十年代にかけて大いに泣き節の演歌が流行ったのは、高度経済成長とともに外国と関係しながら自我が強くなってゆくことの、ある落ち着かなさがはたらいていたからかもしれない。なんのかのといっても、そのとき多くの日本人は、その繁栄と拡大に浸りきることはできなかったのである。浸りきるためには、演歌というアリバイ=免罪符が必要だった。
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「日本辺境論」の第一章のタイトルが「日本人は辺境人である」で、この章で結論はおおむね言い尽くされている。そしてそこで語られているモチーフが明治以降の歴史だというのが、なにやら内田先生の自意識を語って象徴的である。日本人が外国を意識し始めた時代なのだもの、そりゃあそのときの政治家や知識人は、おおいに外国を意識して発言していることだろう。
もちろんそこから日本列島的な心性を抽出してゆくことは可能だろう。しかしそれだけで結論を語るのは、いくらなんでも強引すぎる。日本列島の一万三千年の歴史の、たった百五十年のことじゃないか。そしてこのときを境にして、日本人が変質しはじめたということも考える必要がある。つまり、ここではじめて自我に目覚めていった、と。
その変質しはじめた日本人を集めて、日本列島の住民が大昔から外国を意識することばかりしていたと主張しておられる。先生、そんな我田引水は、フェアじゃない。
日本列島の住民の根源的な心性を語るなら、まず縄文時代から語り始めるのがすじだろう。
氷河期が明けて大陸から切り離された日本列島の一万三千年の歴史のうち、一万年以上は縄文時代なのである。日本列島の住民の心の動きの基礎的なかたちは、おおかたそこでつくられているに違いない。
そしてそのとき日本列島の住民は、外国など知らなかったのであり、あの水平線の向こうには何もないと思い定めて生きていたのだ。
この国の老人たちの盆栽趣味は、その小さな空間に「ここが世界のすべてだ」という感慨を仮託してゆくいとなみである。中世の茶室の二畳台目や隠遁者の方丈の庵だって、「ここが世界のすべてだ」といういわば「断念」の思想の上に成り立っている。
日本列島の住民が持っている「水平線の向こうは何もない」という断念、そこから「もののあはれ」や「はかなし」という感慨も生まれてきた。しかしこのような心の動きは内田先生には意識されていないらしく、それじゃあ先生、日本列島的な美意識と出会うことはできない。
近ごろのギャルの「かわいい」というときめきだって、盆栽じじいと共有している「ここが世界のすべてだ」という「断念」の感慨なんだぜ。
日本列島の住民は、歴史的には、他国と比較して自国を語るのではなく、他国と比較することを断念しているのであり、それは、基本的には「他国」という意識も「自国」という意識もないということだ。そういう「対概念」など、この国にはない。「ここが世界のすべて」なのだ。
先生、このパラダイムで、「日本辺境論」の主張のほとんどを書き換えることができますよ。お望みなら、こんな安っぽい日本人論などくだらないというところを無限に並べて差し上げましょうか。
日本列島の住民が共有している無意識は、どのようなかたちになっているのか。「日本辺境論」はそこに届いていない。というか、それをゆがんだかたちで提出している。日本列島は、中華の属国であり辺境である歴史を歩んできた、だなんて、考えることが安直すぎるよ。
内田先生のお友達である養老孟司先生は、これこそが日本人論のスタンダードになりうる、と持ち上げておられるが、はたしてそれでいいのだろうか。