婚活・「時代は変わる」9
1
最近になって、「婚活」という言葉が広く流通するようになってきた。
これは、非婚化の流れが止まった兆候だというわけでもあるまい。
結婚する気のない男女がたくさんいる世の中だからこそ、結婚したくてもできない男女も生まれてくる。
まあ、いい条件をそなえた男女は、すでにさっさと結婚しているか結婚する気がないかのどちらかなのだろう。
いい条件をそなえていれば、「婚活」をする必要はない。
いい条件をそなえていなければ、プロポーズしても受けてもらえないし、プロポーズしてもらえない。
「条件」というのは、いろいろあるにちがいない。容姿、収入、学歴、教養・性格、家柄、口説くのがうまい、口説かせるのがうまい、等々。
「ダメンズ」という言葉もあるくらいで、条件など関係ななく、なりゆきで情が移って結婚してしまうという例はいつの時代にもいくらでもあるのだろうが、全体的にはむかし以上に「条件」が問われる時代になっているのかもしれない。
とくに現在「婚活」をしている男女は、みずからの「条件」をアピールしたり相手に「条件」を求めたりする意識が強くなる傾向があるのだろうか。
男の中には「女なら誰でもいい」という意識に近い人もいるのだろうが、女の場合は、きっちり「これだけは」と相手に求める条件を持っているのだろう。
男の場合は「セックスがやりたいだけ」ということでも結婚の動機になりうるが、女の場合は、そうもいかない。セックスだけなら結婚しなくてもできるし、もともと生物学的にはセックスをしなくても生きてゆける存在なのだ。
だから、女の方が相手の「条件」を執拗に吟味するのではないだろうか。
婚活市場にいい女いい男はあまりいない。だからこそ、よけいに「条件」が問題になる。
まあ、婚活パーティなどは、異性と話ができる機会だというくらいに考えている男女もいるのだろう。キャバクラみたいなものだ、と思えば気が楽だ。
しかし40代の婚期を逃した女たちは必死かもしれない。同世代のいい条件を持った男たちは相手にしてくれない。そういう男たちは、20代の女にちゃんと通用する。
20代の女より40代の女の方がいいという男がいるとすれば、20代の女から痛い目にあっている20代の男だろうか。新入社員の若い男が40代の派遣社員の女に囲い込まれ結婚を迫られるということは世間ではよくあるらしい。そういうお騒がせなトラブルメーカーにもなっている。
男としていい条件をそなえていてしかもあまり女の選り好みをしない男を探すとすれば、20代のうぶな男にターゲットを絞るしかない。
2
40代の女たちは、どうして今ごろになって婚活をするようになってきたのだろうか。今までに結婚のチャンスがなかったわけでもあるまい。おそらく、時代の非婚化の傾向に踊らされて今まで来てしまったのだ。もともと一生を独身で通すだけの社会的能力も意識もなかったのに。
彼女らの青春時代は、バブル真っ盛りのころだった。結婚するよりもしない方が得な時代だったのだろう。しない方がたくさんの楽しいことを体験できるし、しない方が女を磨くことができるという風潮もあった。
「女を磨く」という思想が急速に広がってきた時代だった。あのころの美人とかいい女という概念は、もはや生得のものではなく、努力してダイエットをしたりおしゃれをしたり化粧をしたりして獲得されるものだという意識になってきていた。
努力すれば誰でも美人やいい女になれると信じられてきた時代だった。そして結婚すれば、世の中にあふれているたのしみも、いい女になるためのステップを上がってゆくことも放棄しなければならない。誰が好きこのんで結婚なんかするものか。多くの女がそういう意識になっていった。
贅沢のたのしみもいい女になるための努力も、求めればきりがない。
バブルの時代は、努力=上昇志向、すなわち人間の作為が信じられている時代だった。
フェミニズムや女の社会進出が盛んになってきて、「働くいい女」というイメージがひとつのブランドになっていた。
そういう時代の狂騒に多くの女たちが踊らされていて、その中の一群がいま、40代の婚活女になっている。
彼女たちは、怠惰だから結婚しなかったのではない。むしろ勤勉で上昇志向が旺盛だったからこうなってしまったのだ。怠惰な女は、適当な男を見つくろってさっさと結婚してしまう。
3
何はともあれ80年代は、多くの女たちが、努力すれば美人やいい女になれると信じ込んでいった時代だった。バブル景気の繁栄は、戦後の日本人の上昇志向=作為性のひとつの達成だった。
いま流行りの言葉でいえば「女子力アップ」ということだろうか。バブルの余韻で、いまだにそんな作為的なスローガンを合唱している女たちがいる。40代の婚活女たちはその「女子力」がみずからのセールスポイントのつもりでいるのだろうが、結婚においては、そんなことよりもっと強力な「女子力」は20代という年齢であり、怠惰で世間知らずであることが「女子力」になっている場合もある。「天然(ボケ)」という言葉もあるくらいで。
いや、その「天然」を巧みに演じて見せるのも40代の女の「女子力」かもしれないのだが、とかく世間はややこしい。
現在の40代の女たちの多くは、結婚していようと婚活していようと、それなりにバブルの時代に青春を送ってきたことの後遺症を抱えているのだろう。
あの時代のマスコミで活躍したオピニオンリーダー的な女を挙げるとすれば、上野千鶴子と林真理子が頭に浮かぶ。前者はもっとも声高なフェミニストとして、そして後者は、バブルに浮かれた俗物女の代表になっていた。
上野千鶴子は女の権利の拡張を叫ぶ上昇志向のかたまりのような人物だったが、それはそのまま林真理子の特性でもあった。○金と○ビ、そんな言葉も生まれてきたが、林真理子は「○金」組のリーダーで、上野千鶴子は「○ビ」の層のリーダーだった。いずれにせよ両者は一枚のカードの裏表だったのであり、そういう上昇志向と作為性にあふれた時代だった。
そのころ林真理子は自他共に認めるブサイクな女だったのだが、そういう女が「働くいい女」としてバブル景気を堪能しつつ私は「女子力アップ」の階段を駆け上がっていると主張し、そのさまを多くの女たちが注目していた。冷ややかであるにせよ、応援するにせよ、いちおう彼女は大いに目立っていた。
私は女子力をアップしながら「ルンルン気分」で生きています、と発信し続けていた。この「ルンルン気分」という言葉は林真理子の最初のエッセイ集のタイトルにも使われていたのだが、内田樹先生も上野千鶴子もこのような自慢話を垂れ流したがる趣味で、バブル以降のオピニオンリーダーのひとつの傾向であるのかもしれない。
上昇志向と作為性に対する信仰。バブルとは、上昇志向や作為性の強い人間がのし上がってきた時代だったともいえる。いやそれは、戦後という時代を通じてのスローガンだったわけで、バブルの時代になってその傾向がいっそう際立ってきた。
というわけで、上昇志向で女子力をアップしようと頑張っている女たちにとって、生まれつきの美人とか品のいい女はルサンチマンの対象だったらしい。彼女たちにとっては、そういう女よりも、林真理子のような存在の方が希望になりえたのだろう。基礎的な容姿においては私の方がまだましだ、という安心もさせてくれるし。
まあ林真理子は、典型的なバブルに踊らされている女であり、典型的なバブルの時代を上手に生きている女だった。
林真理子はともあれ直木賞作家だが、文学として論じるほどのものでもない、というのが一般的な評価である。小説よりも、次から次に出すエッセイによって知名度を高めていった。彼女には、人間やこの世界に対する深い洞察力というようなものはない。ただもう、自分を物差しにして他者を吟味しているだけである。小説だろうとエッセイだろうと、何を書こうと彼女の俗物根性と上昇志向が透けて見えるだけである。しかし、そういう視線や生き方が、多くのというか一部の女たちの手本になっていった。
たとえば男を見るにしても、身勝手な振る舞いをする男を「身勝手な男だ」と吟味し裁くことはかんたんである。そういう表現は、林真理子の小説にもエッセイにもたくさん出てくるし、ひとまずプロなのだから下手ではない。しかし、「この男はいま、どんな気持ちでこんな態度をとったのだろう?」とその気持ちの世界に分け入ってゆくという能力は林真理子にはないし、あのころバブル景気に浮かれていた女たちにもなかった。
バブルの時代においては、いい男いい女としてどんな「条件」をそなえどんな振る舞いをするかという「表層」を問い合っていただけで、その心の奥の「深層」を問うということは誰もしなかった。どうせ一皮むけばみんなただの俗物であり、問うてもしょうがない。あるいは、問うてゆき反応してゆけるだけの感受性はなかった。誰もが、というわけではないが、そういう流儀で生きているものたちがたくさんいる時代ではあった。林真理子は、そういう女たちのオピニオンリーダーになっていった。
4
林真理子が直木賞を受賞したころの『最終便に間に合えば』という小説に、こんなエピソードが挿入されている。
主人公の女は、あるときむかしの恋人と再会して冬の夜中に男の部屋でセックスしたあと、男から、男のいきつけの近くのスナックにおにぎりを買いに行くことを命じられる。店のママがその場で握るできたてのものが食いたいという。
このエピソードによって、この男がいかに身勝手な人間かということが語られている。
ステレオタイプな人間解釈だ。
おそらく、この男がこんなわがままがいえる相手は、この世にこの女しかいない。もしかしたらこの男は、この女の心が自分のものであることを確かめたかったのかもしれない。自分のものにしたかった、というか。なにしろ再会したばかりである。そうやってむかしのなれ合いを取り戻そうとしたのかもしれない。
そして女だって、男のそんな気持ちを察知して、これでこの男は私のものだ、こんな子供みたいなわがままをいってかわいい男だ、という気分になるかもしれない。たとえそれが男の通俗的な支配欲だったとしても、だ。
小説では、寒い冬の夜道に出ていってこんなことをさせられるなんて私はみじめで悔しい、と主人公は嘆くのだが、まあジコチューの上昇志向が旺盛な女やひがみ根性の強いブスならそう思うだろうが、美人やお育ちのいい女だったら、あんがい嬉々として引き受けたりすることがある。そういう自己犠牲というか、自己処罰のよろこびというのを「いい女」は知っている。必ずというわけではないが、そういう場合もある。
少なくともこの小説の主人公はそうではなかった。そして、そのスナックに行ったときのママに対する「文化人を気取ってもしょせんは水商売の女だ」という悪意もしかり、自分の物差しで他者を吟味し裁いているばかりで、他者の心を問うということは何もしていない。そういう感受性がみごとに欠落している。
そのママがやさしい笑顔を向けてきたことだって、主人公は「軽くあしらわれた」と受け取ったが、主人公以上に男に苦労して生きてきたママからしたら「あなたも大変ねえ」という思いやりというか女どうしのそこはかとない友情だったのかもしれないのである。
そしてこのおにぎり3個の820円という値段を、「冷気の中をみじめな思いをして歩いてきた自分には不当に高いものに思えた」と書いている。まあバブルの時代の都会のスナックの値段ならべつに高いというほどではない。それはともかく、どうしてそれを自分の感情で裁量するのか。ママには、主人公のそんな気持ちをくんでやらなければならない義理があるのか。ママからしたら、主人公がそんなブスのルサンチマンをたぎらせてやってきたなんて思いもよらないことだったのだろう。男と女の情が深まってゆくためのほのぼのとしたひとつの通過儀礼として受け止めたのかもしれない。
もしかしたらこれは林真理子の実体験かもしれないのだが、彼女は、その体験から男と女の関係の「あや=ニュアンス」というものを感じ取ることに失敗している。
バブルのころは人と人がそんな流儀で関係を結んでいる時代だったから、林真理子が描いたそんなジコチューで鈍感な女性像も、ひとまず時代にフィットしていたとはいえるのかもしれないのだが。
林真理子の人間観察は、知性においても感性においても凡庸で中途半端なのである。小説でさえこの程度なのだから、エッセイにいたっては、この女の鈍感なふてぶてぶてしさはいったい何なのだと思うばかりである。この作家の人間観や世界観は、おそろしく浅薄である。小説だろうとエッセイだろうと、自分の物差しで他者を吟味し裁いているばかりで、自分を捨てて他者の心を問うてゆくということは何もしていない。
まあ自意識過剰で上昇志向の強いブスには、そんな「自分を捨てる」ということはみじめで悔しいばかりでとてもできないことなのだろう。
彼女は、存在の根源において「他者に気づいてゆく」という人間の自然としての知性や感性がおそろしく欠落している。「ルンルン気分」でバブル景気に踊らされていた女の知性や感性なんて、しょせんその程度のものだ。そんな知性や感性で「女子力」を磨いたってたかが知れている。
5
人と人は、たがいの心を問い合って関係を結んでいる。「わかり合う」のではない。わかり合うことなんかできない。できないからこそ、つねに問い合っている。男と女のあいだにはとくに濃密なそうした心のやりとりがあり、その果てに一緒に暮らしはじめたり別れたりしている。
おたがいの男(女)として身にまとっている社会的な「条件」や「ふるまい」の表層を吟味し合っているだけですむのなら、男と女の関係になることの醍醐味もしんどさも何もない。
「条件」だけが結婚の動機のすべてであるのなら、人々が結婚しなくなってゆくのは当然である。そこに「心のやりとり」が避けがたく起きてきてくるから、「なりゆき」で結婚してしまったりするのだろう。男と女のあいだが「条件」を問い合うばかりで「心のやりとり」が起きなかったら、そりゃあ結婚する男女は限られてしまう。
結婚なんか「心のやりとり」をしているうちにはずみでしてしまうものだ、という部分がある。しかしバブル景気は、「心のやりとり」ができないで「条件」を問い合う駆け引きばかりしている男女を大量に生みだし、非婚化の時代へと傾いていった。
ともあれ林真理子は、そういう「条件」の駆け引きに成功して結婚できたたらしい。
男と女は、避けがたく心を問い合ってしまう。表層的な「条件」や「ふるまい」を確認して慣れ合っているだけではすまない。しかしバブル景気は、そういう関係しか結べない「他者の存在に鈍感な」男と女を大量に生みだした。
現在の40代の女の婚活騒ぎは、バブル景気の時代の後遺症なのだろう。
そして「私みたいに生きればいいのよ」とぬけぬけと吹聴しまくっているそんな鈍感でふてぶてしい林真理子のエッセイがいまでも売れているということは、それはもう団塊世代以来の「戦後」の時代風潮がまだ終わっていないということかもしれない。
40代の婚活女の中にも、林真理子のような鈍感でふてぶてぶてしい女はたくさんいるのだろう。たとえば、うぶな新入社員の男を平気でたらしこみにかかるというような。
「だって恋してしまったんだもの」などといっても、自分の腹の中の姑息な「計算」など見て見ぬふりして、相手にも気付かれないですむ関係が成り立つというのは、男と女として本格的な「心のやりとり」をしていないからである。
そういう関係を想像すると、ちょっと怖いし気味悪い。ようするにそれは、相手も同じことを考え同じ行動をする関係に巻き込む手練手管の世界である。林真理子もまた、そうやって「私みたいに生きればいいのよ」と吹聴しまくっている。彼女が結婚した男も、そうやって捕まえたのだろうか。
人間がかんたんに時代に踊らされてしまう時代には、そういう「一心同体」の関係に巻き込む手練手管が威力を発揮する。
戦後は、人がかんたんに時代に踊らされる時代になった。日本人はもともとそういう民族ではなかったはずなのだが、まあ「敗戦」の後遺症なのだろう。それをたぶん、いまだに引きずっている。
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