民衆は政治の話をするべきか?
人とかかわりたい気持ちはないわけではないが、世の中の政治経済の話をするのはめんどくさい、という気持ちがあります。
そしてこれは、平均的な日本人の心模様ではないかと思えます。
でも、こうやってブログを書いたりユーチューブを見たりしながらネット世界に身を置いていると、なんだか政治経済の話をしないのが後ろめたくなってきます。
このブログをはじめたころは、自分の興味が赴くままにネアンデルタール人のことや日本文化論のことなどを書いているだけで気が済んだのだけれど、それをするのが後ろめたくなってきたのはなぜなのでしょう。
安倍政権がはじまって、民衆が追い詰められてゆくという事態がどんどん進んできたからでしょうか。
いくらなんでもそれはないだろうというひどい政治が平気でなされているのは、政治に無関心であるわれわれの責任だろうか、という思いが僕の中で徐々に膨らんできたようです。
また、日本会議という国家神道を信奉するグループが政治の世界に強い影響力を持つようになってきたというのも、とても気になることでした。
あんなただの邪道でしかない神道がほんとうの神道だといわれるのは、僕にとって我慢のならないことでした。
だから、数年前から神道と天皇の起源のことを書きはじめました。
そしてこのことを書きながらどんどん政治に無関心であることが後ろめたくなってゆきました。
政治のことなんか無関心で生きていたいですよ。
でも、無関心でいたいのならブログなんか書くな、という声がどこかから聞こえてきます。
ブログなんかただのプライベートなページのはずだけど、やっぱり書くからには自分の中に読んでくれる人をイメージしています。
ただの自己満足だけで書くことなんかできません。
たとえごく少数の読者であろうと書くからには楽しんでもらいたいという気持ちはあるし、自分のような生きていてもしょうがない半端な人間にとっては、世間様からこのブログのページをお借りしているという意識がどうしようもなく疼いています。
権利だなんて思っていません。書くことを許していただきたいと思って書いています。
まともな社会人の人にはわからないだろうけど、われわれのような世間のごくつぶしは、正直いっていつもこわごわ書いているのです。
記事をアップするときは、いつも「えいやっ!」と、それこそ清水の舞台から飛び降りるような決心をしているわけです。
ただの自己満足だけの記事だと、その決心がなかなかつかないのです。
そうやって、書きたいことがあるのに書けなくなってゆきました。
世の中にはまじめに政治のことを心配している人がたくさんいるのに、自分だけ知らんぷりしていていいのだろうか、という気になってしまいます。
それくらいひどい政治が横行している世の中ではないでしょうか。
今やもう、知らんぷりしていられるレベルではないですよね。
そしてひどい政治だと思っても、それに対する的確な批判ができない自分を、ちょっと恥ずかしいと思います。
そして的確だとも思えないような批判がたくさん発信されていることにも、なんだかなあ、という幻滅も覚えたりします。
そんな世の中で、山本太郎という政治家には頑張ってほしいと思うのだけれど、れいわ新選組の妙な内輪もめが起きて、その処理の仕方もなんだか粗雑で、すっかり人気を落としてしまったみたいです。
「命の選別発言」をした候補予定者を除籍処分にしたのは正しいと思います。
でも、その手続きの踏み方のドタバタ感は、ちょっと見ていられない景色であったのは確かです。
その発言をした候補予定者に命の問題をレクチャーするとかと言って、だれがレクチャーするのかと思ったら、障害者10数人を連れてきたなんて、とんだ茶番です。彼らは選別される当事者であっても、人類社会にとっての命の問題とは何かということを研究するプロではないですからね。
それをするなら、そういうことを研究しているプロとしての生物学者とか医者とか哲学者とか文学者とか評論家とか社会学者とか、そういう人たちを呼んでくるべきでしょう。
そして基本的には、人類はまだそういう問題を解決していないのですよね。
ダーウィンの進化論の「適者生存」という概念はかんたんに優生思想と結びついてしまうのだけれど、この概念というか法則が科学的に正しいか間違っているかということはまだ決着がついていません。
正しいのなら、優生思想をきっちりと否定仕切ることはできなくなってしまいます。
「適者生存」とは何か、「優生思想」とは何か、まずはそういう概念をきちんと説明できる研究者を呼んでくるべきでしょう。
障害者を並べてレクチャーするなんて、これが山本太郎の発想かまわりの者たちの提案なのかは知りませんが、考えることがあまりにも安直で情緒的過ぎます。
僕は政治とかかわっている人たちに対するある種の引け目というかコンプレックスのようなものはあるのだけれど、それでも「お前らの考えることはその程度か」という幻滅は覚えてしまいます。
もちろん僕は、あの「命の選別発言」をした候補予定者の思想や哲学なんて陳腐極まりないものだと思っているし、人間的にもあまり好きではありません。それでもやっぱり、もっとスマートな対処の仕方があっただろうという感想はぬぐい切れません。
ともあれ僕は、ダーウィンの適者がたくさんの子孫を残すという「適者生存」の法則が科学的に正しいとは思いません。
そう考える根拠は何かと聞かれたらなかなか一言では答えられないのだけれど、とにかく、倫理道徳的にではなく、科学的に間違っているのだと考えています。
これは人類史の大問題だし、僕だって何人かの理系の人と議論をしたこともあるのだけれど、とにかく「適者生存」なんて、科学的につじつまが合わない話ですよ。
たとえばみごとな羽模様を持った一羽の孔雀がいつもいい気になって見せびらかしていたら、真っ先にキツネやイタチやオオカミなどの天敵に見つかって食われてしまうでしょう。そうして結果的に、羽模様が見事な孔雀ほど子孫を残せない、ということになるはずです。
進化論の法則は「適者生存」ではないのです。
またこのことは、クジャクの羽模様が見事になっていったのはもちろんメスと交雑して子孫を残すためだったわけだけど、同時にそれは「もう死んでもいい」という勢いでそうなっていったことだったのであって生き延びようとする目的だったのではない、ということを意味しています。
われわれはこういうパラドキシカルな命のはたらきをどう考えればいいのでしょうか。
進化論は生き延びるための戦力ではなく「もう死んでもいい」という勢いで起きてきたことであり、結果的にそれが生き延びることになっていった、ということでしょう。
ダーウィンが考えた「適者生存」の法則なんかあまりにも安直すぎて信じられないし、この考えもまたひとつの近代合理主義思想かな、と思ったりします。
とにかく「適者生存」などといっていたら優生思想が生まれてくることはもう避けられないのであり、人格者ぶってそれはだめだといっても決定的な説得力にはならないのです。
障害者を並べてレクチャーしたって、動かせない正義にも真実にもなりえないのです。
そんなの、正直言って茶番劇です。
ほんとに山本太郎には頑張ってもらいたいのだけれど、れいわ新選組そのものの活動は、「なんだかなあ」と幻滅することがたくさんあります。
噂によれば極左勢力がバックにいるとかという話だけれど、右でも左でも政治思想を振り回されても、われわれ民衆はついてゆけないのですよね。
われわれ民衆が応援するのは、政治思想や政策ではなく、その政治家としてのたたずまいというか心の姿というか、そんなようなものでしょう。
だから僕は、石垣のり子にしても大石あきこにしても、そのきっぱりと「私をいやだ」といって見せる態度は、それはそれで政治家としての美しいたたずまいだと思えるわけです。
また、ただの民衆のくせにまるで国を背負っているかのような顔をして中国や韓国との外交政策がどうのといいたがるのは、強硬派の右翼も謝るべきだという左翼も、「何をしゃらくさいことを言ってるんだろう」と思ってしまいます。
国を背負っているつもりであるのなら、どうすれば仲良くできるかということを教えてくれ、といいたいです。
僕は「民族」という言葉が嫌いではないから左翼ではないのだろうが、国家神道がほんとうの神道だと思っているバカな右翼も大嫌いです。
国家という概念とは無縁の古代の民衆から生まれてきた起源としての神道がどんなものであったのかということが大いに気になります。そしてそのことを基礎にした日本文化論をユーチューブで発信したいとこのごろずっと考えています。
まあ最初は8月になったら始めるつもりだったのだけれど、まわりから「みすぼらしいジジイがそんなことをしても誰も見てくれないからやめとけ」とか「一家の恥さらしだからやめてくれ」といわれ、自分でも「やっぱりそうだよなあ」という気持ちがぬぐえないし、なかなか決心がつきかねてぐずぐずしながらここまで時間が過ぎてしまいました。
いちおう100本分の原稿は書き上げました。
次にするべきことは、それを読み上げる動画を取ることで、ホワイトボードも使うつもりです。
覚悟の問題だから、どんなに恥ずかしくても、それなりのリスクがあったとしても、顔出しはしようと決めています。
そして一挙に100本の動画をつくり貯め、それを毎日一本ずつ発信して何の反応もなければ、そこでやめようと思います。
つくり貯めないでそのつど一本ずつ配信してけっきょく5本か10本で挫折してしまうということになったら、あまりにも情けないから、とりあえず100本つくっておいてから発信します。
まあ何の見栄えもしないジジイがきわめてニッチなジャンルのことをぼそぼそしゃべっているだけですからね。勝算なんか、まったくありませんよ。
また、本や教科書に載っていることを解説つもりはないのだから、役に立つ情報とはいえません。
本気で日本人とは何かとか日本文化とは何かと考えている人の刺激になるようなことが話せたら、と思っています。
ただし現在のこの国のユーチューブを見る人のほとんどは本や教科書の内容の解説動画を望んでいるそうだから、まあ僕なんかお呼びでないことでしょう。
でも外国で暮らしている日本人の人は、国内の人々よりはもっと客観的にもっと切実に日本人や日本文化のことを考えているのだろうし、そういう人たちの何人かにも届けることができたらいいな、と思ったりしています。
とりあえず、明日から具体的な一歩を踏み出します。