この生の後始末
れいわ新選組が、ネット界隈で変な騒動を巻き起こしました。
発端は大西つねきという人の「命の選別」発言で、「政治の仕事は命の選別をする責務を負っていて、老いた人から順番に死んでいってもらわねばならない」というような趣旨でした。
まあ素直に謝っておけばよかったのだろうが、「俺は間違ったことをいっていない」と尻をまくってしまいました。
それが正しいかどうかというのはどうでもいいことで、人がそれを聞いてどう思うのか、という問題があるだけなのですよね。
「許すべきだ」とか「許してはならない」とか「間違っていない」とか「間違っている」とか、そういうさまざま意見が飛び交っていたわけだけど、まあ人がなんと思うと人それぞれですからね。
なんでもいいのだけれど、そうやって「判断する」というその態度が、なんだか胡散臭いなあ、と思ってしまいます。
まあ政治家は「判断する」のが仕事だろうが、僕は政治家ではないから判断なんかしたくないし、できません。
何なのでしょうね。
正義も寛容もよくわかりません。
怒りたくなる気持ちもわかるけど、怒ってもしょうがないということもあるのでしょう。
そして「許してやれよ」といわれても、「いちいち人の気持ちまで指図するな」という意見だって成り立ちます。
「判断する」とは、自分は正義だと思っているということであり、自分は寛容だと思っている、ということでしょう。
どっちもどっちだし、どっちもどっちでいいのでしょう。仕方ないことなのでしょう。
世の中というのは、いったい何なのでしょうね。
だから僕は、政治のことはあんまり考えたくないのです。
考えたくないのに、考えないといけないという強迫観念に襲われて、いやになってしまいます。
4人乗りのボートに5人が乗っている。ひとりが降りないと全員が死んでしまう。
だったらいちばん歳をとっている人に下りてもらうのか?
もしその人が「死ぬのは怖い!」「死ぬのは嫌だ!」と泣きわめいたら、あなたならどうしますか?
死ぬのがいちばん怖くない人に下りてもらうのがいちばんいいのかもしれません。
どうせだれの命もしょうもない命です。
そして、自分の命よりも他者の命の方が大事だというのが、人間性の根源にある命題であるのかもしれません。
また、「だったらみんなで死んでしまおう」という提案があっても、それは間違いだともいえないでしょう。
僕には、正義も寛容もよくわかりません。それが政治家に必要なものであっても、僕に必要なものだとは思えません。
政治のことを考えるのは、ほんとに鬱陶しい。
なのに今、このブログで政治以外の日本文化論や人類学のことを書くのが、どんどんきつくなってきています。
コロナウイルスのせいでしょうか。
そうかもしれません。
だからYouTubeをやって恥をさらせば自分に納得をつけられるのではないか、と思ったりしています。
日本文化論や人類学の講座チャンネルです。そこに塹壕を掘って大学の先生に反論してゆきたいことがあるし、おバカなギャルに聞いてもらいたいこともあります。
さっきのボートの話なんか、おバカなギャルに決めてもらうのがいちばんいいのかもしれません。
彼女はこういうでしょう。
「だったら私が死んで上げる」と。オトタチバナヒメのように。
遅くとも8月半ばまでには発信をはじめたい、と思って今準備をしています。