感想・2018年6月27日

  「思想とは何か」

街を行く知らない人はみな美しい。顔も見たことのない人はさらに美しく、そんな人がこの世のどこかに生きていることを思うのは、ひとつの希望にも慰めにもなる。
原初の人類は、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくろうとして二本の足で立ち上がった。そうやってホッとして他者にときめいていった。「空間=すきま」をつくろうとすることは人の本能であり、それ自体他者の存在を祝福することでもある。
他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくることは、他者の存在を祝福することです。そこに、人間性の自然がある。
トランプやかるただって、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福し合う行為であるし、人類の贈与すなわちプレゼントという行為は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」に物を差し出す行為としてはじまった。
「空間=すきま」のない関係は鬱陶しい。文明制度が現れたとき、民衆には支配されることの鬱陶しさが迫ってきた。そこで彼らがいくばくかの「空間=すきま」を確保しようとするならもう、黙って支配されてやるしかなかった。こういうのを「奴隷の自由」というのかもしれないが、「支配されるもの」であることは人の本性であり、「無主・無縁」の誰もが「支配されるもの」であることが人類ほんらいの集団のかたちで、そうやってネアンデルタール人は誰もが献身し合っていた。まあこのことは、べつに彼らが知的で心が清らかだったかとか、そういうことではなく、そういうかたちになるほかないような厳しい生育環境だったということです。彼らは、「人みな美しい」と思っていたし、それこそが「無主・無縁」の集団性の精神です。


ある読者の方が、僕のことを「思想家」だといってくれた。
もともと政治オンチだから「思想」などというものを意識したことはなかったのだが、ほんらい思想は誰にでも必要なもので、このことを意識しながら書いていってみようとも思っています。
政治オンチの思想。
われわれは文明国家の制度の下で暮らしているわけで、支配権力はたえずわれわれが思考停止に陥ってしまうことを画策してくる。なぜならそれが、もっとも支配をスムーズにする方法だからでしょう。
われわれは、つねに思い考えることをしていないと、この生が停滞し、心が澱んでいってしまう。平和で豊かな生きやすい世の中だが、その「生きやすい」ということ自体に病理が潜んでいる。若者においても大人においても、発達障害になったり鬱病になったり認知症になったり自殺してしまったり、どうしてそんなことになるのか。
安楽に生きることと、人として自然であることは、同じではない。人として自然であることは、とても難しいことかもしれない。まさに「あやしうこそ、ものぐるほしけれ」で、生きてあることはなやましくくるおしい。
思い考え続けることが支配権力に抵抗することだともいえるのだが、今どきは多くの知識人でさえ思いも考えることも雑になってしまっている。それほどに支配権力のかたちが高度で巧妙になってきているのでしょうか。
まあ、よくわかりません。
しっかりした政治思想を持っている人は尊敬するけど、政治に興味がないのも政治のことがよくわからないのもこの国の民族性だし、そこにだって人間性の自然がないともいえない。政治なんて、もともととても不自然なものでしょう。政治思想ばかりとんがってネトウヨになってしまったりするし、彼らは自分が日本人であることにものすごく執着し「在日」とか「反日」などといって執拗に人を攻撃するけど、その恨みがましさと自分に対する執着は日本的ではない。
人は、この世界を祝福する心を持っていないと生きられない。自分のことなど忘れて世界を祝福してゆく他愛なさ、原初の神道は装置だったのだろうと考えています。世界や他者を裁くのではなく、祝福するということ、そういう日本列島の伝統風土について考えたい。
日本人や日本列島を祝福するのではなく、「かみ=この世界の本質」を祝福するということ。日本列島それ自体は、災害も人も多く、おまけに支配者は伝統的にやりたい放題のことをしてくる存在だし、とても生きにくい場所です。それでもわれわれはこの世界の森羅万象を祝福してゆくことができるか。
たとえ政治オンチでも、思想は持っていないといけない。そうでないと、政治家に心の中まで支配されて、思うことも考えることも停滞し澱んでしまう。世界を祝福できなくなってしまう。
日本列島はもともと権力者と民衆では世界観も生命観も違うのだから、たぶん洗脳されたらいけない。民衆のくせに権力者のような心になったら、混乱したり硬直したりしてしまうだけでしょう。
権力者とは思考停止している人種だと僕は思っています。だから彼らは、大手を振って民衆を思考停止にしようとしてくる。
というわけで僕が考えるほんものの民衆とか庶民とは、思考停止していない人のことです。
東裕紀は『動物化するポストモダン』といったが、現代社会は人が思考停止に陥っている状況があるのでしょう。それはつまり、古代人や原始人は迷信深くてたいしてものを考えなかったと決めつけるのは間違いで、文明制度が発達した現代社会で暮らすわれわれのほうがむしろ鈍感でろくにものを考えなくなっているという傾向があるのかもしれない。
知識とは、ものを考えることを省く装置です。人間は本質的に「怠け者」だから、人類史は避けがたくそのように進化してゆく。歩くことを省くために自動車や乗り物が生まれてきたのと同じでしょう。
でも人は感じたり考えたりすることをせずにいられない生きもので、そのようにして「ほんもの」の民衆や庶民が存在している。民衆は、本性的に思考力や想像力をそなえている。古代人や原始人は、われわれが推量よりもずっと深く豊かにこの世界やこの生について考えたり感じたりしていたのではないでしょうか。