嘆きの哲学と哲学の嘆き
この先の世の中はいったいどのようになってゆくのでしょうね。
いずれにせよ僕にとっての不愉快な政治状況はまだまだ続くらしい。いや、もっとひどくなるのでしょうか。
あの人は、他人を信じていない。他人を信じないことは、この世の中で出世するためのもっとも有効な武器のひとつです。
まあ今どきは、右翼全体が他人を信じていない世の中らしいです。
僕は、左翼ではないが、反自民・反右翼です。それはつまり、明治以降の政治史が好きになれない、ということです。
べつに確たる政治思想など持ち合わせておりませんが、大日本帝国とか国家神道というようなものはグロテスクだと思います。
とくに明治以降の国家神道制度の醜悪さには我慢がなりません。
で、日本列島の伝統としてのほんらいの神道とはどういうものかということは、ここ数年ずっと考え続けています。
起源としての神道は、古代の仏教伝来のときに、仏教に対するカウンターカルチャーとして民衆社会から生まれてきました。
そのようにして民衆社会から生まれてきたプリミティブな神道が、千数百年かけてじわじわと国家権力に乗っ取られてゆき、ついにはモダンなカルト宗教というかたちで民衆支配の道具へと変質してしまったのが明治政府による国家神道であり教育勅語した。
国家主義というのは、国家権力のプロパガンダによって生まれてきた思想であり、明治政府は国家神道によって民衆の心の中に国家主義を植え付けてゆきました。洗脳していった、というか。
少なくとも江戸時代までの民衆の頭には、「国家」という概念はありませんでした。だから、国歌も国旗もなかったのでしょう。
もともとのやまとことばの「国(くに)」という言葉に「国家」という概念は含まれていなかったのです。まあ、「故郷」とか「世の中」というようなニュアンスでした。
明治以降の民衆がなぜああもかんたんに国家主義に洗脳されてしまったのかといえば、その洗脳の道具がもともと民衆のものだった「神道」だったからでしょう。
だからわれわれは、ほんらいの神道と国家神道とは似て非なるものだということをちゃんと確かめる必要があるのではないでしょうか。
起源としての神道は民衆社会のたんなる祭りの習俗だったのであり、明治以降の国家神道はまぎれもなくカルト宗教です。だから僕は、「民族」とか「伝統」というものにこだわりながらも、右翼が嫌いなのです。
われわれ民衆は、「民族」とか「伝統」という概念を、右翼という名の国家主義者たちの手から取り戻す必要があるのではないでしょうか。
明治以来のたかだか150年の国家主義や家族主義が、どうして「伝統」と決めつけられねばならないのでしょうか。
国家や家族は人と人の関係の結果としてあるだけのものであって、国歌や家族の存続のために人と人の関係が決定されているというようなものではないでしょう。人間性の自然として、そんなふうになるはずがないでしょう。
日本人にとって国家とは何かとか家族とは何かというような伝統はないのです。
日本人の人と人の関係の作法はどのようにはぐくまれてきたか、という伝統があるだけです。
日本列島の伝統に、国家論とか家族論というようなものはないのです。
国家も家族も、人と人の関係のなりゆきの結果としてつくられていけばいい、というのが日本列島の伝統なのです。
だから日本列島の歴史においては、家系図なんか適当に捏造しても許されてきたし、江戸時代までの民衆の頭の中には国家という概念などいっさいなかったのです。
大和朝廷の発生以来、国家を意識してきたのはいつだって権力社会だけだったし、一部の神道がそういう国家権力と結託しながら国家神道がつくられてきたのです。
日本列島の伝統においては人と人の関係がいちばん大切なのだし、今でもだれだってそのことをいちばん気にしながら生きているはずなのに、どうして国家論や家族論が優先されてしまうのですか。だから、今どきの右翼はいけ好かないのです。
僕は伊勢の生まれだから伊勢神宮は大好きだし素敵な神社だと思っていますが、日本史において最初に国家権力と結託していったのは伊勢神宮の神官たちによって生み出された「伊勢神道」です。
現在のあの愚劣な国家神道は、古代の伊勢神道からはじまっています。
したがって現在の伊勢神宮に残されている儀式に起源としての神道のかたちがあるというわけではないのです。あんなものは、国家権力と結託しながらもったいをつけてそれらしいかたちに仕上げられてきただけの、むしろ時代とともにもっともても変質してしまった、いわばただのカルト儀式なのです。
起源としての神道は、田舎の鎮守の杜におけるぴーひゃらどんどんの祭りの賑わいの中にこそ残っているのです。
僕だって伊勢神宮の森や川や橋や建物は大好きだけど、伊勢神道なんてろくなもんじゃないですよ。
僕が子供のころに通った小学校のそばに皇学館大学という伊勢神道の本拠地があって、あの陰鬱な雰囲気の石造りの建物はまさにカルト宗教の秘密結社のようで、ほんとうに気味悪かったです。
あの建物のそばを通るたびに僕は、あの中でわけのわからないおどろおどろしい儀式がなされているのだろうな、と想像していました。
もしかしたら皇学館にはお化けが住んでいる、というような噂があったのかもしれないし、自分で勝手にそう決めつけていただけかもしれないし、今となってはもうよく思い出せません。
まあ僕にとっての国家神道というのはそういうイメージで、後年、神道をそういうカルト宗教にしてしまったのは江戸末期の平田篤胤という国学者だったということを知りました。
僕は今でも、「皇学館」という言葉そのものに不気味さと恐怖を感じます。
幼少期に伊勢神宮のそばで暮らしたものからすると、大好きな伊勢神宮を国家神道というカルト宗教の巣窟にしてもらいたくないという気持ちがあるし、してしまえる人たちも気味悪いです。
正月や終戦記念日などに伊勢神宮や靖国神社の参道を妙な旗を立てて行進している人たちを見ると、ゾンビの群れのように思えてしまいます。
僕は神道を日本的なメンタリティの原点だと思っているけど、国家神道はとても気持ち悪いです。
ほんらいの神道には国家という概念などないし、人を支配する教え(教義)もありません。ただもうこの世界の輝きを祝福しているだけです。それが、神道の原型であり本質なのです。
みんなで世界や他者の輝きを祝福しながら集団として盛り上がってゆくのが、神道という祭りの賑わいの作法です。
神道とは、祝福の作法なのです。
今どきの右翼は、祝福するということを知らなすぎます。外国を敵視したり女を差別したりとか、そんなことばかりじゃないですか。
起源としての神道は、世界や他者を他愛なくときめき祝福してゆく祭りの賑わいの作法だったのです。
まあ今どきは右翼も左翼も、「日本人に生まれてよかった」とか「自己肯定感が大切だ」とか、おかしな屁理屈ばかりこねてきます。
われわれが人間として祝福しているのは、自分ではなく、世界や他者のはずです。人は、そこから生きはじめるのではないでしょうか。
だれもが他者を祝福している世の中なら、自分を祝福する必要なんかないでしょう。
自分のことを忘れて他者を祝福しているのなら、自分を祝福している必要なんかないでしょう。言い換えれば、人間は根源において自分を祝福したり肯定したりする根拠を持っていないから、自分を忘れて世界や他者にときめいてゆくことができるのでしょう。
たぶんだれの心の底にも、何かのはずみで「自分なんか生きている値打ちもない人間のクズだ」思ってしまう傾向が潜んでいるのでしょう。だからかんたんに「死んでしまいたい」とか「もう死んでいい」と思ってしまったり、うつ病になったりするのでしょう。
自分を肯定し、自分に執着し、いつも自分のことばかり意識しているのが普遍的な人間性だというわけではないでしょう。
何が「日本人に生まれてよかった」か。
自分は日本人だという意識など希薄であるのが日本列島の伝統なのです。それが、古代のおおらかさというものです。
日本人であるという前に人は、生きてあるというそのことにいたたまれなさやくるおしさや悩ましさを抱えている存在であり、その「嘆き」から人としての「おおらかさ」が生まれてくるのでしょう。
生きものは根源において生きられない存在であり、だからこそ他者に「生きていてくれ」と願ってしまう。みんながそう願っていたら、だれも「自分には生きる権利がある」などと思う必要はないでしょう。
生きるいとなみは、根源において「もう死んでもいい」という勢いでなされているのです。その勢いがなければ生きるいとなみは成り立たないのです。
「もう死んでもいい」という勢いで命のエネルギーを消費してゆくのが生きるいとなみです。その勢いがなければ、もったいなくて消費できないでしょう。
生きものは、その勢いで子を産み育てる。これは、生物学の問題であって、倫理や道徳の話ではありません。人類の歴史は、その勢いで進化発展してきたのです。
まあそんなことを語りたくて、ユーチューブをはじめようと思いました。
でも、こんなしょぼくれたジジイが家族に内緒で世間の前に顔をさらしてしゃべるということは、そうそうスムーズに勢いがつくというものではないようです。
撮影のために新しいスマホを買うのに1週間かかり、マイクとか三脚とかホワイトボードとかをそろえるのにさらに二週間かかり、これからユーチューブの手続きの仕方を知り合いに教えてもらいに行ってきます。
それから撮影をはじめ、ユーチューブの番組としてアップするのは、はたして9月中にできるかどうか。
僕と同年代でも簡単に始めることができる人はいくらでもいるのだろうが、何しろこちらは徹底したパソコンオンチだから、なかなか前に進めないでいます。
あきらめて手を引いてしまえば一番楽なのはわかっているけど、やっぱりそうはいきません。
この世界はわからないことだらけだし、世の中に流布している人類史や日本文化論の通説に対しては、「そうじゃないだろう」といいたくなることがたくさんあります。
「そんなの変だ」とか「そんなことあるものか」と思えることがたくさんあって、それでも黙って生きているというのは、まあやっぱりちょっといたたまれないものがあります。
今どきは本の受け売りをして知ったかぶりをすることが全盛の時代で、本や教科書に書いてあることを解説する番組がユーチューブの主流らしいのだけれど、それはこの社会が停滞していることの証しでしょう。
既存の情報や考え方だけでいいのなら、世の中は前に進まないでしょう。
人類史における既存の学説はつねに変更され続けているのであり、そうやってたえず変転してゆく動きを持っているのが人間の世界の普遍的なかたちではないでしょうか。
既存の常識を疑うということ。「わかる」のではなく「なんだろう?」と思うこと。それが人間的な知性の基礎であるはずです。
気取った言い方をすれば、「わからない」という知の荒野に立って身もだえしたり途方にくれたりするところから「考える」ということがはじまるのであって、「わかる」ということは考えることの終わりでしかありません。
言い換えれば、「わかる」ということは、そこでさらにたくさんの「わからない」ことと出会う、ということです。そうやって「わからない」ということに身もだえしているからこそ既存の通説を「疑う」という思考態度が生まれてくるというわけです。
「批評」とは「疑う」ことであり、それこそが人間のもっともプリミティブな思考態度だと僕は考えています。
つまり、「知る=わかる」ことではなく、「なんだろう?」と思うこと。それがほんらいの「学ぶ」ということです。
「学ぶ」の「まな」の語源は「興味深いもの」や「親愛なもの」のことで、それに「不思議」「震える」の「ふ」がついて「なんだろう?と思う」こと、「探求する」こと、というようなニュアンスになります。
「なんだろう?」と思うことは、「疑う」ことでもあるはずです。
「学ぶ」とは、「疑う」ことや「不思議に思う」ことであって、「わかる」ことではないのです
近ごろは「教育系ユーチューブ」というようなジャンルがあって本や教科書の解説動画が流行っているらしいが、だからといって人々の知的好奇心が活発にはたらいている時代だともいえないような気がします。考えることを省いて手っ取り早い解答を欲しがっているだけかもしれません。
また、人生や金儲けのハウツー本とか自己啓発本が本屋の棚を賑わわせていることだって、お手軽な解答を欲しがっているだけのことであり、それもまた時代の停滞や閉塞感をあらわしているのでしょうか。
哲学をするのに哲学の本を読む必要なんかありません。考えればいいだけです。人間や歴史について「なんだろう?」と思えばいいだけです。だれでも知っていることに、もう一度「なんだろう?」と問い直せばいいだけです。その結果として自分の考えたことがプラトンやマルクスやニーチェと同じだったとしても、それは本を読んで得た知識とは根本的に違います。「考える」という過程があるかないかの違いです。そその「過程」のとをを、古代のアジア人は「道」といっていました。
考えることの醍醐味というのはやっぱりあるわけで、それは「わからない」という荒野に分け入っていくことであり、恋することと同じです。キスすることと同じです。
哲学とは、「わからない」ということに恋することであり、じつは何がわかるわけのものでもないのです。
宗教にはその先に「悟り」の境地や天国や極楽浄土が待っているけど、哲学がたどり着く地平は、さらに深くて多くの「わからない」ということです。
死ぬまで「わからない」という荒野の分け入ってゆくこと、それが哲学や批評の醍醐味であり、それが人間の地のはたらきの本質なのだろうと思います。つまり人類の歴史はそうやってはじまり、永遠にそうやって流れてゆくのだろうと思います。
恋する人も失恋した人も、死者を想う人も、みんな哲学者ですよ。そのへんの知ったかぶりの哲学オタクよりも、ずっと哲学的な存在ですよ。
つまり、哲学をすることと哲学者であることとはまた別のことなのですよね。
哲学者とは哲学をお勉強する人のことであって、彼らがみんな哲学をしているとはかぎりません。
それに対して何でもかんでも「なに、何?」と聞かずにいられない幼児は、まさしく哲学をして生きているともいえます。彼らはそれを言葉にすることができないけど、じつはわれわれよりもずっと深い世界の真実に気付いているのかもしれません。
まあ僕がユーチューブでしゃべりたいのは、古人類学における起源論のことや、縄文・弥生時代の歴史を通しての日本文化論のことなどですが、それはまた自分が生きている今ここを問うことであり、永遠の未来に続く人類普遍の問題を問うことでもある、と考えています。