反「日本辺境論」・満鉄引揚者の思想

新幹線は、戦後の高度成長のひとつの象徴になっている。この新幹線を計画し、走らせることをリードしていったのが、満鉄(南満州鉄道)からの引揚者とその子弟たちだったらしい。
「引揚者」といっても、貧乏人ばかりではない。戦後の日本をリードしていったエリートもまた、この「引揚者」たちの中にいた。岸信介福田赳夫という総理大臣は大陸からの「引揚者」だったし、満鉄社員だった内田先生の父親が勤めていた東急電鉄三井物産の会社グループも、そういうエリート「引揚者」たちによって運営されていたのだとか。
大陸で活躍してきた彼らは、つねに世界との関係でこの日本を眺めていた。そういう思考をなかば本能的に持っている。そこが、絶海の孤島の意識を引きずっているわれわれ日本列島の「常民」とは違うところだ。戦後の日本は、そんなちょっと日本人離れしたものたちによってリードされてきた。
しかしそんな日本人離れした人間にかぎって、「日本人とは何か」という薀蓄をえらそうに押し付けてくる。
「日本辺境論」のように。
彼らは、日本人をさげすみつつ、自分たちこそ日本人だ、と主張する。彼らは優越感を生きてあることのよりどころにしているから、さげすむような調子で日本人を語ろうとする。
つまり彼らは、本土の日本人に対する優越感とともに大陸で活躍していた。
彼らから見れば、われわれ庶民は、日本人であることのやっかいな問題を抱えた存在で、彼らはそれを克服した存在である、という論理になる。われわれは日本人未満の日本人で、彼らこそあるべき真の日本人であるのだとか。「日本辺境論」の書きざまから受けるわれわれの不愉快さはそこにあり、人気の秘密もそこにこそある。なぜならわれわれ庶民もまた、庶民をさげすみ、庶民の立場から逸脱してありたいと願っているからだ。物理的には困難でも、精神的には愚かな庶民を超えた存在でありたい。それを実現するカタルシスを、「日本辺境論」が与えてくれる。
戦後の「民主主義」とか「市民」といった概念は、人々のそういう意識とともに定着してきた。そしてその意識をリードしてきたのが、大陸から引き上げてきたエリートたちだった。彼らは、大陸で、日本人として外国人と渡り合ってきたわけで、日本人であることのアイデンティティの意識は高い。だから、日本人論を語りたがる。
それに対してわれわれ庶民は、歴史的に異民族との関係を持ってこなかったから、日本人であるという自覚そのものが希薄である。だから、日本人論を語ってもらいたがる。
われわれ庶民は、太平洋戦争のみじめな敗戦によってようやくその自覚に目覚め、またその根拠のあいまいさ不安を覚えるようにもなっていった。
そのようにして戦後、大陸の空気を持ち帰った一部のエリートたちによって庶民の意識がリードされていった。
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ここでひとつ、下種の勘繰りであることは承知で、内田先生の生まれ育った環境について考えてみることにする。
先生が生まれ育ったところは、東京郊外の下丸子というところらしい。東急電鉄という私鉄の沿線で、そのころはまだ武蔵野の面影の残ったのどかな田舎だったらしい。
先生の父親は、南満州鉄道の社員で、終戦後、まあエリートの部類の引揚者として東急電鉄の社員になり、その地に住み着いた。
下丸子あたりは満鉄引揚者の居留地でもあり、居留民はおそらく、まわりの土着の住民に対する優越感とともに暮らしていたのだろう。彼らが満州にいたころ、われわれは中国人とは違う、という優越感を抱いていたように、彼らの多くは優越感が本能のようにしみ付いている。それが、満鉄気質なのだ。
戦前の満鉄は、日本のアジア進出の最前線の基地として、日本を背負って操業していたわけで、彼らにはそういうプライドがある。
そして日本に戻っても、終戦後のもっとも進歩的な人種として日本を背負っていった。
戦後の発展の基盤となった「核家族」「子供二人」「専業主婦」「サラリーマン」といったライフスタイルは、そのまま戦前の満鉄社員のそれであった。
彼らは、下丸子あたりの住民だけでなく、戦後の日本人そのものに優越感を抱いて生きていた。どんなにフランクな態度の人でも、その胸の奥には「われわれはおまえらとはちがう」という意識があったはずだ。
彼らは日本に戻っても日本を背負って生きていたし、それに対してみじめな敗戦に打ちひしがれていた本土の日本人は、なりふりかまわずアメリカ人やアメリカ文化に追随していった。彼らは、そんな日本人をさげすみつつ、指導教化する立場になっていった。
しかし太平洋戦争の敗戦は、日本列島の一万三千年の歴史で、はじめて外国(異民族)から蹂躙された体験だった。その体験の重みは、空襲や飢えや政治体制からの圧迫やらを身を持って体験した人たちが知っているのであって、満州の地で勝手に日本を背負って働いていた満鉄社員たちではない。彼らの心に、「敗戦の傷」は刻まれていない。だからこそ、誰もが打ちひしがれていた戦後の日本をリードする立場になってゆくことができた。
「日本辺境論」のように、日本を背負って生きていた人間によって日本人を語られても困る。日本人(常民)は、「日本」など背負っていない。われわれの意識の根源において、日本列島の歴史の水脈において、「日本」という国家のイメージなどない。
われわれが意識しているのは、あくまで「日本列島」であり、「六十余州」なのだ。
僕には「日本人」という意識は希薄だが、日本列島の住民だという意識はある。
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現在の内田先生にも、満鉄社員の、「日本を背負っている」という意識や「日本人に対する優越感」は大いにうかがえる。「日本辺境論は」は、まったくそのような調子の書きざまである。満鉄社員のそういう家庭の雰囲気の中で育ってきたのだろう。
まったく、満鉄社員も、とんだはた迷惑な御仁を育ててくれたものである。
内田先生のあの際限のない自慢たらしさは、人に対して優越感を持っていないと生きられない性分であることを容易に想像できる。彼が「日本人の辺境意識はかんたんに中華思想へと反転する、それらは一枚のコインの裏表に過ぎない」というとき、みずからの「優越感」なしでは生きられないその性分すらも「日本的な心性である」と合理化(正当化)している。
日本人は日本人をさげすむ……これはおそらく、戦後、エリート引揚者によって持ち込まれた大陸みやげである。彼らは、大陸の地から、そのような視線で本土の住民を眺めていた。そして戦後の本土の住民もまた、そのようなかたちでみずからの敗戦のみじめさを合理化し、高度経済成長へと邁進していった。
「日本人をさげすむ日本人」という視線は、日露戦争以降の大陸に進出していったものたちによって培われていた。彼らは、そうやって「中華(中心)」から「辺境(周縁)」を眺め、日本人でありながら日本人をさげすんでいた。
満州事変以降の軍部の暴走だって、大陸進出者のそうした意識が肥大化していった結果であったに違いない。そのとき満州を拠点にしていた軍部はもう、すべてが事後報告であり、本土の内閣の決定なんか待っていなかった。資金も、満鉄や朝鮮銀行と組んで、自分たちで調達していたらしい。
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内田先生は「日本は千五百年前からずっと中華の属国だった」と平気でいっておられる。それは、「政治的に」というより「精神的に」という意味らしいのだが、僕にはまるでぴんと来ない。どうしてこんな途方もない嘘を当たり前のようにいえるのだろう、と思っていたのだが、日本人をさげすんでいる満鉄引揚者の家庭では、ごく自然にそうした「華夷秩序」の世界観を納得してゆくことができたのだろう。
満鉄社員の意識は、本土の日本人やまわりの中国人に対する優越感の上に成り立っていた。その論理を裏返せば、本土の日本人は、「自分たちはなんとなく劣っている」という意識で生きているということになる。これが、「日本辺境論」の日本人分析である。
それは、内田先生の日本人に対する優越感から生まれてきた論理である。
エリートの満鉄引揚者だった内田先生の生まれ育った家庭では、自然にそのような日本人観が生まれてくる「空気」があったのだろう。そうして内田先生は、優越感をもっていないと生きられない人間に育っていった。
先生はそれを、「自己愛」という。人間は自己愛を失ったら生きられないんだってさ。これは、怖い理屈だ。そういって先生は、自己愛を持てない人間を追いつめている。そのような、人の生傷に塩をすり込むようなことをいっていいのですか、先生。
他人対する優越感という自己愛なんか、誰もが共有できるというわけにはいかない。そんなことは論理的にありえない。
社会の発展は、人々に優越感という自己愛をもたらす。優越感を持った人間が増えれば、持てない人間は、ますます追いつめられてゆく。戦後の経済発展はそのように推移してきたのであり、その行き着いた果てが、現在の「格差社会」である。戦後の社会が発展してきたということは、追いつめられて生きている人間をますます追いつめていった、ということでもあったのだ。
敗戦後の日本は、敗戦の傷を負っていない日本人らしくない日本人にリードされることによってめざましく発展し、その結果、毎年3万人も自殺者が出るという現在の行き詰まりにたどり着いた。
内田先生はこういう。日本列島の住民の「自分たちはなんとなく劣っている」という辺境人意識はそのまま生き延びることの狡知が生まれてくる根拠になっているのだから、この辺境人意識を自己愛にして生きてゆこう、と。つまり朝鮮人や中国人はこの「狡知」を持てないから日本や欧米列強に蹂躙されたのであり、この「狡知」を持っているわれわれは彼らよりすぐれているという「優越感=自己愛」を持つことができる、といいたいらしい。
「自己愛」を止揚するなら、けっきょくは「優越感」の論理になるしかないのだ。
この「狡知」こそ、世界中のすべての国にはないわれわれ独自のものであり、この「狡知」は、われわれの「自己愛=優越感」の根拠になりうる、と内田先生はいう。
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日本人の「自分たちはなんとなく劣っている」という辺境人意識は、外国に対して「知らないふりをする」という習性があり、それによって歴史を生き延びてきた、と内田先生はいう。そして日露戦争に勝利して以後の日本が欧米との友好関係を次々に破棄していったのは、「知らないふりをする」態度だったのだとか。
しかしそれは、生き延びるための戦略にはならなかった。内田先生によれば、「目先の利益にこだわって知らないふりをした」のだとか。つまり、辺境人の特質が裏目に出た例である、という。
どうでもいいけど、先生は、そうやって日本人を他人事のように見下している。それが、引揚者エリートの視線である。
戦後の日本で彼らに与えられた使命は、国民を教化することだった。打ちひしがれ途方に暮れていた国民がそれを望んだし、それこそが彼らの本能だった。
土地を開発し、住民を教化してゆく、それが大陸に進出していった彼らの仕事だったわけで、たとえば郊外に鉄道を引いてベッドタウンを開発してゆくことは、そのまま彼らが満州や朝鮮でやっていたことで、新幹線だって満州の鉄道事業の延長だった。
彼らはそれを、住民や国民に対する「愛」だという。そういうことを彼らは、植民地における優越感とともに教化してゆく事業として身につけていったらしい。そのアイデンティティは、いまや多くの国民が共有している。とくに、団塊世代から40歳前後までの戦後世代の際立った傾向であるともいえる。
しかしそれは、日本列島の歴史の水脈ではない。内田先生はそれを「辺境意識(コンプレックス)の裏返しだ」といわれるが、そうじゃない。そんなこじつけになんの説得力もない。世界中どこにでも見られるただ侵略者の意識であるが、そういう「からごころ」が、戦後、大陸から持ち込まれ、一挙に庶民のレベルまで浸透していった。
日本列島にはほんらい、そうした「優越感(中華思想)」が庶民のレベルまで浸透してゆく文化はない。この島の「けがれ」と「みそぎ」の文化は、優越感が起きてこない仕組みになっており、たとえば逆に「みんなで貧乏しよう」という農民意識を生みだしたくらいである。さらには「わび・さび」の美意識にせよ、平安文学の「あはれ」や「はかなし」の感慨にせよ、基本的には、「優越感」ではなく、わが身の「けがれ」を嘆いてゆく文化である。
明治以降、日本列島の住民は、大陸に進出してゆくことによって、徐々に意識が変わってきた。その象徴であった南満州鉄道は、戦後日本の繁栄をもたらしたが、同時にわれわれが、この国ほんらいの歴史の水脈である「やまとごころ」の文化を見失う契機にもなっている。
バブルの反省とともに、われわれは今、ようやくそのことに気づきはじめている。
この国の現在のむずかしさは、「やまとごころ」の歴史の水脈を見失っているのではなく、「優越感」の「からごころ=近代合理主義」の風潮と、この国ほんらいの歴史の水脈である「やまとごころ」の文化がよみがえりつつあることとのせめぎあいが、時代の空気になっていることにあるのではないだろうか。
内田先生が前者の旗頭とすれば、なんちゃってファッションに「かわいい」とときめき合っているコギャルたちこそ後者の旗頭として歴史の源流へと遡行していっている。
つまり彼女らの「なんちゃってファッション」は、縄文時代土偶の美意識と通底している。