ホームドラマの挫折・「時代は変わる」8


いったいなぜ若者たちが結婚しなくなってきたのか。
戦後の一時期に隆盛を極めたテレビのホームドラマの神通力が衰退していったことと歩調を合わせるようにそうなってきた。
戦後十数年たったころからテレビが普及してきてアメリカのホームドラマが次々に輸入され、やがて日本のテレビ局も自前で作るようになってゆき、ひところは大いにもてはやされた。
戦争で家族を失ったあとの時代だからしょうがないのかもしれないが、現在の非婚化は、日本人がホームドラマに浮かれ過ぎたことの反動もあるのだろう。
あのころ、アメリカ的な核家族ホームドラマばかりだった。日本の家族が核家族化していった時代だった。
そしてそんな核家族ホームドラマにあこがれたのは団塊世代が最後で、そのあとの世代からはしだいに幻滅に転じていった。
核家族の形態が壊れていったのではない。核家族そのものに幻滅していったのだ。団塊世代が大人になって結婚し、より完成された核家族社会をつくっていったのだが、その完成された核家族が幻滅されていった。
核家族は、どうしても人と人の関係が密着してしまうし、文化的に貧弱である。日本列島には先祖代々の伝統があるはずなのに、それを引き継ぐことができない家族形態である。
たとえば、漬物の漬け方を伝えるおばあさんがいないから、大量生産のものをスーパーで買ってきて間に合わせることになる。家の台所で魚をさばくということもしなくなる。
アメリカのようにキャンベルのスープの缶詰を愛用することが豊かさのしるしだと信じられている社会ならそれでもいいが、日本列島はそれではすまない先祖代々の伝統を持ってしまっている。
人と人の関係の作法だって、核家族の中で完結しているような密着した関係に耐えられるようなメンタリティをわれわれは持っていない。日本列島の住民であるかぎり、誰の中にも伝統という歴史の無意識が流れているのであり、その無意識が核家族ホームドラマに幻滅していったのだ。
アメリカ人は、核家族の形態に耐えられるようなメンタリティと社会の構造を持っている。それは、ひとりひとりが「神との関係」を持っていて、それが密着した人と人の関係のクッションになっている。べたべたくっつき合っているようでいて、誰もがどこかに「神との関係」という孤独(=自分の世界)を持っている。言いかえれば、それだけ他者との関係に鈍感なところがある。だから、核家族ナショナリズムという密着した関係に耐えられる。
戦後の日本社会に生まれ育った団塊世代は、神との関係は持っていなくても他者との関係に鈍感だったから、アメリカのホームドラマをそのまま受け入れることができた。ホームドラマを受け入れながら他者との関係に鈍感になっていったともいえる。
戦後は、極端にいえば、誰もが同じことを考え同じ行動をする社会だった。そういうことが前提になっているのなら、他者との関係に思いを向ける必要がない。それは、仲良くすることが前提になっているホームドラマの関係であり、そういう予定調和の密着した関係の中で人はどんどん鈍感になってゆく。
戦後のホームドラマは、密着した人と人の関係に耐えることができる鈍感さの上に成り立っていた。そして、国家に対する関心を共有して全共闘運動を盛り上げてゆくことができたし、会社に対する忠誠心を共有してバブルの繁栄を支える企業戦士になってゆくことができたのも、じつはホームドラマのメンタリティだったのだ。



「神との関係」を持っていない日本列島の歴史的な無意識は、もともと核家族ホームドラマの密着した関係に耐えられるようなメンタリティになっていない。
核家族ホームドラマは、人と人の関係に対する鈍感さと、キャンベルの缶詰スープに満足しているような文化的な貧弱さの上に成り立っている。それは、日本列島の住民の歴史的な無意識(=伝統)になじまない。
「神との関係」というクッションを持たない日本列島の住民は、人と人が必要以上になれなれしくしないという関係の作法を洗練させながら歴史を歩んできた。そしてなれなれしくしないという関係の作法とともに、他者に対する感受性を育ててきた。
日本人は、他者との関係に敏感でナイーブ過ぎるところがある。だから、核家族ホームドラマが幻滅されていったのだ。核家族が壊れていったからではない、戦後の経済繁栄と団塊世代的メンタリティによって完成された核家族が幻滅されていったのだ。
そして、核家族に対する幻滅がそのまま現在の非婚化の傾向につながっている。
また、その幻滅には、日本列島の伝統としての歴史的な無意識がはたらいている。
日本人は、核家族ホームドラマのような密着した関係に耐えられない。
アメリカ人のように自分を主張して自分の世界を守るという習性を持っていれば、そのような関係を維持することもできるが、日本人のように自分を無にして他者の心を問うてゆくというメンタリティにおいては、むやみに密着した関係になると、身動きとれないような息苦しさを覚えてしまう。
核家族ホームドラマが幻滅されてきたということは、いったんは戦後社会によって無効にされていたこの島国の伝統としての歴史的な無意識がよみがえってきたということを意味するのではないだろうか。
この国の伝統としてのむやみになれなれしくするまいという関係の作法は、自分の世界に閉じこもるというミーイズムではない。無防備な裸の自分で他者に対する関心を寄せてゆく、という作法である。
無防備な裸の自分は、核家族ホームドラマを演じることができない。それは、自分を主張して自分の世界を守ることができるものたちによって演じられている。日本列島には、そんな伝統はない。
裸の自分になって他者と向き合う、という伝統。それは、海に囲まれた島国で他国との緊張関係のない歴史の中ではぐくまれてきた作法であり感性である。
われわれは、「自己主張して自分の世界を守る」のではなく、「たがいに他者の世界を守り合ってゆく」という関係の作法を育ててきた。誰もが「自分の世界=身体の自立性」は他者によって守られていた。



生き物は、「自分の世界=身体の自立性」が守られていなければ体を動かすことができない。それが生き物が生きてあることの基本であり、その「自分の世界=身体の自立性」が他者に守られていることによって「生物多様性」が成り立っている。基本的には、そういうことなのだ。そして人間だって、基本的には、たがいに他者によってそれが守られ守り合いながら関係を成り立たせている。
人間は、根源的には、他者の(身体の)自立性を守ろうとする存在であり、たがいに守り合って存在している。他者の(身体の)の自立性を守ることによってしか、みずからの(身体の)自立性を守ることができない。人間のように限度を超えて大きく密集した集団は、自然にそういう関係性になってゆく。まあ基本的はそういうことなのだが、他の集団との抗争や文明文化の発展によって、さまざまな集団内の関係性が生まれてきた。そうして集団内の関係性から言葉が生まれ育ってきたわけで、だから集団ごとに言葉が違っていった。
海に囲まれた島国の日本列島では、もっとも基本的原始的な集団内の関係性が残され、洗練発達してきた。
みずからの身体の自立性が他者によって守られているということ、それは、無防備な裸の自分になって他者と向き合うということである。日本列島の住民はそういう原始性を色濃く残しているから、モダンな核家族ホームドラマをけっきょく身体化することができなかった。団塊世代はそれができたから70年代の「ニューファミリー」のブームになっていったのだが、今やそうした核家族ホームドラマ幻想はすっかり色あせてきている。その集団における他者は容赦なく接近し密着してくるから、みずからの身体の自立は自分で守らないといけない。そうやって子供たちは自分の部屋に閉じこもるようになっていった。
一家団欒のホームドラマを復活せよといっても、団塊世代のように他者に鈍感でしかもみんなが同じことを考え同じ行動をするという信憑を持っているものたちならそうした団欒を楽しむこともできるが、無防備な裸の自分で世界や他者に反応してゆく鋭敏な感受性を持ってしまった子供には耐えがたいことなのである。
いったい何が原因かと考えればいろいろあるのだろうが、とにもかくにも現在は、戦後のみんなが同じことを考え同じ行動をするという核家族ホームドラマの思想が機能しなくなっている。もう、そんな一家団欒などというユートピアは存在しない。そんな予定調和の関係は、他者に対して鈍感なものたちによってしか成り立たないのだ。
まあ、みんなでテレビを見ていただけなのだから、べつに心の交流や楽しい語り合いなどというものがあったわけではない。「ニューファミリー」をつくった団塊世代はそうした予定調和の関係を信じることができたが、子供たちはそれになじめなくて自分の部屋に閉じこもるようになっていった。



おそらく戦後という時代のテレビは、みんなが同じことを考え同じ行動するための重要な役割を果たしていたのだろう。そんなホームドラマで育った多くの団塊世代は、それが人間の基本的な生態だと信じている。そういうことにしてしまえば人を支配やすいし、集団の結束は盛り上がり、一家団欒のユートピアも安泰だ。
しかし人間の基本的な生態は、他者の考え(心)や行動に「反応」することにあるのであって、同じことを考え同じ行動をすることにあるのではない。
「他者の存在に気づく」ということ、これが基本的な体験だ。相手が魅力的だと感じるのは「気づく」という体験であり、すでに知っている相手と一緒に話していても、絶えずこの心の動きが起きていることによって「楽しい」という体験になる。われわれは、他者と「一緒にいる=共生している」のではなく、他者と「出会い続けている」のだ。「気づく」という心の動きがなければ、楽しい会話にならない。
いいことも悪いことも、人は「気づく」という体験をしてしまう。「気づく」という体験によって心が活性化する。家族内では、関係が密着しすぎて「気づく」という心の動きが起きてこない。みんなが同じことを考え同じ行動をすることが前提になって「気づく」という心の動きが封じられていることの鬱陶しさ、それが一家団欒である。
「気づく」という体験は、家族の外に出て豊かに起きてくる。
人間が家族をつくるのは、家族の外に出たときに他者に「気づく」ときめきがより豊かに体験されるからかもしれない。家族のホームドラマで完結する生のいとなみなどない。
ホームドラマで完結させようとしたから、ホームドラマは挫折したのだろう。
ホームドラマで完結できるのは、家族の外もみんなが同じことを考え同じ行動をする社会においてのみであり、70年代までの戦後社会はひとまずそういう構造になっていた。
アメリカ社会は、みんなが「神との関係」を持ちアメリカ万歳のナショナリズムで結束しているのなら、それはそのままホームドラマである。
しかしこの国では、「神との契約」の意識も「日本万歳」の意識も持てないまま「みんなが同じことを考え同じ行動をする」社会をいとなんできて、その無理や矛盾が露出してきてホームドラマが挫折したのだろう。
現在はもう、みんなが同じことを考え同じ行動をする時代ではない。若者たちは、他者の心の世界に干渉しない関係の作法を身につけはじめている。干渉しないのは他者の心の世界に気づく感性を持っているからであり、団塊世代のように他者も同じだと決めつけているのではない。
人間は、同じことを考え同じ行動をする生き物ではない。他者に「反応」する生き物である。日本人はもともと神とか国家に対する意識が希薄だから、どうしても人間の自然が露出してしまう。それが幸せなことか不幸なことかはわからないが、それが伝統なのだ。
お育ち、というのか、どんな民族もそうかんたんにはみずからの伝統から逃れられない。



みんなで共通の敵を持てば、みんなで同じように考え同じように行動することができる。まあ人類史における共同体(国家)はそのようにして発生してきたし、大陸の共同体(国家)はつねにそのような状況の中に置かれた歴史を歩んできた。
しかし日本列島の住民のみんなが「国家」という自意識を持ったのは、明治以降のことなのである。そういう「自意識」が希薄であるのが日本列島の伝統である。
無防備な裸の自分になって他者に気づいてゆく、という関係の作法。まあ、それまではよその国に侵略されたことがないから、裸の自分になることができた。弥生時代以来、裸の自分になってどんな外来文化もどんどん吸収してきた。今でもこの国では、たくさんの外来語が飛び交い、世界中の文化を受け入れている。
日本列島の住民には共通の敵などいない。したがってみんなで同じように考え同じように行動することはできない。それぞれの出会いにおいて、裸の自分になって目の前の他者に「反応」していっているだけである。そのつど裸の自分になって目の前の他者に反応していっているだけである。
自分なんか持っていないのが日本人の「自分」なのだ。そうやって他者に気づいてゆく。他者に「気づく」装置として自分を持っていないのだ。
日本人は、他者が敵か味方かと選別するための自分を持っていない。だから、ひとまずすべてを受け入れる。受け入れたあとに自分が発生する。最初からある自分なら、受け入れるということはしない。敵か味方かを選別するだけである。しかし日本人の自分は、受け入れることによって生まれた自分だから、「受け入れている自分」である。つまり、「他者(世界)に気づいている自分」として自分が発生する。
「自分」は、他者(世界)から一瞬遅れて発生する。他者(世界)が存在することに気づいているのが「自分」なのだ。われわれはその「自分」によって生きている。他者(世界)に先行する自分などというものはない。
人間の自然においては、自分を物差しにして他者(世界)を分析吟味するのではない。他者(世界)が物差しになって自分に気づいてゆくのであり、だからわれわれの「自分」は、自分が生まれ育った環境や自分の国の伝統風土に浸されたかたちで形成されてゆく。そして外来文化を受け入れるとき、外来文化がそういう伝統風土に浸された「自分」の中を通過してアレンジされてゆく。
われわれの「自分」は、すでに伝統風土に浸されてある。アメリカ人だろうとフランス人だろうと、みんなそうなのだ。
「自分」は、他者(世界)から一瞬遅れながら、伝統風土に浸された「自分」として発生する。
何はともあれ日本列島の伝統風土に浸された「自分」は、「神との関係」を持っていないから、核家族の密着した関係に耐えられない。伝統を喪失した戦後の一時期はそれでもよかったが、伝統風土が回復してきた今となってはもう耐用期限が切れかかっている。
伝統風土に浸されたわれわれの「自分」は、核家族ホームドラマにそぐわない。たぶん、これからますますそのちぐはぐさがあらわれてくるだろう。いじめとか、引きこもりとか、DVとか、老人介護とか、遺産相続とか、そのようなところですでにどんどんあらわれてきている。そういうひどい状況が、若者の非婚化の傾向を生み出している。
核家族ホームドラマは、団塊世代のところですでに終わっている。その、すでに終わっている核家族ホームドラマを、われわれはこれからどうやってやりくりしてゆくのだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ