反「日本辺境論」・ジャパン・クール

他人様のことばだが、「なによりも私を使い果たしたまへ」なんて、涙が出るほどチャーミングな表現だ。しかし、この国のバカなコギャルの「なんちゃってファッション」は、そうやって「私を使い果たし」ているところから生まれてくるのであり、それが、「ジャパン・クール」の美意識として、今、世界中に発信されている。
「私を使い果たし」たバカな「やらせ女」のギャルたちは、この先どうやって生きてゆくのだろう。自己愛にこだわって「優越感」をよりどころにして生きたがる人間ばかりがのさばるこの世の中にあって、彼女たちのこの先は、けっして生きやすいものではないだろう。
僕に生まれてはじめてセックスさせてくれた相手も、頭の弱い「やらせ女」だった。そしてけっきょく僕は、その女を紙くずのように捨てた。
遠いむかしのことだ。その女のことを思い出すと、僕の心は、一気に縄文時代まで遡行してゆく。
僕は、女の性欲というのを、あまり信じていない。なぜなら、女にとってセックスというのはとても悲劇的な、どちらかというと「苦行」に近いものだと思っているからだ。
それでも、男にセックスをさせてやる。一人の男だけを相手にしても、やっぱりそれは「苦行」にちがいない。貞淑な人妻だって、まあ「やらせ女」として亭主の相手をしているのだろう。
女が男にセックスをさせてやるなんて、とても傷ましいことのように思える。
女にとってセックスすることは、「私を使い果たし」てしまう行為なのではないだろうか。
いや、日本列島の歴史の水脈そのものが、「私を使い果たす」文化になっている。
特攻隊を命令した東京裁判の戦犯たちだって、「私を使い果たし」た末に、「あの戦争はどうしようもない<成り行き>だった」といった。それを自己保身の自己愛だというのは、自己愛の強い現代人の解釈に過ぎない。何はともあれそのとき戦犯たちの胸の中には、そういっても自己保身にはならない、という信憑があった。何はともあれ、われわれ日本人は「私を使い果たし」て戦ってきた、という感慨があった。
「私を使い果たす」文化が、この国の歴史の水脈として流れている。
それは、「自己愛」という「優越感」とは無縁の文化なのだ。
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「日本辺境論」は、冒頭で「反論は受け付けない」と予防線を張っているのだが、ともあれこれだけのベストセラーになったのだから、いろいろ意見が出てきてもっと盛り上がってもよさそうなのに、先生の目論見通り、取り立てた反論もないらしい。
賞賛の反面、けっこう多くの人がこの書きざまにうんざりしたようだが、けっきょく「日本列島=辺境」というパラダイムに誰もが同意してしまっている。そこに反論できなければ、けっきょくはただの揚げ足取りになってしまう。
この本は学術的な厳密さに欠けているとか、オリジナルな分析がないとか、そんな批判は、先生がいうとおり、たしかにどうでもいい。たんなる新書の読み物だから、そんなことを要求するのは野暮というものだ。
しかしこの、人を見下したような書きざまのいやらしさは、一部の読者にとっては耐えがたいものがあったはずだ。
そしてこの本の主題である「辺境」という概念も、そうかんたんに同意するわけにはいかないではないか。
こんな日本人論など、戦前の満鉄社員が日本列島本土の人間を見下していたのと同じ発想なのだ。
そのとき日本列島の住民は、自分たちは(中華の)辺境で暮らしているという自覚はなかったが、満鉄の社員は、ここから見れば本土は辺境だ、あいつらの意識は遅れている、という意識は大いにあったらしい。「日本辺境論」は、そういう満鉄社員のご子息が書かれた本なのだ。
日本人の「日本列島=辺境」という意識は、明治以降に大陸に進出していってはじめて生まれてきた。つまり満鉄の社員は、そこで日本列島という「辺境」を発見した。そこではじめて日本人は、「辺境」という概念を発見した。
そういうところで「日本列島=辺境」という議論が成り立つだけで、歴史的には、ここは「辺境」ですらない「絶海の孤島」だったのだ。
この「絶海の孤島」の心性を問わなければ、ほんらいの「日本人論」は成り立たない。
「日本辺境論」で持ち上げられている梅棹忠夫とか丸山真男という学者たちは、この「辺境」という概念をまったく疑っていない。彼らは、戦時中の支配者や軍人を徹底的にさげすんでいった。あたかもそれが戦争の反省であり、知識人としての良心であるといわんばかりに。
戦後とは、日本人が日本人をさげすんでいった時代だった。そうやって誰もが「優越感=自己愛」を追求してきたのであり、幸か不幸かそれが、高度資本主義社会を推進するエネルギーだった。
したがってそういう傾向は今なお続いているのだろうが、しかしそんな思考が現在の「鬱の時代」を解決するのでもない。グローバル資本主義が、だんだんあやしくなってきている。
言い換えれば、戦前の満鉄社員における、よりグローバルな視線を持とうとする衝動は、そのまま戦後のグローバルな高度資本主義経済の動きにつながっていったところに日本の幸運があったのかもしれない。もしかしたら戦前の日本こそ、世界にさきがけてグローバル資本主義に向けた助走をはじめていたのかもしれない。絶海の孤島である日本列島の住民が大陸に進出していったこととは、そういう「優越感=自己愛」を追求してゆく観念行為だった。
しかしそうやって日本人が日本人をさげすむことばかりしているうちに、「鬱の時代」などといういろいろややこしい社会的な病理や深刻なジェネレーションギャップなども生まれてきた。
もはや、日本人を「辺境人」とさげすんで悦にいっていられる時代ではないのだ。
「日本人=辺境人」などという視線は、明治以降の大陸進出によって発見されたものにすぎない。
われわれは今、それ以前の「絶海の孤島」としての歴史の水脈に遡行しようとしている。
若者たちは、よりグローバルな視線を目指すのではなく、より根源的に、「かわいい」とときめいている。
「かわいい」とは、「絶海の孤島」の感性であって、「辺境」のそれではない。
ジャパン・クール……今、そういう「絶海の孤島」の精神が、グローバルな世界から注目されはじめている。
それは、「辺境」などといういじましい駆け引きの精神ではない。そういういじましい「辺境精神」も「中華思想」も「優越感」も「自己愛」もないから、「クール」なのだ。