辺境意識という嘘・「時代は変わる」10


現在、時代は変わりつつあるのか。
さしあたって、戦争に負けてよその国に侵略されるような劇的な変化はないだろう。時代が変わるということがそういうことであるなら、時代はそうかんたんには変わらない。
日本列島は、このような変化を、氷河期明けに大陸から切り離されて日本列島になってから1万3千年後の70年前に初めて体験した。
他国と地続きになっている大陸の国々はそういう変化を何度も体験しながら歴史を歩んできたが、海に囲まれた日本列島では、そんなこととはずっと無縁だった。支配者には多少のそんな心配があったとしても、民衆自身は何もなかった。何もなかったから、明治時代になるまで「国家」という意識すらなかった。
海に囲まれた日本列島では、そうかんたんに時代は変わらない。縄文時代は1万年も続いた。このことは、日本列島がいかに時代が変わることとは無縁な場所であったかということを意味している。縄文時代の中後期には、大陸ではすでにもう盛んに戦争=侵略し合っていた。そしてそういう地政学的な条件から「時代意識」や「国家意識」が生まれてきた。
日本列島の住民の意識は、そうかんたんには変わらない。「時代意識」も「国家意識」もない歴史をずっと歩んできたのであり、もともと時代によってかんたんに意識が変わってしまう民族ではなかった。
「時代」という言葉は江戸時代ころから使われてきたらしいが、「時代劇」とか「時代もの」というように「古い」とか「むかしの」というような意味がもともとの用例で、べつに現在の社会や国の状況のことを指す言葉ではなかった。なぜなら日本列島の住民にとってそんな状況は、嘆きの対象か、どうでもいい対象にすぎなかったからで、そんな状況によって人々の意識がさま変わりするということもなかったからだ。



仏教伝来は古代という時代の大きな変化だったということになっているが、それで日本人の意識が変わったのかというと、あんがいそうでもない。土着の神道の世界観や生命観はちゃんと残っていったし、神道の世界観や生命観に合わせて仏教をアレンジ=デフォルメしながら受け入れていっただけである。
日本人は新し物好きだから、かんたんに外来文化に飛びつく。しかしそれらはいつだって日本人の意識に合わせて受け入れているだけで、それによって日本人としての意識が変わるわけではない。たとえば「マクドナルド」などの和製英語なんか、外国人からしたらずいぶん珍妙な発音のはずである。しかし「やまとことば」の流儀で発音すればそうなるのだ。われわれはそれを「やまとことば」に変えて流通させている。
日本人は、変わらないから、新し物好きなのだ。新しい外来文化が入ってくることは、変わらないで停滞する現在の「お祭り」である。変わらない民族が、新しい外来文化を「お祭り」にしてどんどん飛びついてゆく。よその国に侵略されたことのない民族だから、無邪気に面白がってどんどん飛びついてゆく。これが侵略したりされたりということを繰り返してきた民族なら、外来文化を受け入れることはそのまま侵略され占領されたことを意味するはずである。日本人は外来文化に対してそういう抵抗感がないし、それを受け入れて日本人の意識がさま変わりするということもなかった。
ヨーロッパ人は、侵略し合う歴史を歩んできたから、そうかんたんには外来文化に飛びつかない。町の景色や生活習慣をそうかんたんには変えない。彼らにとってそれを変えることは、侵略されたことを意味するからだろう。
しかしこの国では、長く米とみそ汁の歴史を歩んできたのに、平気でパンとスープの文化も取り入れてしまう。
この国の民族は、あんなにも手痛い敗戦をこうむっても、いまだにそういう抵抗感がない。受け入れたって日本人のメンタリティは変わらない。変わらないから受け入れられる。変わらないでもアレンジ=デフォルメして受け入れる文化を持っている。変わらないまま、それを「お祭り」として楽しむことができる。つくづく日本人は変わらない民族なのだなあ、と思わせられる。
もともと日本人はそうかんたんに時代に踊らされない(=洗脳されない)し、「時代」という意識そのものが希薄な民族なのだ。どんなに外来文化を受け入れてもメンタリティそのものは洗脳されないから「マクドナルド」とたどたどしく発音してしまうのだし、誰もがそれになんの違和感も感じていない。


内田樹先生は、『日本辺境論』の中で「日本人は辺境民族だからつねに世界に対して文化的劣等感を抱いており、だからかんたんに外来文化に飛びついてしまう」というようなことを語っている。
内田先生一人ではない、どうやらこれは戦後の左翼系知識人の共通した意識であるらしい。
現在の日本人が世界に対して文化的劣等感を抱いているとすれば、それは太平洋戦争の「敗戦の後遺症」であって、日本列島の伝統ではない。まあそういう「敗戦の後遺症」を引きずって戦後がスタートしたし、団塊世代はその落とし子だった。
世界に対する辺境意識や文化的劣等感は、戦後の左翼系知識人や団塊世代の顕著な傾向だったとはいえるが、べつに日本列島の伝統的な風土性ではない。
彼らは「日本人は中国に対する辺境民族として歴史をスタートさせた」と考えている。しかしそれは仏教伝来以後のことであって、その前に縄文時代1万年の歴史の層がこの国の風土的な無意識に堆積している。日本列島が大陸から切り離されて誕生した氷河期明け以降の1万3千年の歴史のうちの1万年である。この1万年は、ある意味で決定的なことである。日本人の基本的なメンタリティは縄文時代の1万年ですでにつくられている、ともいえる。この1万年の歴史の古層を無視することはできない。
それは、海の向こうの国々との関係などまったくなく、「辺境意識」などない時代だった。
彼らは、水平線の向こうは何もない、と思っていた。それは、人間の意識の自然である。
死んだら何もない「黄泉の国」に行く、という神道的生命観は、水平線の向こうは何もない、という意識から生まれてきた。そしてこの生命観は、日本列島の全歴史を通じての深層意識となって流れてきた。仏教が入ってこようとキリスト教に飛びつこうと、日本人の心の底には「黄泉の国」という世界観・生命観が横たわっている。
原始時代には、世界中が地平線や水平線の向こうは何もないと思っていた。大陸の人々だって、氷河期が明けて地平線の向こうにまで旅をすることができるようになってから「異国」や「異民族」を意識するようになってきただけである。そしてその「異国」のさらに向こうは、やっぱり「何もない」と思っていた。知らなければ「何もない」と思うのが、人間の心の動きの自然なのだ。
弥生時代には、少しずつ大陸の文明が入ってきた。しかしそのとき、九州や山陰地方の日本海沿岸の人々にそういう知識が芽生えたとしても、それ以外の圧倒的多数の日本列島の民衆は、そんな意識は持たなかった。それが大陸伝来のものであっても、内陸部の人々にとっては九州や出雲から伝わってきたと思っただけである。
弥生時代には、大陸(朝鮮半島)から漂流して日本列島にたどり着く船が増えてきた。しかし、日本列島の住民が意識して大陸を目指していったのは、造船技術が進化した古墳時代以降のことである。
しかしそのときはもう、海の向こうの他国のことなど勘定に入れない日本的なメンタリティがすでに出来上がっていた。



飛鳥時代に遣隋使を派遣したのは、海の向こうに隋という国があることを知って行ってみたくなっただけだろう。それは、「進取の気性」ということはいえても、辺境意識や文化的劣等感によるものだったのではない。
そのとき隋という国は、日本列島のことを、自分たちの「中華思想」という物差しで勝手に辺境の蛮族と決めつけていただけで、「どんなところだろう」という関心は持たなかった。彼らには、「進取の気性」は希薄だったし、今でもそういう傾向は残っている。
そのとき隋は、水平線の向こうまで船をこぎ出してゆくことの困難はちゃんと知っていたから、日本列島に行って侵略しようという気にはならなかった。なのに、遣隋使は、その水平線を越えてやってきたのである。であれば、その文化水準に対する関心や警戒心は当然持ったはずである。しかも「日出ずる国の天子」などという傲岸不遜な書状まで持ってきている。それでも彼らは、日本列島にやってきて確かめるということはせず、「随書倭国伝」などという勝手な歴史文書をつくっていただけである。それは、日本列島を甘く見ていたということよりも、海が怖かったからであり、「進取の気性」が希薄だったからだろう。
逆巻く波を越えて海の向こうからやってくるなんて、彼ら中国人にとってはちょっと気味悪いことだったろうし、それなりの敬意もなくはなかったにちがいない。こんなことをいって申し訳ないが、たぶん、朝鮮半島の民族よりも侮れない、という思いは持ったのではないか。とにかく、行ったことがないところだけに、気味が悪いという思いはぬぐえなかったはずである。そして王朝内でも、日本人の進取の気性を活用しようという傾向もあったにちがいない。遣隋使や遣唐使の僧や文官は、あんがい優遇されていたのではないだろうか。ただの海の果ての蛮族として下働きばかりさせられていたのではない。科挙という厳しい制度があるあの国で、海の向こうの素性のわからない馬の骨をいきなり王朝内や寺院内の重要なポストを与えるということは、ほんらいならあり得ないことだろう。
いくらそのころの歴史文書に辺境の蛮族だと記されていようと、彼らが腹の底から日本人を侮っていたとは思えないし、日本人自身にも辺境意識などなかった。
現在の中国人の日本人に対する歴史的な無意識にも、そういう「侮れない民族だ」という意識は残っているはずで、「もともとはただの辺境の蛮族だった」というのは、口だけのことだろう。
中国人は、遣隋使ではじめて日本人を知ったのであり、そのときはもうすでに「侮れない民族」だった。その前に白村江の戦いがあったといっても、そのときの相手は実質的には朝鮮民族の軍勢だったという説もある。中国と朝鮮の和睦のしるしとして、日本をやっつけたという話にしただけかもしれない。
役人が必ず真実を書くというわけではない。勝手な捏造をするという例はいくらでもある。
中国人は、歴史のはじめから日本人を侮れない民族だと思っていた。だから、日本列島を属国として扱ったことは一度もないし、だからこそ、いまだに日清戦争から太平洋戦争までの屈辱の歴史が忘れられない。それなりに敬意を払って属国として扱わなかった相手に、朝鮮・満州に対する既得権益を奪われたあげくに属国にされかかったのだ。そうかんたんには許せるはずがない。欧米はともかくとして、アジアで中国を凌駕する国があることは許せない。「中華」の名がすたる。少なくとも漢民族は、歴史のはじめから日本列島を警戒しつつ、ついに一度も支配下に置くことができずにきた。そう遠く離れているわけでもないのに、歴史的に、海というのはそれほど決定的な隔たりをもたらしたのだ。
内田樹先生は「日本は中国の属国としての歴史を歩んできた」といわれるが、そんな関係になったことも、日本人が中国に対する文化的劣等感や辺境意識を抱いたことも一度もない。何はともあれ、信長や秀吉は、その気になれば中国なんかかんたんに占領できると思っていたのである。日清戦争後の歴史には、そういう伝統的な意識もはたらいていたのかもしれない。そのころの軍人たちは中国を侮っていたから、あんなにも傍若無人な作戦を遂行することができたのだろう。そしてその態度は、中国人の心を大いに傷つけた。数千年の中華の歴史を踏みにじられたのも同じだった。
中国人は、日本列島との関係の歴史のはじめから日本人の「進取の気性」を恐れてきた。そして、良くも悪くも、日本人が中国に対する辺境意識や文化的劣等感を抱いたことは一度もない。遣隋使や遣唐使を派遣したのは、中国の文化がものめずらしかったからであって、属国としての義務・儀礼でやっていたのなら途中で勝手に廃止するということはしないし、それを中国が許すはずがない。
遣唐使を廃止したのは、そのころになるともう、政治制度のことで学ぶものはなくなったし、わざわざ国の事業としてやらなくても民間の船で行き来できるようになってきたからだろう。いずれにせよ、属国であったのなら、勝手にやめてしまうことなどできるはずがない。



日本人が外来文化を輸入しても、国と国の関係など意識していない。あくまで新奇なものとして面白がっているだけである。
日本人の意識の深層に「辺境意識」などというものはない。深層意識(歴史的な無意識)においては、今ここの自分たちが住んでいる場所しか知らない。「ここ」しか知らないし、「ここ」が世界のすべてだと思っている。だから、江戸時代には鎖国が発想され定着していったのだし、その一方で明治維新を生み出した進取の気性が途絶えることもなかった。
日本列島の住民は、「辺境民族」として歴史をスタートさせたのではない。なのにこの国の知識人が「日本文化」を語るとき、なぜか外来文化との関係で考えたがる。
日本人の意識の深層にはたらいているのは仏教的な世界観や生命観であるということはよく聞くが、そうではない、日本人の意識の深層にはそれ以前の仏教など知らなかった1万年の歴史の層が堆積している。
外来文化と出会う前にすでに1万年の歴史の層を持っていたのであり、どれほど外来文化と出会っても、その1万年の古層はずっと残ってきたのだ。辺境意識など持たない無邪気な心で外来文化を歓迎し、消化吸収してきただけである。
辺境意識など持っていたら、それなりに警戒し、それなりに選別するはずである。まあ朝鮮半島はそういう意識で歴史を歩んできたのだろうが、もともと日本列島は、そんな意識すらもない絶海の孤島としての歴史を1万年も続けてきたところからスタートしている。
日本人がすぐ外来文化に飛びつく軽佻浮薄で新し物好きの民族だからといって、辺境意識や文化的劣等感を持っていると考えると間違う。こんな考えは、戦後の左翼系知識人によるデマゴーグにすぎない。その辺境意識や文化的劣等感は、太平洋戦争の敗戦による後遺症にすぎないのであって、日本列島1万3千年の歴史の伝統ではない。



日本列島においては、そうかんたんには時代は変わらない。もともと日本人は、そうかんたんに時代に踊らされないし洗脳されない。それは、国や世間が「憂き世」として嘆く対象になってきたからだ。
「憂き世」の伝統。
日本列島の歴史は、「水平線の向こうは何もない。今ここが世界のすべてだ」という世界観でスタートした。「今ここ」が世界のすべてなのだから、その外の国や世間は、よくわからない。その世界観でまず1万年の歴史を歩んだのであり、それはもう現在に至るまでの歴史の通奏低音になっている。
日本列島の住民は、弥生時代に農業をするようになってはじめて「世間」とのかかわりのしんどさを知った。それまでの縄文時代は、女たちは山の中で一生を暮して、旅する男たちの広い世間は遠い憧れだった。男たちは、広い世間の情報や珍しい物を携えて女たちの集落を訪ねてきた。
そういう遠い憧れだった世間が、弥生時代になって直接的なかかわりを持つようになって「嘆き」の対象になった。農業社会をいとなむためには、しんどくてもかかわってゆくしかなかった。
日本人にとっての「今ここ」の世間は、嘆きの空間である。ひとまず自分たちの集団としての世間を嘆きつつ、さらにその外の広い世間にあこがれていった。ここから、現在の、日本という国を嘆きつつ広い世界にあこがれるというメンタリティになってきた。
また、今ここを嘆きつつ今ここが世界のすべてだという意識もある。
嘆くことは、ひとつの快楽でもある。泣いて泣いて泣ききることのカタルシスというのがある。
嘆くことが日本人の生きる作法だという伝統がある。縄文人だって、山の中に閉じ込められた暮らしを嘆きつつ、山の向こうの世界に対するあこがれを紡いでいた。
まあ、原初の人類が二本の足で立ち上がること自体が嘆きを生きる作法だったわけで、人間とはそういう生き物だともいえる。
そうやって日本人は「憂き世」嘆いて歴史を歩んできたし、嘆くことのカタルシスをくみ上げる文化を育ててきた。「あはれ」や「はかなし」の美意識は、そういう伝統である。
日本人は、伝統的に世間=時代を嘆きながら歴史を歩んできた。日本人はというより、人間そのものが嘆きを生きようとする存在なのだ。



日本人は、けっして時代に踊らされやすい民族ではない。時代を嘆きつつ受け入れてきただけなのだ。そうやって嘆きそれ自体を生きようとしてきた。そしてその根底には、縄文時代以来の「今ここが世界のすべてだ」という世界観・生命観が息づいている。その世界観・生命観があったから、中国とは距離を置いた歴史を歩んできたのであり、幕末明治の受難に耐えることができたのだろう。
その世界観・生命観から、日本的な新し物好きの「進取の気性」も生まれてくる。
そして、現在の日本人の心の底にも、そういう世界観・生命観は潜んでいる。
まあ戦後は、そういう伝統をひとまず忘れてかんたんに時代に踊らされ洗脳されてしまう人間が増えてきたのだが、当然それは一過性の現象のはずである。
団塊世代とバブル期に青春時代を送った世代はたやすく時代に踊らされ洗脳されてゆき、そういう傾向がダイナミズムとなってバブル経済の繁栄を達成した。
バブルの時代とは、「夢はかなう」などといって上昇志向や作為性が称揚される時代だった。そしてその余韻はいまも残っているのだが、一方ではそういうことはもうどうでもいいという気分も広がってきている。
為政者はとうぜんその流れを押し戻そうとしているのだが、日本列島の伝統を考えるなら、それはもう仕方がないことなのだ。
多くの若者が、コンビニ弁当とユニクロの服を着て居酒屋でデートができればそれでいいという意識にもなってきて、あまり上昇志向を持たないらしい。郊外の団地の住民は「ジモピー」と呼ばれて、べつに都心に出かけて遊ばなくても地元でまったりしていたほうがいい、というライフスタイルになってきているのだとか。彼らに「辺境意識」などはない。「今ここが世界のすべただ」という日本列島の伝統がはたらいている。それは、ブランドファッションよりもユニクロの方がいいと思っているわけでも、東京よりも地元の方がいいと思っているのでもない。ただもう「今ここが世界のすべてだ」と思っているだけだ。
40代の婚活女のようにいぜんとして上昇志向で頑張っている人たちもいれば、そんな上昇志向とは無縁の若者たちもいる。
現在とはどのような時代かといっても、ひとくくりにはできない。上昇志向で頑張っている人たちは目立つからなんだかそれが時代の姿のように見えてしまうが、政府やマスコミが笛を吹いても踊らない人たちもたくさんいる。
日本人はかんたんに時代に踊らされてしまう、と決めつけると間違う。
時代とは無縁の人々が増えてきているのが、現在の「時代」なのだろうか。
バブル期までは、わりと時代の様相がわかりやすかったのかもしれない。でも、だんだん時代に踊らされる人が少なくなってきて、踊らされない人が増えてきた。そのためにちょっと見えにくくなってきているのかもしれない。
まあ、相変わらず「上昇志向=作為性」で頑張っている人たちはいるし、いつの時代にもそういう人たちは一定数いるのだろうが、そうではない人たちの存在もだんだん無視できなくなってきているし、そうではない人たちが生み出す文化現象もあらわれてきているのではないだろうか。
ユニクロやコンビニ弁当なんかで満足するな、と扇動しても、踊らない人たちは増えてきている。
そして40代の婚活女たちのように、いまさら頑張ることをやめるわけにいかない人たちもいる。バブル景気とともにいったん肥大化してしまった「欲望=上昇志向」をいまさら収縮させることはできない。このまま死ぬまで突っ走るしかない。そしてそういう人たちがまだたくさんいるということは、「戦後」はまだ終わっていない、ということだ。
「欲望=上昇志向」をたぎらせ時代に踊らされて生きることが、人間性の普遍でも日本列島の伝統でもないのだが。
日本人とはどういう民族なのか、ということをどのように問うてゆくか。そういう問題がいまあるのかないのか。それは僕にはよくわからないのだが、やっぱりどうしても気になってしまう問題である。
いずれにせよ「辺境意識」とか「文化的劣等感」などというものが日本人の歴史的な無意識であるのではない。それは「戦後」という時代の病理なのだ。
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